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こぼれたミルクのし方



19. もう一度注がれたミルク


「新山さん、こちらお願いしますね」
 営業事務の五十嵐さんがそう声をかけながら、わたしの席の横にあるプラスチックのトレーに書類をばさりと置いた。
「はい、承知しました」
「あと、これも」
 書類トレーは三段になっていて、仮払申請や現金精算などの各申請書をそれぞれ入れられるようになっている。なのにわざわざ一枚だけ別に直接手渡されて、何だろうと思って目を通すと、それは変更申請書だった。
「五十嵐さん、これ……」
「ころころ担当者が変わってごめんなさい。変更よろしくね!」
 そう言ってわたしの肩をポンと叩くと、満面の笑みでウインクして去って行った。いや、正確には左目を瞑ろうとして右目も半目になった、ウインクらしきものだったけれど。

「五十嵐さん、変な顔してましたけど大丈夫ですかねえ」
 経理課長がぼそりと呟く。どうやら奥の席からわたしたちのやりとりを見ていたらしく、その言い方が面白くて思わずぶっと吹き出した。
「えらく機嫌が良さそうだったけど、何を申請してきたんだ?」
 ファックスを送信していた主任がそう言って、わたしの手の中の申請書を覗き込む。そして、にやりと笑った。
「良かったね、新山さん」
「べ、別にわたしは……」
 五十嵐さんが持って来たのは、購買システムの担当者の変更申請書だ。以前、アリュームの担当が橋本から大山課長に変更になったのだが、何故か担当をまた橋本に戻すという申請だった。
 二日前に一緒に飲んだ時にはそんなこと一言も言ってなかったので、今日決まったことなのだろうか。経緯はよく分からないけど、五十嵐さんも喜んでいたし、別に裏があるわけでもないのだろう。良かった。橋本の頑張りがちゃんと報われて、本当に良かった。
 そっと喜びに浸っていると視線を感じ、見上げると主任が愉快そうに笑っていた。一瞬、無意識に口元が緩んだ自覚があったから。わたしは慌てて表情を戻し、何事もない風を装って購買システムにログインした。

 あの日、何を血迷ったのか橋本は噂好きの東野さんに交際宣言し、その話は瞬時に営業部に広がったようだ。午後の業務に就いて五分後には、営業二課の峰岸さんから社内メールが届いていた。わたしが橋本の彼女だと知っているから、だから五十嵐さんもあのウインクもどきのおちゃめな仕草をわたしに見せてくるのだ。正直いたたまれない。真面目だと思っていた経理課の主任ですら、言葉にしないものの表情がにやにや楽しそうだった。あれは絶対に知っている顔だ。本当にいたたまれない。
 東野さんの伝播力が正直どのくらいなのか分からないけれど、だけど時折向けられる生温かい視線さえ我慢すれば、あとはいつもと同じ日常だった。社内恋愛や結婚をしている人は他にもいるので、特にわたしたちが珍しいわけでない。そもそもいい年した大人なのだから、カップルが一組誕生したくらいで騒ぐわけがないのだ。生温かい視線は向けられるけれど。
 管理職も知っているのかなと思いつつ、老眼鏡をずらしながら書類を読んでいる課長をちらりと盗み見る。やがてわたしはパソコンに視線を戻すと、管理者ページからユーザー情報を変更した。

     ***

 十月も終わりになると、日差しの強さもすっかり和らいでいる。まだ紅葉には早いけれど、木々の緑色の色素は少しずつ薄まっているようで、真夏の濃い緑から黄味がかった緑へとその色を変えている。
 そんな木の葉を揺らす爽やかな風に吹かれながら、わたしは大きく伸びをした。

