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こぼれたミルクのし方



15. 可愛げのない女


 四年前、大学を卒業して就職したわたしは、一週間の新入社員研修を経て経理課に配属された。そして、指導係としてわたしに業務のすべてを教えてくれたのは、十歳年上の麻生さんという女性だった。

 麻生さんはとても仕事ができたけれど、職場の人との慣れ合いを好まず、勤続年数は長いものの社内に親しい人はいないように見えた。いつもポーカーフェイスで余計な話は一切せず、常に黙々と仕事をしている。自分にとても厳しく、同じ分だけ他人にも厳しい人で、社会人になったばかりのわたしはそんな麻生さんが苦手だった。他部署に配属された同期入社の殆どは年の近い先輩がOJTに就いていて、友達のように和気藹々としているのが羨ましかった。
 経理の仕事は、時として他部署の人に疎まれる。わたしたちはルールに則って業務を行っているのに、経費が落ちないとか期限に厳しいとか細かいことに煩いとか、そんな不満を口にする人がいるのだ。
 それが辛くて、入社一年目のわたしは一度だけ経費で落ちる筈のない領収書を受け取ったことがある。自分が悪者になるのが嫌だからとりあえず受理して、上の人が却下したという形を作りたかったのだ。たまたまその日は麻生さんが有休をとっていて、そのまま上司に提出したらこんなふざけた申請をあげるとは何事かと激怒し、申請者の上司に直接抗議しに行ってしまった。驚いたわたしがすぐに申請者に謝罪したところ、当人は自分が悪いのだから気にするなと言ってくれたけど、同じ部署にいた同期から聞いた話では上司からかなり怒られていたらしい。

 その時はじめて、わたしは麻生さんが他部署の人の毅然と接している理由を理解した。いつも麻生さんがいい加減な申請を退けているから、書類に不備があるとか非常識な申請をしてきたとか、そんなことは上司にまで伝わらずに済んでいたのだ。一方わたしは、若い自分が目上の人の依頼を断ることに抵抗を感じていて、それが自分の仕事だという認識に欠けていた。
「新入社員の申請でも必要経費なら支払われるし、管理職でも条件から外れていれば支払われない。それを判断するのが経理のあなたの仕事なの。わたしたちが上に回すのは、きちんと整った申請だけ。それは上司の手を煩わせない為でもあるし、申請者の為でもあるのよ」
 わたしが犯した失態に対して上司はわたしを叱責することはなく、翌日出勤した麻生さんが指導係として注意を受けていた。そして麻生さんもわたしを強く咎めることはなく、ただ淡々とそう語った。誰からも叱られなかったわたしの胸に、その言葉は強く刺さった。

 それから一年経っても二年経っても、麻生さんとの距離はずっと変わらなかった。雑談をすることもないので、プライベートに関しては一切知らない。一向に距離は縮まらないけれど、わたしの麻生さんに対する印象はいつしかすっかり変わっていた。入社当時は苦手意識を持っていた筈なのに、誰よりも働きやすい相手だと感じていたのだ。
 麻生さんの愛想は決して良くない。だけど、感情的になることも絶対にない。相手によって言動が変わることがなく、誰に対しても平等だ。ルールには厳しいけれど、同時に柔軟でもあった。
「本人の経費の申請の期日は厳守させなさい。一度大目にみるとキリがないから。だけど相手があるものに関しては、できる限り対応すること。もしもそれで営業が契約をひとつとれたとして、それが会社の利益になり、わたしたちの賞与にも関わってくるんだからね」
 麻生さんの教えはいつも筋が通っていて、だからわたしは密かに彼女をお手本にするようなっていた。

 けれども、大勢の人が集まって働いている組織の中では当然色々な考え方があり、わたしたちのやり方を理解しない人たちも存在した。自分たちは忙しいのだから、少しくらい融通を利かせろ。取引先相手に気を使っているのだから、社内の申請に細かいことを言ってくるな。そう主張する人たちが各部署に何名かはいるのだ。忙しいのは皆同じで、大半の人はきちんと期日までに必要なものを揃えて提出しているのだから、それができないのは単に能力が低いだけではないだろうかと思うがさすがに口にはできない。いくら経理に対して不平不満をぶつけてみたところで、それは会社の決まりで変わるわけがないのだから、期日を守りさえすればお互い気持ちよく仕事ができるのに。そう心の内で悪態をつきながら、こちらからは喧嘩を売るわけでなく、だけど決して迎合することなく淡々と職務をこなしていた。
 入社当時は誰からも嫌われたくない気持ちが強かったわたしだけれど、働いているうちにそんなことは不可能だということを悟り、理解できない人にはしてもらえなくても構わないというスタンスを貫くことができるようになっていた。わたしが分かって欲しい人たちにだけ理解してもらえれば、それで良い。だけど、一番分かって欲しい人には、経理というわたしの仕事を理解してもらえなかったのだ。

 わたしには同期入社が十七名いた。入社直後の研修中に一度だけ全員で飲み会を開いたが、各部署に配属されて以降は人数が多い為にスケジュール調整が難しく、気が合う者同士が連絡をとっている状態だった。わたしが配属された経理課には同期はいなかったけれど、研修中のグループワークで同じグループだった男女五名とは研修後も何かと理由をつけては集まっていた。やがて、月に一度くらいの頻度で飲み会を開いているうちに、わたしは海外事業部に配属されていた同期と付き合うようになった。
「美沙は感情論をぶつけてこないし、筋が通っているから話しやすい」
 男の人の好みに合わせたり甘えたりするのが苦手だったわたしは、彼が自分のことをポジティブに評価してくれたことが嬉しくて。向こうは大した意味もなく発した言葉だったかも知れないけれど、わたしにとってはその言葉がきっかけだった。
 別に恋人関係であることをおおっぴらにしたいわけではないが、だけどこそこそするのも違う気がして、付き合っていることは仲間内に伝えていた。けれど付き合ってからも特に同期の関係が変わるわけでなく、入社一年目よりは回数が減ったものの、数ヶ月に一度は気のおけない仲間との飲み会を開いていた。

