こぼれたミルクの戻し方
14. 理想の人
駅前の居酒屋は、優花が調べたクチコミどおりなかなか料理が旨かった。もともとはオープン記念の特別料金に魅かれてこの店にしようと言い出したのだけれど、全員の予定が合わずに延び延びになった結果、特別割引の期間はとっくに終わっていた。それでも料金は手頃だし、メニューも豊富で店員の愛想も良く、全員で当たりだねと頷き合った。
「新山さんグラス空いてるね。何か飲む?」
「大丈夫です。さっき頼んだので」
わたしのグラスを見て佐野さんがドリンクメニューを差し出してくれたが、実は先程エビマヨが運ばれて来た時にこっそりハイボールを注文済みだ。相変わらず気遣いが優しい佐野さんにお礼を言うと、一番端の席から峰岸さんがからかうように声をかけてきた。
「さすが新山さん、仕事も飲みもソツがないな」
「何か全然嬉しくないんですけど」
「何でだよ。せっかく褒めてるのに」
そう言うと、豪快に笑いながら峰岸さんがジョッキを呷った。
「峰岸は嬉しそうだな。橋本がいないと俺らは全員弱いから、新山さんが付き合ってくれて良かったじゃないか」
向かいの席の田島さんは、既にハイテンションな峰岸さんに苦笑を浮かべている。そんな彼の顔は、乾杯のビールを飲んだだけでもう真っ赤だ。優花と舞もあまりアルコールに強いわけでなく、田島さんと佐野さんも付き合い程度にしか飲めないらしい。一方、既に三杯目の生ビールを飲んでいる峰岸さんは、イメージを裏切らない酒豪で、彼に付き合えるのは橋本だけなのだ。
そしてその橋本は、今日この場にいなかった。
「それにしても、はっしーは大変だな」
一杯目のぬるくなったビールをちびちびと飲みながら、佐野さんが誰にともなく言った。
「今日も冨和まで行ってるんでしょ。そんなに揉めるなら、もう切ったら良いじゃん。そこまで取引額も多くないらしいし」
「まあ、そう簡単にはいかないさ」
先日代替わりして契約解除を申し出てきた会社とはまだ拗れているようで、担当営業の橋本は今日も急に先方から呼び出されたらしい。今から冨和に行くことになったので、今日の参加は無理そうだ。アニメの人気キャラクターがゴメンと手を合わせているスタンプと共に、欠席の連絡がグループトークに届いた時刻は午後三時を過ぎていた。
売上を上げることは大事だけど、揉めている時間が無駄だから見切りをつけることも必要ではないか。そんな舞の意見は、わたしも内心ずっと感じていたことだ。二代目は知り合いの別の会社に乗り換えたがっているらしいが、それをほのめかして値引してもらえればという魂胆があるのかも知れないし、それは会社同士の交渉術として理解はできる。だけどこちらも妥協できるラインがあって、折り合いがつかなければそれはもう仕方ないのではないだろうか。先程までご機嫌な様子でビールを呷っていた峰岸さんは舞の主張に、少し真面目な表情に戻ってうーんと喉の奥で唸った。
「俺も課が違うから詳しいことまでは知らないが、あそこの会社の先代には、新入社員の頃から可愛がってもらっていたんだってさ」
先代は、二代目が乗り換えたがっている企業の契約条件が実績が乏しいにも関わらず好条件過ぎて、信用に足る相手なのか懐疑的なのだという。引退したもののあまりにも息子の方針が極端で危うくて、担当者の橋本に説得するから待ってくれと頼んでいるという状況らしい。新入社員の未熟な頃から世話になっている手前、取引先のお家騒動に巻き込まれてしまったものの、そう無下にはできないのだ。
「営業って、大変だね」
ぽつりと言った優花の言葉に、わたしたちは黙って頷いた。
「そんなの、どの部署だって同じさ。今回来れないはっしーの為に、近いうちにまた集まろうぜ」
「そうだね。じゃあ次回はどこに行く? 涼しくなってきたし、わたし鍋が食べたいな」
「お、いいな。俺、モツ鍋が食いたい」
