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こぼれたミルクのし方



13. 雑念を追い払う方法


 会社から帰宅して軽めの夕食をとると、わたしはTシャツとジャージに着替える。イヤホンにお気に入りの曲を流し、スニーカーを履くと今日も夜の街に出た。

 あの日以来、わたしは夜に一時間程のウォーキングを始めた。理由は、家にひとりでいると奇声を発してしまうからだ。
 わたしは大学入学を機に親元を離れ、以来ずっとひとり暮らしをしている。別に家族仲が悪いわけではないが、ドライな性格のせいか、実家を出て一度もひとりが辛いと思ったことはない。だけど今はじめて、ひとりで家にいることに苦痛を感じていた。話し相手がいないと、自然と余計なことを考えてしまうのだ。料理をしていても、テレビを見ていても、シャワーを浴びていても、ベッドに潜り込んでも。ふとした拍子にあいつの体温と声を思い出してしまい、そうするとどうにも恥ずかしくなって、ごろごろと身悶えながら耐え切れずに声をあげてしまう。壁の薄いワンルームマンションで悶えていれば、殆ど顔も合わせたことのない隣人にいつか通報されてしまうだろう。だからできる限り人目がある場所にいようと、わたしは夜の街を歩くことにしたのだ。

 近年はメタボ指導などが行われているせいか、健康志向の人が増えているようだ。大きなストライドで走る高校生からのんびりと歩く年配の人まで、老若男女を問わず様々な人が各々のペースで運動を楽しんでいる姿をあちらこちらで見かける。暗い道は避けてできるだけ明るく人通りの多い道を選びながら歩いていると、三日後には何となく歩きやすい道も分かってきて自分のウォーキングルートが確立していた。
 わたしは中学高校とソフトテニス部に所属していて体を動かすことは好きな方だけれど、社会人になってからは運動と呼べる程のことを行っておらず、速足で歩くことで精一杯だ。颯爽と追い抜かして行く若者の後ろ姿を眺めつつ、軽快に走る自分の姿を妄想しながら歩く。イヤホンのボリュームを少し大きめにして、好きなアーティストの歌声だけが耳に流れ込むようにしてから、あとはひたすら足を動かす。夜の街を黙々と歩く、歩く、歩く。家に帰ってシャワーを浴びると程なく睡魔がやってくるので、抗わずにさっさとベッドに潜り込む。そうやってわたしは、繰り返される日々の中に雑念が入り込む隙を少しでも減らそうと涙ぐましい努力をしていた。



「おや、今月は早いですね」
 わたしが月次書類を提出すると、課長が少し驚いたようにそう言った。今回は常に余裕のあるスケジュールで進行しており、締め日の定時には業務が完了していたのだ。
「これだけ早く作業できれば大したものです」
「今月は各部署の皆さんの入力が早かったお陰です」
 各部署での作業が終わってからわたしの業務が始まるので、それがギリギリになったり誤りがあったりするとどうしても遅くなってしまう。そうなれば残業になってしまうのだが、今回はこちらから催促をしなくても書類の提出やシステムへの入力の期限はほぼ守られていた。とは言え、それらに誤りがないかのチェックにはそれなりの時間を要するし、いくつか修正箇所も見つかった。課長の褒め言葉は過大評価なので他部署を立てつつ謙遜するが、月次処理が過去最高の速さで完了した要因は間違いなく別にあった。
 余計なことを考える隙を与えない為に、目の前の数字に没頭する。あいつは何故、わたしは何故、あの夜あのような行動をとったのか。ともすれば浮かんでくる疑問を封じる為に、一心不乱に電卓とキーボードを叩き続けた結果、気づけばさくさくと月次処理が片付いていたのだ。

「月末月初の残業、ほぼゼロで月次処理を終えるなんてすごいじゃん」
 そう褒めてくれたのは優花だ。いつものように休憩室で弁当箱を広げながら、今日も他愛のない会話を繰り広げていた。
「皆が期限守ってくれたからね。あとは、定時で帰りたいというわたしの執念かな」
 課長に答えたものと同じ理由を口にしつつ、冗談めかして更に一言付け加える。するとわたしの説明に対して、優花はなるほどねと大袈裟に頷いて見せた。
「最近の美沙は仕事中、すごく集中しているなと思っていたけど、今の言葉で納得したわ」
「自分で言ったものの、そんなに力強く頷かれると何だか複雑なんですけど」
「どうして? ノー残業を推進する人事担当として、美沙の定時退社に対する執念を評価しているのに」
「嘘だ。今の言い方、絶対馬鹿にしてるじゃん」
 大真面目に反論する優花にわたしが抗議すると、ふたり同時に吹き出した。

