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こぼれたミルクのし方



18. 馬鹿な男と、幸せな女


 行楽日和だった三連休が明けても尚、好天は続いていた。オフィスビルの十二階の窓から眺めると、雲ひとつない澄んだ青が、高く遠く広がっている。
「お疲れ。今からお昼?」
 弁当箱の入ったポーチを片手に休憩室へ向かっていたわたしと優花の背後から、誰かがそう声をかける。振り返ると、駅前のベーカリーショップの袋をさげた舞が立っていた。ちょうど彼女もこれから昼休憩らしく、わたしたちは並んでフロアの南端にある休憩室へと向かった。

「それにしても、美沙は本当にお酒強いよね。強いとは思っていたけど、予想以上に強くてびっくりした」
 優花が感心したように、強い強いと連発する。あまり強調されると、かなりの酒豪みたいで恥ずかしい。
「みねっちと対等に飲んでいたもんね。酔った美沙は歌うし踊るし、楽しかったよ」
「最後はキス魔になっていたしね」
「いや、なってないから。記憶はちゃんとあるから騙されないよ」
 あれだけ飲めば記憶が飛んでいると思ったのだろうか。わたしを焦らせようと画策した舞がそう言うと、優花が目を輝かせてそれに便乗する。だけど残念ながら、酔ってふわふわとしていたものの、最初から最後までほぼ記憶はあるのだ。わたしが微塵も動揺しないので、ふたりはつまらないと言って口を尖らせた。

「記憶があるから、皆に心配かけたのも覚えてる。金曜日はちょっと調子に乗って飲み過ぎました。ごめんなさい」
 あまりにもたくさん飲んで、体はゆらゆら揺れて受け答えはへらへら頼りなくて、だからわたしをひとりで帰して大丈夫だろうかと皆が困惑していたのも知っている。あんな風に酒に逃げるような飲み方をしたのははじめてで、色々と後悔したので、わたしはしおらしく頭を垂れた。
「確かに珍しく酔ってはいたけど、何も迷惑なんてかけられていないから気にしなくて良いよ」
「そうそう。美沙はいつもきちんとしてるから、むしろ少しくらい醜態さらしてくれても良いくらいだよ」
 いやいや、醜態を晒すのは駄目でしょう。舞の発言に思わず突っ込みを入れると、優花が一瞬躊躇したのち、気遣わしげに尋ねてきた。
「何かあった?」

 わたしの返事を待つふたりの表情に、やはり心配をかけていたと心がちくりと痛む。だけど同時に気にかけていてくれたことが嬉しくて、わたしはふたりに甘えたくなった。
「実はあの飲み会の前日に、前の会社で仲の良かった同期が結婚したことを偶然知ったの。その相手が元カレで、何か色々と動揺してしまってあんな風になってしまいました」
 偶然目にしたトークアプリのアイコンの写真。軽い気持ちでタップして見れば、新郎が一年前までわたしが付き合っていた相手だと判明したのだ。
「それは、二股っていうこと?」
 遠慮がちに、舞がそう尋ねてくる。わたしは小さく首を振った。
「分からない。わたしが彼と別れたのは去年の九月だから、そのあとすぐに彼女と付き合い始めてトントン拍子でゴールインしたのかも知れないし」
 だけどその前からわたしたちの間では喧嘩が増えていて、わたしが彼と別れる頃には既にふたりは付き合い始めていたのかも知れない。いや、もしかすると、もっと前からふたりは想いを通わせていたのかも知れないのだ。正直その可能性を否定できないくらい、わたしは同期である彼女の気持ちが分からなかった。
「彼とはお互いの気持ちが離れて別れたから未練もないんだけど、あっさり別の同期と結婚したことを知ると少しもやもやしてしまって」
「それはもやもやして当然だよ。誰だって動揺するよ!」
 わたしが隠していた気持ちを吐露すると、優花がそう力説してくれて。自分の気持ちが醜いものではないのだと思えて、少し安心した。