肉バルやチーズフォンデュ、タイ料理に海鮮料理など、皆が口々に食べたいものを列挙してゆく。候補にあがったジャンルはあまりにもバラバラで、なかなかひとつに絞れそうにない。賑やかに自分の押しメニューをプレゼンしているメンバーの様子を眺めながら、わたしはハイボールをごくごくと呷った。
あの夜以来はじめて橋本と顔を合わせるということで、ぎくしゃくしないようにと密かに気合を入れていたが、急遽欠席になって肩透かしをくらった格好だ。時間が経つ程に気まずくなるか、それとも恥ずかしさが薄らぐか。ぼんやりとそう考えて、わたしは小さく首を振った。男の人の言動に振り回されると傷つくだけだから、気持ちが揺れないように自分をしっかり保とうと、昨晩そう決意したことを思い出す。あの夜のことは偶然の流れで、深い意味なんてなかったのだ。
最後の一口を飲み干すと、グラスに残った氷が小さくカランと音をたてる。目の前で繰り広げられていた議論は決着がつかず、決められないので全部行こうという結論に達して今はじゃんけんで順番を決めている。落ち着いた印象だった佐野さんと田島さんまで盛り上がっていて、そんな賑やかな様子を眺めながら、わたしは通りかかった店員さんにハイボールのおかわりを注文した。
「それでは次回開催のはっしーを労う会は、肉バルに決定いたしました。拍手!」
いつの間にか議長になっていた峰岸さんの宣言に、全員がパチパチと手を叩く。主役にまったく希望を尋ねていないが、皆満足げなのが何とも可笑しい。ちなみにその次はタイ料理で、忘年会はもつ鍋だそうだ。
「さて、無事に今後のメニューが決まったところで、本日のテーマに入りましょう」
峰岸さんの議長役はまだ続くらしい。そう切り出したところで、舞が待ってましたと合いの手を入れた。
「この度、森野優花さんに彼氏ができました。拍手!」
「マジで!?」
「良かったじゃん。おめでとう」
先程よりも拍手が大きくなる。どうやら偶然ツーショットを見かけたという峰岸さん以外の男性陣は知らなかったらしく、かなり驚いている。優花は峰岸さんが話題を変えようとした時点で自分がいじられることを予想していたようで、はなから苦笑いを浮かべていた。
いつから付き合っているのかとかどこで知り合ったとか、相手の年齢や職業など、わたしと舞が既に質問攻めにしたことを今日は男性陣が尋ねている。少し困ったように、そして幸せを隠し切れない表情で、優花が質問に答えてゆく。そのタイミングで、店員さんが追加で注文したハイボールと料理を運んで来た。
「こちらが秋刀魚のなめろうです」
誰が頼んだのだろう。青い小鉢に盛り付けられた料理を、わたしはじっと見つめていた。
秋刀魚の刺身を食べに行くという橋本の約束は、果たされることはない。そのことを残念に思う気持ちはあるけれど、それはあの店が限定で提供するメニューは絶対に旨いだろうという確信があるからだ。先程からことあるごとに橋本のことを考えている自分に嫌気がさして、わたしは青色の小鉢から目を逸らした。
「新山さん、秋刀魚好きなの? 食べる?」
「いや、いいです!」
わたしが秋刀魚のなめろうを凝視していたことに気づいた佐野さんが、こちらへ小鉢を回してくれようとする。わたしは急激に恥ずかしくなって、咄嗟に強く拒絶した。せっかく勧めてくれたのだから、味見をさせてもらえば良かったのに、過剰な反応をした自分が嫌になる。だからわたしは、可愛げがないと言われるのだ。
「そう言えば、新山さんは彼氏いるの?」
気を紛らわせる為にハイボールに口を付けると、佐野さんが尋ねてきた。先程の失礼な対応は遠慮と解釈されたのか、特に気分を害したように見えなくてほっと胸をなでおろす。
「いえ、いないです」
「新山さんって、どんな男がタイプなの?」
佐野さんとの会話に、峰岸さんが食いついてきた。酒が入ってご陽気な峰岸さんの声のボリュームは上がっていて、全員がこちらに注目する。
「さあ、どうでしょう」