「美沙は正論ばかりで疲れる」
 けれども入社四年目になると、わたしは変わっていないつもりでも、彼がわたしを評する言葉は変わってしまった。
「俺たちは海外相手に仕事してるから、時差もあって大変なんだよ。大事な案件があれば、社内申請なんて後回しにしなければならないこともある。そこを何とか調整するのが、美沙たちの仕事だろう」
 別にわたしたちは何時間も要するような作業を課しているわけでなく、各人が計画的に処理していれば済むだけの話なのに、まるで自分たちだけが忙しいかのように主張するのは違うのではないか。そう説明しても彼の考えは頑なで、どうやら彼が心酔している上司が経理を目の敵にしていて、海外事業部内で経理課の悪口を吹聴しているらしかった。組織の中では異なる立場の人たちが自分たちの考えこそが正しいと主張してくるが、全員が都合の良いやり方を押し付ければ上手くいくわけがなく、それを防ぐ為にルールが設けられている。わたしたちはそれに則って職務を遂行しているだけなのに、それを責められるのは理不尽以外の何ものでもない。そんな子供じみたことを言う管理職もどうかと思うが、良い大人なのにそれに同調する彼の考え方にも幻滅した。
「まあまあ、美沙には美沙の立場があるんだから」
 そんなわたしたちの険悪な雰囲気をとりなしてくれたのは、同じ同期入社で、営業事務として営業部を支えている子だった。彼女の理解のお陰で営業部の申請書類の不備は少なく、期限も厳守されている。彼との終わりは見えていたけれど、彼女という理解者がいることはわたしの心の支えだった。

「まったく新山の融通の利かなさは、だんだん麻生に似てきたな。と、悪い。おまえ、新山と付き合っていたんだっけ?」
 総務課に行くついでに社内便を届けて回った帰り、喫煙ブースを通りかかった際に、突然自分の名前が耳に入ってきた。思わずびくりと肩が跳ね、そのまま反射的に身を隠す。
「別にいいですよ。もう破綻してますし」
 わたしのよく知っている声が、投げやりにそう吐き捨てる。そんなことはわたしも分かっていたけれど、そんな風に憎らしげに言われると辛い。だってお互い好きだから付き合い始めて、彼がどう思っていたのかは知らないけれど、もしかしたら一生彼と過ごすことになるのかなという想像をしたことだってあるのだから。
「そうか。でも結構長かったんじゃないのか?」
「まあ、そうですね。でも、あんな可愛げがない女はもううんざりですよ」
 早く、終わらせておくべきだった。わたしは自分の決断力のなさを後悔した。ふたりとも、もう修復できないくらいに関係が壊れているのは分かっていたけれど、一緒にいた年月を振り返るとあっさり別れを決断することもできず。決定的な言葉を口にすることをお互い避けたまま、ずるずるとここまで来てしまったのだ。だけど、本人がいないところであんな風に言われるくらいなら、もっと早くに関係を終わらせておくべきだった。怒りか、悲しみか、屈辱か。いや、そのいずれも混ざり合った感情を抱え、わたしはようやく別れを決断した。

     ***

 耳の奥で小さく振動するような音で目が覚めた。やけに長く眠っていたような感覚があり、寝坊したかと焦って起き上がるが、次の瞬間に今日が土曜日だったことを思い出す。同時に昨夜の失態が数珠つなぎで蘇り、わたしはベッドの上で酒臭い溜息をついた。
 カーテンの隙間からは白い光が差し込み、窓の外に秋晴れが広がっているのは容易に想像がつく。時間を確認しようと枕元のスマホを手繰り寄せると、優花と舞からメッセージが届いていた。どうやら先程聞いた虫の羽音のような音は、受信を知らせるバイブレーションだったようだ。優花は昨晩、舞は先程メッセージをくれてるが、いずれも悪酔いしたわたしがちゃんと家に辿り着いたかを心配している様子だった。

 昨晩のわたしは何もかも飲んで忘れたい気分になって、乾杯のビールからハイボールを何杯か注文し、最後は峰岸さんとふたりで熱燗を何合か空けた。正直何を忘れたいのか、心の底に沈んでいる膿の正体にもやもやとしながら、とりあえず落ちた気持ちを引き上げる為に安易にアルコールに頼ったのだ。結果、身勝手な言葉を吐いて、軽蔑された。
 そのあとの記憶は、正直うろ覚えだ。わたしは酒に強いというのもあるけれど、元来の性格から誰かに迷惑をかけたりみっともない酔い方をしたくないという気持ちが強く働いて、ある程度の段階で無意識にセーブできていた。だけど昨晩は、来ないと思っていた人が突然現れ、最悪のタイミングで恥ずかしい言葉を聞かれていて動転した。パニックになって血が逆流したような気分になり、一気に酔いが回ってしまったのだ。何とか自力で家に帰ったけれど、失言のフォローも言い訳も何もできず、言い捨てて逃げて来たような状態だった。

「いい年して、何してるんだろう……」
 シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んで爆睡していたので、体中が酒臭い気がする。とりあえずベッドから抜け出すと、わたしは熱いシャワーを浴びる為に浴室へと向かった。



2019/06/23

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