 フロアの南端にある休憩室は、電子レンジと電気ポット、それから自動販売機が設置されたシンプルなスペースだ。だけど、大きな二面窓から都会の街並みを一望できるスペースは解放感があり、ランチタイムはいつも若手社員を中心に賑わっている。一番混み合う時間だったものの自販機近くの席が空いていて、わたしたちはそこに腰かけるとお弁当を広げた。
「ああ、昼から会議ダルいなあ」
 不意に、不機嫌そうな声が耳に入る。ちらりと見やると、ふたりの女子社員が飲み物を購入する為に自販機に硬貨を投入していた。
「今回は早めに議事録仕上げないと、また主任に怒られるよ。少しでも期日を過ぎたら、あの人すぐ不機嫌になるんだから」
 分かってるよとうんざりしたように返すと、炭酸飲料を手に彼女たちは立ち去って行った。顔に見覚えはあるが名前は知らないその子たちは、高いよく通る声で、嫌でもそのやりとりが耳に入ってきて思い出したくない記憶が蘇ってきた。
「美沙、大丈夫?」
「また二日酔い?」
 そんなつもりはないが、余程沈んだ表情をしていたのだろう。優花が心配そうに、舞が盛り上げる為に、そう尋ねてくる。
「違います。金曜日からお酒は飲んでないもん」
 わざと憤慨したようにそう言うと、ふたりは疑惑の声を口にするので、わたしは分かりやすくいじけて見せた。

 そうやってひとしきり笑ったあと、お弁当の卵焼きをつつきながら、躊躇いがちにわたしは口を開いた。
「わたしね、誰かが怒るからやりなさいという言い方が苦手なんだ」
 やるべき仕事だったり、守るべきルールだったり。やって当然のことを、誰かが怒るからやるというのは表現がおかしいと思うのだ。
「ああ、さっきの子たち? 確かに、さっさと議事録仕上げれば良いだけなのに、あそこで上司を悪者する必要性があるのかなとは思った」
 クラブハウスサンドにかぶりついていた舞が、先程のふたりの会話に思い至ったようで、さらりとわたしの意見に同調する。優花は黙って、わたしの言葉に耳を傾けていた。
「わたしは前の会社でも経理だったんだけど、なかなか他部署の人たちに期限を守ってもらうのが難しくて。だけど営業部は、営業事務の同期のお陰でいつも期限が守られていたの。経理の仕事をちゃんと理解してくれていると感謝していたんだけど、ある日偶然、聞いちゃったんだよね。自分が経理に怒られるから、期限を守れと後輩に説教しているのを」

 経理は本当にうるさいんだから、ちゃんと期限を守ってよ。そうじゃないと、攻撃されるのは営業事務のわたしなんだからね。
 たまたま用事で営業部に行ったら、ちょうど同期が一年目の営業社員にそう説教している場面に出くわした。提出期限が守られなければ当然こちらの業務に支障が出るので急かすことはあるけれど、わたしだって平社員だし叱責なんてできるわけない。だけど新入社員の彼はその言葉を真に受けて、経理課って何様なんですかねと嫌悪感を隠しもせずに吐き捨てた。
 ああ、いつもそうやってわたしたちを悪者にしていたのか。恐らく彼女は本気でそう思っていたわけではなく、一部のルーズな人たちに期限を守らせる為の手管としてそう言っただけなのだろう。期日を守る重要性を唱えて仕事をさせるよりも、誰かを悪者に仕立て上げ、わたしが困るんだからねとやる方が男性が多い営業部では効果的だったに違いない。実際それで営業部は提出期限を破る割合が少ないので、別に経理として文句を言う筋合いはないのだろう。
 だけど、ずっと信頼していた同期として、傷つかないわけはない。彼とこじれた時も、美沙には経理の立場があるのだからととりなしてくれた彼女の言葉は、嘘だったのかとわたしはやるせなくなった。幸い彼女たちはパテーションの影で話していたので、わたしの存在に気づいておらず、わたしは誰かに見られる前に足音を忍ばせて退散した。