「いや、でも冗談抜きで、最近の美沙の勤務中の集中力には感心しているんだよ」
「そんなことないよ。やっと自分の仕事を覚えて、ひとりでできるようになったからそう見えるんじゃないかな」
 そんなことない、ことはない。唐揚げをフォークで刺しながら言った優花の言葉を口では否定してみたものの、心の中でその否定の言葉を否定する。確かにわたしはここ数日、仕事中かなり集中していた。と言うよりも、集中しようと懸命に努力していた。ともすれば電卓を叩く手が止まり、数字の向こう側にあの日の夜のことが浮かんできそうになるので、仕事だけに意識を向けるよう必死でコントロールしていたのだ。家でひとりの時に奇声を発したならば、お隣さんごめんなさいで済むけれど、会社で悶えてしまえば社会人として色々と失ってしまうだろう。おかげで仕事は順調に進み、過去最速で月次処理を終えることができたのだった。
「最近ちょっと生き生きしてるし、痩せたように見える。何か良いことあった?」
「ないよ、何もない!」
 優花の質問に驚いてしまい、思わず語気が強くなってしまう。そうか、周囲からは生き生きして見えるのか。わたしは少し複雑な気持ちになって、食べ終えたお弁当箱の蓋を閉めた。
「実はウォーキングを始めたの。だけど体重は殆ど変わってないよ」
 予想外にキツく響いた自分の言葉にたじろいて、フォローするようにそう言葉を継ぎ足す。
「なるほど、納得。でも運動するなんて偉いね」
「近所をちょっと歩くだけだから、運動という程でもないんだけどね」
 最初は歩いていたけれど最近は少し慣れてきたので、実は半分走っている。スタートから折り返し地点の公園まで走って、帰りだけ歩くようにしているのだ。少しずつ走る距離を伸ばしていて、近いうちに行きから帰りまで走りとおすことができるようになるのが目標だ。

「健康的で良いね。どうりで綺麗に見える筈だ」
 頬杖をつきながらじっとわたしの顔を眺めると、優花はにっこり笑って頷いている。たかだか数日走っただけで綺麗になるわけないのに、彼女はひとりで納得しているので少しこそばゆい。だけど、誰にも言わないが、体重が二キロ減ったのは事実だ。二キロなんて誤差の範囲だと分かっていても、減れば単純に嬉しいし、新陳代謝が良くなったのか化粧のノリも少し良くなった気がする。
 わたしの精神の安定を乱す馬鹿男の行動を、流されそうになった自分のことは棚に上げて心の中で散々罵ってみたけれど。蓋を開けてみれば健康的な生活を送れているし、仕事も順調に進められているし、乱された心を平静に保とうと足掻いているうちに逆に良い方向へ転がっているのはまったく皮肉な話だった。だけど、これならきっと大丈夫だ。
「そう言えば、いよいよ明日だね。頑張って定時に脱出しようね」
 とうとう明日は、同い年メンバーの飲み会だ。そしてあの日以来、二週間ぶりに橋本に会うことになる。だけどきっと、大丈夫だ。この二週間でわたしは雑念を払う術をマスターしており、更にそれを良い方向に転換させることまでできてしまうのだ。
 自分に向かってそう暗示をかけると、わたしは笑って優花の言葉に頷いた。



 その日も定時で家に帰ると、マンションの宅配ボックスに実家から送られてきたダンボールが届けられていた。
 わたしの父親はサラリーマンだが昔から土いじりが好きで、それが高じて近所の畑を借りて野菜を育てている。夫婦ふたりでは食べ切れないからと、定期的に母が箱に詰めて送ってくれるのだが、正直とても助かっている。秋になったので芋類かなと予想しながら箱を開けると、予想どおりじゃがいもやにんじん、かぼちゃなどの根野菜が入っていた。更に近所の農家さんからもらったという新米も少し入っていて、わたしは小さなキッチンでひとり歓声をあげた。
 お礼の電話を入れなければ。わたしは鞄から携帯を取り出すと、実家の番号をコールする。けれど、どこかへ外出しているのか風呂にでも入っているのか、何コール鳴らしても応答がない。仕方がないのでメッセージアプリを起ち上げると、荷物を受け取ったという報告とお礼を簡潔に記して送信した。父はアナログな人間だが母は新しいもの好きで、しっかりスマートフォンを使いこなしている。メッセージを送ってくる時も絵文字やスタンプを駆使して、わたしよりも派手なメッセージを送ってくるのだ。

 母へお礼を送信してアプリを閉じようとした時に、ふと見慣れないアイコンが目についた。皆それぞれにお気に入りの写真やイラストをアイコンに使っていて、わたしも去年旅先で撮った風景の写真を設定しているが、それは明らかに純白のドレスを身に纏った女性の写真だった。
 ああ、結婚したんだ。新卒で入った会社で一番仲の良かった同期のアイコンを眺めながら、わたしは少し驚いていた。転職して疎遠になっているので、結婚の報告がないのは当然だ。ただ、わたしが退職する時点では彼女はフリーだった筈で、スピード婚なのかなと少し興味が湧き、懐かしさもあって何気なくそのアイコンをタップした。
 次の瞬間、衝撃が走る。露呈した真実に混乱し、思わず動揺して手の中のスマホを取り落としそうになった。

 丸いアイコンには純白のウエディングドレス姿の女性の姿だけが映っていたが、タップして写真を拡大してみれば、隣にグレーのタキシードを着た新郎が寄り添っていた。そしてその男は、わたしがよく知る人物だった。



2019/06/11

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