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こぼれたミルクのし方



16. 河川敷にて


 シャワーを浴びて髪を乾かし、カーテンを開けて太陽の光で部屋が明るくなると、ようやく頭が正常に働き始めた。
 わたしはグラスに注いだ水を飲み干すと、スマホのアプリを開いて心配をかけた優花と舞に返信する。続けてグループトークで、同い年メンバー全員へ向けてメッセージを送った。

 わたしと橋本の態度がおかしいことに、他の人たちが気づいているかは分からない。あいつはわたしに小声で謝ってきて、わたしは弁解しようとしたけれど拒絶された。その短いやりとりを訝しむ人がいるとは思えないが、いかんせんわたしはひどく酔っていたので、何でもない風に振る舞えていたか自信がないのだ。だからわたしは、前の職場のことで少し落ち込むことがあって、いつもより飲み過ぎてしまったこと。それでみんなに心配かけたことを詫びる文章を手短に打ち込んだ。言い訳めいているが、それは嘘ではない。わたしの態度がおかしいのはすべてわたし側の問題であって、あの気の良い人たちのグループの輪を乱す気は微塵もないことを強調したかった。
 峰岸さんは、彼ら同期メンバーの間に恋愛感情が一切なかったから、入社以来ずっと良い関係を保っていると言っていた。その言葉に縛られて橋本は優花に告白できずにいたのだろうけれど、峰岸さんの言葉はある意味真理だ。だって同期メンバー内で交際していたわたしは、彼と別れて同期の絆も失ってしまったのだから。

 わたしと彼は、昨年の春頃から些細な言い争いが増え、とうとう関係を修復することができず夏の終わりに別れを決意した。丸三年付き合っていたので、考え方が合わなくなったとはいえ、別れたあとはそれなりに落ち込んだ。だけど同期メンバーとの関係もまた大切だし、恋人でなくなっても、彼を含めた関係は保ってゆきたいと思っていた。けれども、そう考えていたのはわたしだけだった。彼はわたしとの接触を極力減らしたかったようで、同期の飲み会を欠席するようになり、必要な仕事のやりとりも自分の後輩を介すようになっていった。せっかく良い関係だった同期のみんなに申し訳ない気持ちと、彼の子供じみた態度に対する憤りと。そんな複雑な感情を抱きながら、結局わたしたち同期の関係は自然消滅していった。わたしを除いて、他のメンバーが集まっていたのかどうかは知る由もないけれど。
 そんな苦い経験があるから、峰岸さんの考えは身に染みて理解できる。後から加わったわたしがあの空気を乱すような真似は絶対に許されなくて、だからこそ、月曜日にちゃんと橋本と話をして謝らなければならないと心に誓った。



 十月の空は、抜けるように青い。雲ひとつない空を見上げると、わたしはゆっくりと歩き出した。
 昨晩しこたまアルコールを流し込んで重くなった胃を労わるように、レトルトの野菜スープとヨーグルトを食べると、川沿いの道を歩こうと思いついた。いつもは夜なので街灯の少ない川沿いの道は避けていたのだが、昼間ならきっと気持ちが良い筈だ。澄んだ空を、揺れるすすきを、光る水面を。そんな風景を眺めれば少しは乱れた気持ちが落ち着くかと、心の底に溜まった澱が流されるかと、そう期待したのだ。

 結論としては、心のありようはそんなに簡単には変わらなかった。晴れた休日ののどかな景色は重い気分を晴らしてくれるわけでなく、色んな思いは胸の奥に絡まったままだった。ぐるぐると考えて考えて、それを振り切るように徐々に歩くスピードが速まってゆく。気づけばウォーキングはジョギングに変わっていて、気づけば見知らぬ景色の中を走っていた。
 一体どれくらい走って来たのか、随分と遠くまで来たことを自覚した瞬間にわたしは疲労を感じた。ちょうど橋の下の河川敷が公園になっていて、わたしは少し休憩することにした。川沿いを真っ直ぐ進んで来ただけなので道に迷う心配はないけれど、体力を回復しないとここからUターンして家まで持ちそうもない。わたしは公園の隅のベンチに腰かけると、かぶっていたキャップのつばをくいと押し上げて空を仰いだ。

 土曜日の河川敷は、小さな子供連れの家族で賑わっている。汗を拭いながら、わたしは見るともなしに平和な情景を眺めていた。不意に、目の前にいた小さな女の子が走り出す。手には何か飲み物の紙パックを持っていて、危ないなと思っていたら離れた場所から母親らしき人の尖った声が聞こえてきた。
「こら、おじちゃんに怒られるわよ!」
 女の子が駆け出した先には茶色の犬を連れた男性が散歩をしていて、どうやら彼女は犬に触りたいらしい。幼い娘を追いかけるわけでもなく、遠くから母親がそう叫んだ瞬間、女の子は小石にでも躓いたのかバランスを崩して転んでしまった。それは一瞬のことで、慌てて差し伸べた男性の手も間に合わなかった。手にしていた飲み物も当然地面に落ちて、白い水溜まりを作っているからきっと牛乳だったのだろう。反射的にベンチから立ち上がっていたわたしは彼女に駆け寄ろうとするが、大声で泣き始めたその子は、けれども自力で立ち上がった。

「大丈夫かい?」
 犬の飼い主はしゃがみ込んで女の子に視線を合わせると、そう尋ねた。泣きながらもこくりと頷いた子供は、自分の小さな手に牛乳パックがないことに気づいて足元に視線を落とす。自分の牛乳が地面に零れたことに気づくと、彼女は遂にしゃくりあげた。
「ほら、泣かないで。零れたミルクは戻らないけど、キミの代わりに三郎太が美味しく飲んでるから」
 男性が茶目っ気たっぷりにそう言うと、鼻をすすりながら少女が足元の犬を見やる。茶色のわんこは尻尾を振りながら、小さな白い水溜まりをぺろぺろと舐めていた。
「さぶろ、た……?」
「そう、三郎太。ほら三郎太、ごちそうさまは?」
 飼い主がそう言って頭を撫でると、鼻先に牛乳をつけたままワンと鳴いた。その愛嬌のある様子に女の子の涙は瞬時に止まり、傍目で見ていても分かるくらい一気にテンションが上がる。そっと小さい手を伸ばすと、ご機嫌な犬の背中をそろそろと撫でた。
 不意に、遠くから母親が少女を呼ぶ。どうやら帰るようで、急かすように彼女の名前を呼んでいた。
「さぶろた、バイバイ」
 名残惜しそうにそう言うと、少女は犬の背中をもうひと撫でする。
「おじちゃんも、バイバイ」
 もう一度母親に呼ばれ、彼女は振り切るようにそう言うと、母が待つ方へと駆け出した。

「おじちゃんじゃないっつーの……」
 飼い主は不服そうにそう呟くと、地面に転がっている空の牛乳パックを拾い、自分が手にしていたビニール袋に入れる。
「なあ?」
 そうしてこちらに向き直ると、わたしに同意を求めてきた。
 棒立ちのわたしは肯定も否定もできず、ただ固まったまま目の前に立つ橋本を見つめていた。三郎太は相変わらずご機嫌な様子で、ちぎれんばかりに尻尾を振っていた。



2019/07/14

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