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こぼれたミルクのし方



17. ハッピービギニング


「何でここにいるの?」
 晴れた日曜日の河川敷。走り回る子供たちの歓声が聞こえるその場所で、わたしと橋本は同時に同じ質問を口にした。

 橋本には話さなければならないことも、謝らなければならないこともある。本当はスマホアプリのグループトークで皆に謝罪のメッセージを送ったあとで、橋本に個別で送ろうかとも思った。だけど二日酔いの回らない頭で考えた文章を送っても言い訳にしかならなそうで、とりあえず気持ちを整理しようと歩き始めたのだ。結局、いくら歩いても走っても、気持ちはぐるぐるしたままだったけれど。
 そんな中、予想もしない場所で偶然会って咄嗟に謝罪の言葉が出てこなくても、それは仕方のないことだろう。わたしはただジョギングをしていただけなのに、どうしてこんな状況になってしまったのか。混乱したまま突っ立っていたわたしは、さぞや間抜けな顔をしているだろうと思われた。

「実家がすぐ近所なんだ」
 とりあえず座ろうと促され、先程まで休憩していたベンチにふたり並んで腰かける。
「この三連休、両親が旅行中だからこいつの面倒を見る為に戻っているんだ」
 なあ、と話しかけながら頭を撫でると、愛犬は嬉しそうに目を細めた。以前ふたりで飲んだ際、途中まで一緒に帰ったので最寄駅は知っていた。さすがに実家までは知らなかったが、まさかこんな河川敷でたまたま会うなんて想定外にも程がある。
「そっちは走ってたの?」
 鞄も持たず、Tシャツとハーフパンツ姿で日焼け防止のキャップをかぶっていれば、誰だってそう判断するだろう。健康的だなと笑われて、色々考えすぎて精神面では全然健康ではないんですけどと、心の中で反論する。
「新山さんの最寄駅って、確か三和だったよな。結構な距離を走っているのな」
「いつもは夜に近所を少し走るくらいで、ここまで来たのははじめてだよ。あんたにどうやって謝ろうかと色々考えていたら、知らない間にここまで来てた」
 冗談めかして一気にそう説明する。それに対して橋本が口を開こうとしたけれど、彼が声を発する前に謝罪の言葉へと繋げた。
「陰口みたいなこと言ってごめん」

 秋の空は青く澄んでいて、その高いところを飛行機が白い雲を引いて飛んでいる。隣に座っている橋本を見るのは気まずくて、小さく消えて行く機体を見つめながらぽつりぽつりと説明した。
「昔の嫌なことを思い出したの。わたしのいないところで可愛げのない女だって言われたのをたまたま聞いて、そんな男は嫌だって。そのくせ肝心なことは言葉にせずに、態度で察して欲しいと逃げる人は嫌だなという意味で言ったの」
 半分本当で、半分は嘘だ。最近は記憶の片隅に追いやることに成功していた、かつての恋人のことを思い浮かべたのは本当。だけど同時に、隣に座っている男の顔がちらついていたのも事実だ。
 でもそんなことは言えない。言える筈がない。だって橋本は、ずっとずっと愚直に優花のことを想っていたのだから。
「でも、あんたに対する当てつけみたいな台詞だなって、言ってから気がついた。だから、不快にさせてごめんなさい」

 ――陰口を叩くな。言いたいことがあれば、本人に直接言え。
 などと偉そうなことがよく言えたものだ。一度吐いた言葉は誰かに聞かれてしまうと残ってしまうのだと、橋本の発した言葉に傷ついた優花を見ていて思った筈なのに。自分の心のもやもやを吐き出す為に、当人がいないと思ってわたしは軽率な言葉を口にした。馬鹿なわたしは、一度誰かの耳に入ってしまった言葉は先程地面にこぼれたミルクのように、元に戻すことはできないということを忘れていたのだ。
「新山さんが謝ることなんてないだろう」
 ずっと黙っていた橋本は、やがてきっぱりとそう言った。わたしは何となく突き放されたような気になって俯くと、茶色の犬がじっとこちらを見上げていた。
「俺のことを言ったのでないなら、謝る必要はない。俺のことを言っていたとしても、やっぱり謝る必要はないんだ」