「疲れた?」
「ううん。気持ち良いなと思って、深呼吸していただけ」
 差し出されたペットボトルのお茶をありがとうと言って受け取ると、わたしはそう答えた。
「三郎太、楽しそうだね」
「もともと散歩好きだけど、今日はいつもよりテンション上がってるよ」
 今日は朝から橋本とドッグランに来ている。まあ所謂、デートというやつだ。犬と遊ぶことが目的だからお洒落よりも動きやすさ重視のファッションで、デートという単語が気恥ずかしい感じだけれど。
「本当に、こんなところで良かったの?」
「もちろん! 一年で一番気持ち良い季節だから外に出かけたかったし、何より三郎太と遊びたかったの」
「犬、好きなんだな」
「小さい頃ずっと飼いたいとねだっていたんだけど、マンション住まいだから飼えなかったの。だから三郎太と一緒に遊べて嬉しい」
 今日のプランを提案したのはわたしだ。橋本が実家で犬を飼っていることを知り、季節も良いので一緒にドッグランに行きたいとお願いしたのだ。それならドライブがてら少し遠出をしようと、郊外にあるこの公園を見つけてきたのは橋本だった。
 三郎太はどうやら地中に半分埋まっているタイヤがお気に召したようで、すっかりその横を陣取っている。先程まで一緒にボールで遊んだりしていたけれど、十一歳の三郎太も二十七歳のわたしも少々疲れてしまって今は休憩中だ。
「本気でじゃれ合ってて、ワンコみたいだったよ」
「何よ、そっちは長男でしょう?」
 三郎太は橋本の年の離れた弟が拾って来て飼い始めたそうで、長男の一哉と次男の伸二に続き、橋本家の三男坊として三郎太と名付けられたらしい。橋本は、云わばワンコの兄貴分なのだ。そんな軽口を叩き合いながら、少しずつ橋本に関する情報が増えていることが嬉しかった。

「そう言えば、昨日の男子会は楽しかった?」
「まあね」
 昨日は仕事終わりに、同期の男性メンバーで飲みに行ったらしい。ペットボトルのお茶を飲みながらそのことを尋ねてみると、橋本は歯切れ悪く肯定した。もしかして、何かあったのだろうか。ずっと気にかかっていたことを、思い切って尋ねてみる。
「峰岸さん、何か言ってた?」
「へ、峰岸? 何のこと?」
 峰岸さんは仲間内で付き合うことをあまり良く思っていないようで、それもあって橋本は優花に告白するのを躊躇していた節がある。わたしたちが報告するよりも先に東野さんによって交際が暴露される形にはなったが、峰岸さんからは速攻でおめでとうというメールが届いていた。だけど、あとから加わったわたしが橋本と付き合うことに対して、何か思うことがあるのではと少し不安だったのだ。
「仲間内で付き合うの、嫌かなって……」
「ああ、それね。俺たちはもう大人だし、俺も美沙も公私混同しないのは分かっているからあの発言は気にするなと言われたよ。あいつ大学時代の仲間内で、一組のカップルのせいでかなり迷惑を被ったらしく、何かそれがトラウマになっていたらしい。まあ、人に迷惑をかけなければ峰岸は誰が付き合おうが気にしないのは元から分かっていたし、もし仮に何か言われたとしてもそこは譲れない」

 付き合うことはふたりの問題だし、皆に迷惑をかけなければ別に何も言われる筋合いはない。確かにわたしもそう思っていたけれど、橋本にそう断言されてどきりとした。
「もしかして、気にしてた?」
「ちょっと……」
「峰岸の言葉の真意は最初から知っていたから、そこは枷にならないさ。告白を躊躇していたのは、彼氏になれなくても友人としてのポジションの居心地の良さを失う恐怖だけだ」
 だから、橋本は優花に告白できなかった。同期としての気安い関係を失うことが怖くて、ずっと告白できなかったのだ。
「言っとくけど今のは、美沙に手を出そうとしておきながら告白できずに逃げていた話のことだから、そんな不安そうな顔しないでよ。いつもみたいに馬鹿じゃないのっていう顔しておいて」
「ちょっと、それどんな要求よ」
 むっとして言い返すと、橋本は真剣な表情でわたしの顔を見つめてきた。
「旨い酒と肴を一緒に愉しんだり、仕事をサポートしてもらったり。美沙との関係はすごく心地良くて、だからそれを壊すのが怖かった。だけど、それでも彼氏という立場になりたいという欲を抱いてしまったんだ」
 目の前のタイヤの横で、遊び疲れたのか三郎太はうとうとしている。秋の空は澄み渡り、吹く風は爽やかだ。そんな長閑な空間で、この男は何という殺し文句を吐くのだろうか。
「馬鹿じゃないの……」
「あれ、馬鹿じゃないのの表情がいつもと違う」
 赤面したわたしをからかう橋本を睨むと、わたしはもう一度馬鹿じゃないのと噛みついた。