曖昧に笑って答を濁しながら、ハイボールのグラスを空けた。
ちょうど峰岸さんもジョッキを空けたところで、ふたりで熱燗を頼むことにした。他のメンバーは既にソフトドリンクに移行していて、いよいよ本腰を入れて飲もうとしているわたしたちを、感心とも呆れともつかない顔で笑っている。明日は休みだし、飲みたい気分だし、今日は気が晴れるまで飲もうと決めた。
「それで、新山さんはどんな男がタイプなのさ」
お猪口になみなみと酒を注ぐと、もう一度峰岸さんが尋ねてきた。注文で一旦会話が中断したのでその話題は終わったと思っていたのに、再び蒸し返される。問いには答えず適当に笑って誤魔化しながら、お猪口を口に付ける。ふわりと香る日本酒の匂いを感じながら呷ると、熱い酒が喉を通って胃に沁みるのを感じた。
「美沙はしっかりしてるから、年上の落ち着いた人と合いそう」
「でも逆に、年下の子が合ってるかもよ」
先程まで優花を質問攻めにしていたくせに、どうやらもう満足したらしい。ターゲットはいつの間にかわたしにシフトしていたようだ。皆がわたしに合う男性のタイプを口々にあげてくれるのを、ちびちびと舐めるように酒を呑みながら聞いていた。
わたしの好みの条件は何だろう。少しふわふわとしてきた頭の中で考えてみる。世の中には高収入を条件にあげる女性もいるが、なかなか賃金が上がらないこの時代にそんなことを求めるつもりはない。管理職で役職手当をもらいながら狡い働き方をしている人よりも、平社員で責任を持って一生懸命働いている人が良い。わたしは特に趣味と呼べるものもないけれど、食べることと呑むことが好きなので、一緒にお酒を楽しめる人が良い。そんなことを考えていると、頭の中でぼんやりとした影が徐々に理想の人物の輪郭を形成してゆく。やがて、その影がはっきりと誰かの顔を映し出しそうになって、わたしは慌ててその人物を追い払うように頭を振った。
収入とか学歴とか容姿とか、そんなことはどうでもよくて、一番大事なのはわたしのことを好きかどうかなのだ。
「ちょっと美沙、聞いてないでしょ?」
自分が求める一番の条件を満たす人はいないという事実を思い出して、少し落ち込んで、お猪口の中の酒を飲み干した。脳内で妄想して打ち消していたわたしのことを、舞は酔っていると思ったようで、笑いながら突っ込みを入れてくる。
「聞いてるよ、好きなタイプでしょ。わたしの好きなタイプは、陰口を言わない人」
わたしがいないところで、わたしのことを可愛げがない女だと言わない人が良い。
「あとは、わたしのことをちゃんと好きな人。好きじゃないくせに気を持たせる人は嫌」
別に高い理想でも条件でもないけれど、わたしにとっては難しい条件だ。最初は懐かしいあの人を思い浮かべながら話していたけれど、だんだんと脳裏に浮かぶ人物がすり替わっていって、自分でも誰について話しているのか分からなくなってくる。
「悪かったな」
不意に背後で、聞き慣れた声が響く。
「あれ、はっしー! 帰って来れたのか?」
「間に合わないと思っていたけど、今日は道が空いていて予想以上に早く着いたから、ちょっとだけ顔出そうかなと思ってさ」
恐る恐る振り返ると、そこには今日は欠席の筈だった橋本が立っていた。小さな謝罪の声は誰にも聞こえていないのか、皆口々にお疲れさまと労いの言葉をかけている。
「違うの……」
空いていたわたしの隣の椅子に腰かけた橋本に、小さく言い訳をする。違う、あんたのことを言っていたわけではない。心の中で訂正してみても、果たしてわたしの先程の言葉はかつての恋人に向けられたものなのか、隣に座っている男に向けたものなのか思考が混乱した頭では思い出せない。
「違わないよ。あんたが言うことは正しい」
あの夜に言われた時は嬉しかった筈なのに、同じ言葉だけれどそれは完全な拒絶の言葉で、わたしは数秒前の自分を殴りたくなった。
2019/06/15