 橋本が発した言葉の意味を図りかねて、思わずわたしは彼の顔を見つめる。すると橋本もじっとわたしの方を見ていた。
「あの夜のこと……」
 そう言いかけた橋本の言葉で、あの日の吐息がかかりそうな情景が蘇り、一気に頬が熱をもつ。このあとに続くのは謝罪の言葉しか思いつかず、だけどわたしはそれを聞きたくなくて、思わず息を止めた。
「あの夜のことは謝らない。だけど、何も言わずに逃げていたことは謝る」
 ごめんという言葉は予想していた意味と少し違っていて、だけどその真意は理解できず、わたしは戸惑いながら頭を下げた橋本のつむじを眺めていた。
「小憎らしいこと言うけど、仕事はいつも早くて。正論は容赦ないけど、旨そうに酒を呑んでる姿は可愛くて。いつの間にかあんたのことを思い浮かべる時間が増えていた」

 遠くで歓声が響く。向こう側でバドミントンをしている家族が、風でシャトルが予想外の動きをするたびに、悲鳴や歓声をあげて笑い合っているのだ。そんな平和な空間で、わたしの心臓は壊れるのではないかと不安になるくらいに早鐘を打っていた。
「な、何よそれ……。褒めてるのかけなしてるのか分かんない」
 思わず発した声は、予想もしない言葉に期待が増して、みっともなく上ずってしまう。お互い同じ想いを抱いていると、確信しても良いのだろうか。じわりと汗ばんだ手を膝の上で握りしめると、わたしは隣に座る橋本の顔を恐る恐る見つめた。
「悔しいけど、褒めてるよ。悔しいけど、あんたに堕ちたんだよ」

 ――だからあの夜、思わずキスをしようとした。

 広い河川敷で観念したように呟いた言い訳に、思わず力が抜けそうになった。
 わたしのことを好きなんじゃないのという期待と、ただ雰囲気に流されただけだから己惚れると恥をかくぞという警戒と。油断をすればすぐにあの夜の行動の意味を求め、相反する理由が頭の中をずっと占領していた。けれどもその答は、わたしが求めていた方だったのだ。
「散々片想いを拗らせていたから、自分の気持ちの変化になかなか気づけなかった。自分の無意識の行動に動揺して、合わせるが顔がなくてずっと避けてた。でも昨日のあんたの発言がショックで、あんたが嫌だと言った行動に自分が当てはまっていたことが本当にショックで。自分の馬鹿な行動を、死ぬ程後悔したんだ」
 それでようやく、自分の気持ちを自覚した。そう白状した橋本の顔は悔しそうにも不本意そうにも見えて、わたしは照れくささを隠す為に敢えてそのことを指摘した。

「何だか言葉と表情が一致していない気がするんだけど」
「仕方ないだろう。俺だけがあんたのこと想っていて、そっちは別の男のことを考えていたんだから」
 ああ、もう。呟きながら、大きく息を吐いた。不貞腐れたような橋本の表情を見た瞬間、わたしの心の中に溜まっていた澱はすっかり流されて、別の温かい何かで満たされる。
「同じだよ」
「え?」
「わたしも同じなんだよ。確かに最初は前に付き合っていた人のことを思い出していた。だけど、あんたの顔がちらつくのよ。皆に好みのタイプを聞かれて、責任感がある人が良いとかお酒を一緒に楽しめる人が良いとか、そんなこと考えてたらあんたのことが浮かんでくるの。だけどあんたは優花のことが好きでしょう? だから翻弄されたくなくてあんなことを言った。好きにならないよう自分に言い聞かせる為に、あんなことを言ったのよ」

 日曜日の河川敷の、ランニング途中の女性と犬の散歩途中の男性。果たして、わたしたちふたりが今想いを伝えあったばかりだと、一体誰が想像するだろうか。不意に、足元で大人しく座っていた茶色の犬がワンと鳴いた。
「何だ三郎太、祝ってくれるのか?」
 急展開にまだついていけてないご主人を祝福しているのかと思いきや、けれどもワンコはそのままだらりと寝そべってしまった。
「あーあ、締まらないなあ……」
 つれない三郎太の様子にそうこぼす橋本の様子が可笑しくて、わたしは思わず吹き出す。すると橋本も笑い出した。
 何の因果か憎まれ口を叩く相手に惚れてしまい、互いの告白の言葉には悔しさも滲んでいた。おまけに場所は河川敷で、わたしに至っては運動着にすっぴんで汗臭い。ロマンチックの欠片もない、人に話せば笑いしか起こらない告白劇だったけれど。
「とてつもなく締まらないけど、ハッピーエンドだから良いんじゃない?」
「うん、まあそうだな。でも、これが終わりじゃなくて始まりだけどな」

 この言葉を聞けただけで、今日好きと言えて良かったと思える。たとえ準備した告白じゃなく、行き当たりばったりの展開だったとしても。
 だからもう一度、わたしは恋愛をするのだ。今度は必ず幸せになる為に。



2019/08/12

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