「怒られるからやるなんて、子供の考え方じゃん。期日を守るなんて、社会人として基本でしょうが!」
「更にその考えを、後輩に植えつけるのがまずいよね」
 今日もモノトーンの服でシンプルにまとめている優花と、オレンジ色をベースに髪からネイルまで華やかに気を配っている舞と。見た目は対照的なのに考え方は共通していて、それが少し面白い。そんなふたりが自分の為に憤慨してくれているのを見て、この会社でふたりと知り合えて良かったと、わたしはしみじみ思った。
「もしかして、美沙の元カレと結婚したのがその営業事務の子?」
「まあね」
 わたしが苦笑いで肯定すると、優花と美沙は露骨に顔をしかめて見せた。
 同期の中で一番仲が良かった彼女が、冗談でもわたしたち経理のことを陰で悪く言っていたことは内心かなりショックで、それ以降は自然と距離をとるようになり、退職後は二度と連絡をとることはなかった。転職してからは新しい職場に慣れるのに必死で、正直忘れかけていたけれど、彼と結婚したことを偶然知ってしまうと嫌な記憶を次々に思い起こしてしまう。今はそれなりに楽しく仕事ができているのだから、過ぎたことで不快な気持ちになるなんて不毛だと頭では理解しているけれど、本当はわたしが彼と付き合っていた時からふたりは想いを通わせていたのではないかという疑念が沸き上がってくるのだ。白かも知れないし、黒かも知れない。だけど答なんて今更分かるわけはないし、どうぞお幸せにと軽くスルーするのが自分にとってもベストなのは理解しているのに、醜い気持ちを抱えたままの自分が嫌だった。

「世の中には知らなくて良いことが、絶対あるよね」
「本当にそうだよ。たまたまアイコンの写真がウエディングドレス姿に変わっているのに気づいて、結婚したんだと思って拡大しちゃったの。別に向こうから連絡があったわけじゃなくて、勝手に見つけて勝手に悶々として、自分でも馬鹿だなあって……」
「ああ、それは見ちゃうよね。もう、そんな辛い思いしてるなら言ってよ。大して飲めはしないけど、愚痴吐きには付き合うよ」
 水臭いなあと、優花と舞が少し呆れたように笑う。そんなふたりに感謝しつつ、気持ちがぐちゃぐちゃだったのはそれだけが原因ではなかったから相談を躊躇したのだと心の中で言い訳する。
「でも、今の話を聞いてると気持ちの切り替えが終わったみたいに聞こえる。表情もすっきりしてるし、連休中に良いことあった?」
 そんなわたしの事情を知らない筈の優花の指摘に、一瞬どきりとする。割と感情が読めないと言われるけれど、そんなに分かりやすく幸せオーラを出してしまっているのかと少し恥ずかしくなった。
「美沙はちゃんと、過去に囚われていても意味がないって分かっていたんだもんね。飲んで寝て、自力で復活して偉いよ。そんな辛いことがあったなんて知らなかったから、わたしはてっきりはっしーと喧嘩して様子がおかしいのかと思っていたのに」
「実はそれ、わたしも思ってた。何だか少し険悪な雰囲気に見えたから、仕事で揉めてるのかとちょっと心配していたんだ」