 その後わたしたちは公園内にあるドッグカフェで遅めのランチをとり、ふたりと一匹で再びボール遊びに興じて、西の空が茜色に染まる頃帰途に就いた。
「そう言えば、十一月に入ったらすぐ飲み会やるってさ」
「次は肉バルだっけ?」
 高速に乗ると、ふと思い出したように橋本が言った。恐らく昨夜の男子会でその話題になったのだろう。
「え、もう決まってるの?」
「前回の飲み会で決定したの。確かその次はタイ料理で、忘年会はモツ鍋だったと思う」
 全員が次に行きたい店のジャンルを挙げ、じゃんけん大会で順番を決めたのだ。そう説明すると、運転席の橋本は呆れたように溜息をついた。
「俺が主役と言われたんだけど、俺の意見は聞いてもらえないのかよ」
 そう橋本がぼやく。主役に希望を聞かず、盛り上がっていたあの日の面々の様子を浮かべ、わたしは思い出し笑いを噛み殺した。
「肉バル、嫌だった?」
「いや、肉好きだけど」
 拗ねたように答える。先程は男らしかったのに、今は子供みたいだなと可笑しくなった。

「最初はね、はっしーを労う会にしようと言ってたの。でも、祝う会になって良かったね」
 せっかく大口の定期契約をとりつけたのに担当の座を上司に奪われたり、別の取引先のお家騒動に振り回されたりと散々だった橋本を励ます為に企画された飲み会は、どうやら趣旨が変更になりそうだ。
 先日、五十嵐さんが提出した変更届のとおり、橋本はアリュームの担当に戻っていた。その日仕事が終わって電話で尋ねてみたところ、部長の一存で決まったとのことだった。体調不良で療養していた営業部の部長が先日復帰し、二代目に変わってから揉めている会社は橋本には荷が重いので大山課長に対応を任せる。その代わりアリュームを橋本に任せよう、となったらしい。部長がどこまで知っての采配かは不明だが、何かを察してのことであるのは間違いないだろう。大山課長は当然逆らえる筈もなく、表向きは対応できるのは課長しかいないという理由で面倒な案件を任されることになったらしい。
 会社には理不尽なことはいっぱいあって、受け流さなければやっていけない。だけど傷つかないわけではなくて、だから理不尽から守ってくれる人がいて、努力が正当に報われて良かったと心から嬉しく思った。

「そんなのんきなこと言ってて良いの? 俺が祝われるということはそっちも祝われるということで、死ぬ程いじられると思うけど」
 どうやら昨日の男子会で質問攻めにあったらしく、先程楽しかったかというわたしの問いに歯切れが悪かったのもそのせいらしい。わたしも橋本が東野さんに爆弾発言をした日に優花と舞に半ば拉致られて、あれやこれやと吐かされたので想像はつく。
「でもさ、女子会と男子会をそれぞれやってるし、次の飲み会の時にはさすがにこの話題は飽きてるんじゃない?」
「本当にそう思う?」
 そう聞き返されて、わたしは答えることができなかった。あの日の優花と舞は本当に生き生きしていて、わたしと橋本が揃うと再びテンションが上がるだろうと容易に想像がついてしまったのだ。

「普通に交際スタートしたことを報告していれば、ここまで騒がれなかった気がする。東野さんに宣言したのを聞いて、優花も舞も変なスイッチが入ったんだよ」
 わたしが恨みがましくそう言うと、橋本はぐっと黙り込んだ。けれど、少し考えたのち、きっぱりと言い切った。
「必死だったんだよ。色々やらかしているし、もう馬鹿な発言で誰かを傷つけるわけにいかないから」
 それはちゃんと伝わった。死ぬ程恥ずかしくて、この場で交際宣言するなんて馬鹿じゃないのと思ったけれど、だからこそ余計に嬉しかったのだ。それでも、あんな恥ずかしいのは二度とごめんだけど。
「俺の第一印象、最悪だっただろう? 最低な言葉を聞かれて、美沙の顔には馬鹿男と書いてあった」
「うん」
「やっぱり、そこは否定しないのな……」
 第一印象は馬鹿な男で、二度目の印象もやっぱり馬鹿な男だった。だけど、成り行きで飲みに行って仕事での関りが増えて。橋本の人となりを知って、少しずつ惹かれていったのだ。

「取り返しがつかないことをしたと思ったんだ」
 静かに発した言葉の重さに、思わず橋本の横顔を見つめる。けれどもハンドルを握っているので、視線は交錯しない。
「その場しのぎの不用意な言葉で誰かを傷つけて、聞いている人を不快にさせて。零れた水を元に戻すことができないように、同期の関係に戻れないかと思っていた。だけど馬鹿な発言はふたりの中で収めてくれて、じゃあ嘆いていたって仕方ない。見直してもらえるように頑張るしかないって思ったんだ。結局頑張り切れなくて、ヘタレ発動したけど」
 そう自虐的に笑う。失言に対する彼の後悔の気持ちはずっと感じていたけれど、はじめてその思いに触れた。一度発した言葉を取り消すことはできないから気にするなとは言えないし、彼自身が誰よりもそれを理解しているから慰めることもできない。だからわたしは、彼の言葉をそのまま返した。
「零れたミルクは元に戻らないけど、三郎太が美味しく飲んだよ」

 それは河川敷の公園で、ミルクを零して泣いていた女の子に橋本がかけた言葉だ。
「よく覚えてるな」
 橋本は少し驚いたように呟いて、小さく笑う。無駄なことばかりではなかったんだよ。そうであって欲しいという願いを込めてわたしがそう言うと、橋本はそれに答えず英文を口にした。
「It is no use crying over spilt milk」
「へ?」
「受験の時に覚えなかった? 英語のことわざ」
 そう言えば聞いたことがある。確か、覆水盆に返らずの意味だった筈だ。
「テキストでは覆水盆に返らずと訳されていたけど、厳密には違うんだってさ」
「そうなの?」
「覆水盆に返らずの意味は、一度零れた水はもう戻らなくてそこで終わりだけど、英語になると零れたミルクは戻らないから泣いても仕方がないという意味になる。泣いたってどうしようもないから、もう一度注いで次は零さないように注意する未来があるんだ」

 週末の高速道路は渋滞していて、先程まではスムーズに流れていたが先が詰まってきた。停止した車の中で、わたしは運転席の橋本を見つめた。彼もこちらに視線を移し、今度は目が合った。
 この人はミルクを零してしまったけれど、もう一度注ぎ直して零さないように注意してきたのだろう。だから東野さんの軽いからかいに、真面目に返したのだ。
「わたし、嬉しかったよ。死ぬ程恥ずかしかったけど、一哉が東野さんに言った言葉、すごく嬉しかった」
 わたしも前にミルクを零した。可愛げない物言いとか、気の強い発言とか。自分でも気づかないところで前の彼氏を不快にさせ、少しずつミルクを零しながら気づいた時には空っぽになっていた。だけど零したミルクは、この間の三郎太のようにどこかのワンコかにゃんこが美味しく飲んでいてくれたらそれで良い。次は零さないように注意するから、零れたミルクも決して無駄ではないんだと今はそう信じられる。

 不意に顔を寄せられて、唇と唇が触れた。
「ちょっと、いきなり何するのよ!?」
「仕方ないだろう。キスしたくなったんだから」
「周りの車から見られちゃうでしょう」
 ヘタレだと油断していたらたまに強引で、意外な顔を見せられるたびに動揺させられる。出会ってからまだ半年で、付き合い始めてから三週間程で。まだまだ知らない顔を見せられるのだろう。
「大丈夫、そんなに他の車なんて見てないさ」
 そう言って指と指を絡められた瞬間、後部座席からワンと鳴き声がした。後ろのシートに専用のドライブボックスを固定して、その中で三郎太は眠っていた筈だけれど、いつの間にか目を覚ましたようでじっとこちらを見ながら尻尾を振っている。
「三郎太が見てる」
「おい三郎太、空気読めよ」
「ちょっと長男、弟に何てこと言うのよ」
「弟じゃないし」

 夕日が差し込む車内は甘い雰囲気になりかけたけれど、すっかりいつもの空気に戻ってしまった。それを少し残念に思う気持ちがあるけれど。
「じゃあ、このあと三郎太を実家で降ろしてから夜のドライブに行こうか?」
 そう感じていたのは、どうやらわたしだけではなかったようだ。橋本の提案にこそばゆい気持ちになる。この人のことをもっと知りたい、もっとずっと一緒にいたいという気持ちが湧いてくる。
「うん、行きたい」
 そう答えると、絶妙なタイミングで三郎太が哀しげにクウーンと鳴いたので、わたしたちは声をあげて笑ってしまった。


< 終 >



2019/09/24

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