 ああ、やっぱり全然隠せていなかった。ふたりの台詞に、わたしは顔を覆いたくなった。短いやりとりだったので気づかれていない筈だと自分に言い聞かせていたけれど、所詮酔っ払いの記憶なんてあてにならないものだ。しっかりとふたりに怪しまれていたようだ。
「えっと、実は……」
 予想もしない間抜けな展開で、橋本と両想いであることが判明した二日前の土曜日。あれから浮かれ気分のまま別れ、わたしは雲の上を走っているようなふわふわとした足取りでもと来た道を戻って行った。けれども翌日の日曜日はわたしが学生時代の友人たちとの予定を既に入れており、祝日の月曜日は橋本が友人の引越の手伝いをする約束をしていて会えなかった。早速タイミングが合わないなといつもの調子で互いに軽口を叩き合いながら、あの河川敷で別れたあとはメールのやりとりだけでどうしても思いが通じた実感がなかった。
 だけど付き合っているのは妄想なんかじゃなく事実で、だから優花と舞には直接自分の口からきちんと報告しなければと思っていた。今が絶好のタイミングではあったけれど、ランチタイムの休憩室は相変わらず満席だ。わたしたちの隣の席も企画課の人たちが座っていて、彼らの会話は弾んでいるものの、わたしたちの話が耳に入ってもまったく不思議はない距離の近さだ。
「ふたりに報告したいことがあるんだけど」
 そう言いながらも周囲を気にする素振りを見せると、ふたりはすぐに意図を分かってくれて、今日は舞が残業の予定だから明日飲みに行こうと即決した。今の会話の流れでわたしの報告の内容に見当がついたのか、それともまったく予想がついていないのか。楽しそうに行きたい店を挙げているふたりからは判断がつかないけれど、そろそろ昼休みも終わりなのでわたしたちは空の弁当箱の入ったポーチを持って立ち上がった。


「それなら、新山さんはどうよ?」
 休憩室を出て事務所に向かっていると、エレベーターホールの手前で唐突にわたしの名前が聞こえてきた。自然と足が止まり、思わず会話の内容に耳を澄ませてしまう。
「何でそこで、新山さんの名前が出てくるんですか?」
「だって新山さん、おまえの為にあの阿呆に歯向かってくれてたじゃん」
 ここから会話の主は見えないが、その声には聞き覚えがある。というよりも、このシチュエーションに既視感があり過ぎた。
 隣で優花が呆れたように溜息をつく。直接話したことはないが声の主は営業一課の東野さんで、とんでもない話題を振られているのが橋本だということは、姿が見えなくても分かってしまう。他に話題はないのかとか上司を阿呆呼ばわりするのかとか、相変わらず噂好きの東野さんに突っ込みどころは満載だけど、この状況ですたすたと通り過ぎる勇気はなくてわたしは心底うんざりした。
 何よりも、橋本が何と答えるかが怖い。ばっさり否定されたら、さすがにちょっと立ち直れないだろう。

「惚れてますよ。付き合い始めたばかりなので、余計なこと言って邪魔しないでくださいね」
 会話の内容が中学男子並みとは言え、仮にも先輩なのにそんな言い方して大丈夫だろうか。いや、そうじゃなくて。今、奴は何て言った!?
 予想外の答にフリーズしたわたしを、両側から優花と舞が歓声をあげながらばしばしと叩く。舞が何としても一時間以内で残業を終わらせるから女子会は今日決行だと息巻いて、優花は七時に店の予約を入れるとさくさく話を進めている。色々聞かせてもらうからねと両側から微笑みを向けられ、わたしは何故こうなったと頭の中で自問した。

 ――何だ、この馬鹿な男。
 きゃっきゃとはしゃぎながら両脇から腕を組んだふたりに、わたしは引きずられるようにエレベーターホールに連行される。驚いた表情の馬鹿男と目が合い、いたたまれなくなって俯いた。
 誰が聞いているかも分からない職場で、あんな風に言い切るなんて馬鹿な男だ。なんて声に出さずに毒づいてみても、顔が火照るのはどうしようもない。
「美沙、顔真っ赤だよ」
 嬉しそうにそう指摘した優花から逃れるように、わたしは右手で自分の顔を覆う。恋人になったばかりの相手を馬鹿と心の内で罵りながらも、ふつふつと湧き上がる喜びに口元が緩むのを抑え切れなかった。



2019/08/29

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