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こぼれたミルクのし方



12. 馬鹿な女


「すまんが、誰か急ぎでコピーを頼む」
 資料の束を掲げた部長の声に、すぐさまわたしは立ち上がった。指示された部数をコピーして部長に手渡すと、電話が鳴ったのでワンコールで受話器をとる。課長宛てだったので一旦保留にして電話を繋ぐと、帳票の数字を一心不乱にパソコンへ入力していった。

「何だか今日の美沙は、いつにもましてやる気に溢れているね」
 昼休みに休憩室でお弁当を広げていると、感心したように優花がそう指摘してきた。金曜日以外はふたりとも節約の為に弁当を持参していて、フロアの南端にある休憩室で昼食をとることにしている。プチトマトを口に運ぼうとしていたわたしは、一瞬ぎくりとしてお弁当箱の蓋の上に落としてしまった。
「べ、別にいつもと一緒だよ」
「確かに美沙はいつもテキパキしてるけど、今日は特に仕事に燃えているオーラが見えるよ」
 優花とは同じ管理部だけど課が違うので、席は少し離れている。それなのに、隣の島からでも気づくくらいに今日のわたしは違うのだろうか。苦笑いでそんなことないよと否定すると、わたしは再びプチトマトを箸でつまんで口の中に放り込んだ。

 別にわたしはやる気に溢れているわけでも、燃えているわけでもない。ただ、仕事に集中していないと思い出してしまうのだ。すぐ近くで感じた体温、指を差し入れた短い髪の硬さ、微かに聞こえた吐息……。
 昨日のあいつはどうかしていた。上司の横暴と得意先の混乱が重なって、まるで雨に濡れた子犬のように弱っていた。そしてわたしもどうかしていた。大山課長の横暴を目のあたりにしたあとで、弱った姿を見せられてしまったから。
 だからわたしは、とそこまで考えて自分の箸が止まっていることに気がついた。考えないようにしているのにまた思い出してしまい、赤面しているであろう自分の頬をひっぱたきたい衝動にかられる。恐る恐る優花を見やると、彼女はわたしの挙動不審には気づいていないようで、美味しそうにミートボールを食べている姿にほっと胸を撫でおろした。


 昨日の夜、最初は確かにいつもと同じ空気だった。互いにふざけて、軽口を叩き合って。それなのにいつの間にか、車の中という密室にいつもと違う甘い空気が入り込んでしまったのだ。
 わたしたちは、キスをしようとしていた。吸い寄せられるように顔を寄せ、鼻先が触れたのはスローモーションのように鮮明に覚えている。微かに息がかかり、だけど唇に触れる前の刹那にわたしははっと我に返った。
「急がないと、駐車場が閉まるよ」
 そう言えばという風情で思い出したようにそう告げると、わたしはロックを外した。けれどシートベルトを外すのにもたついてしまい、焦って汗が噴き出るような気がする。何とかシートベルトの束縛から解放されて車から降りると、送ってくれてありがとうと笑顔でお礼を言った。つもりだ。
 わたしはそう振る舞ったつもりだけれど、正直、何でもない風を装えていたのかも笑顔を見せられていたのかも、お礼がちゃんと言葉になっていたのかも自信がなかった。予想もしない展開にあわあわと動揺し、もごもごと口の中で何かを呟いて、転がり出るように車から逃げ出したのが現実かも知れない。だけど仕方がないではないか。最近少し親しく話すようになった程度の職場の人間と、何故か急に、あんな雰囲気になってしまったのだから。

 忘れよう忘れよう、あれは馬鹿男の気の迷いだと、わたしは一晩中ベッドの中で念じ続けた。
 だってあいつは、優花のことが好きなのだ。だってあいつは、あの時弱っていたのだ。だからあの行為を深く考えてしまうことに、まったく意味がないのだ。

 素面だったくせに、他に好きな人がいるくせに、弱さをわたしに見せるなんて馬鹿な男だ。そう何度も何度も心の中で毒づいてみても、わたしも同じだけ馬鹿なことは明白だった。
 ワインを二杯飲んだだけで酔ってもいないのに、ふわふわとしてしまったわたしは馬鹿だ。弱って甘えてきたことに、一瞬その気になったわたしは馬鹿だ。誰が見ているかも知れない会社の最寄駅であんな雰囲気になった、わたしは馬鹿だ。好きな女がいる男の行動に、こんなにも心乱されているわたしは大馬鹿者だった。
 だけどわたしはちゃんと大人だから、何もなかったかのように振る舞える。きちんと仕事をこなして、周囲に気づかれないように笑って。そんな毎日を送っていれば、きっとすぐにあの夜のことは忘れてしまうだろう。同じ会社にいるとは言え、事務所の階が異なり顔を合わせる機会が殆どないのだから、きっとすぐ心に平穏が訪れる筈だと。わたしは願いにも似た気持ちで、そう自分に言い聞かせた。

「そう言えば、いよいよ来週だね」
 冷凍食品と晩ごはんの残り物のおかずで構成されたお弁当を食べ終えて、自販機で買ったコーヒーを飲んでいると、にこにこと笑いながら優花が言った。彼女はお弁当の他にもおやつを持参していることが多く、今日はチョコクッキーを幸せそうに頬張っていた。
「へ?」
「皆忙しくてなかなか予定が合わなかったから延び延びになったけど、ようやく飲み会できるね。オープンしたばかりのあの居酒屋、メニューが豊富で美味しいと結構評判みたい。クチコミ評価が高いから楽しみにしてるんだ」
 優花のご機嫌な発言に、わたしは絶望して額をテーブルに打ちつけたい衝動に駆られた。接触がないからすぐに平静に戻れると暗示をかけたのに、来週は同い年の飲み会が予定されていたことをわたしはすっかり失念していたのだ。
「あー! さてはその顔、忘れていたでしょう」
 わたしの動揺を、優花はそう指摘した。
「いや、もっと先の感覚だった。大丈夫、ちゃんと予定は空けてるよ」
「確かにみねっちから日程の連絡が入った時は結構先だと思ったけど、あっという間だね」
 わたしの言い訳を言葉どおりに受け取った優花は、うんうんと頷いた。来週には嫌でも顔を合わせなければならないけれど、大丈夫だろうか。そう自問する。たぶん、きっと大丈夫だ。中学生なら一大事だが、二十代も半ばを過ぎれば、あんなことは大騒ぎする程のことではないのだ。
 そこでふと、優花こそ大丈夫なのかと思った。先程の発言では居酒屋のクチコミをチェックするくらいに楽しみにしているようだったが、橋本の謝罪は受け入れたものの、耳にした言葉を消し去ることはできなくてわだかまっていたのだ。

「そんな顔しなくても、もう大丈夫だよ」
 わたしはどんな顔をしていたのだろうか。自分では分からないが、わたしの心配は優花に伝わってしまったようだ。
「実は少し前に、彼氏できたのかってはっしーに声をかけられたの。たぶん、みねっちから聞いたんだと思うんだけど」
「それ、正解。たまたま営業部に行った時にふたりに会って雑談してたら、峰岸さんが優花の話をしてた」
 彼氏ができた優花に対して橋本が声をかけていたことに驚きながら、わたしは彼女の予想を肯定する。
「やっぱり。彼と一緒にいるところを、偶然見られたんだよね」
「ラブラブだったって言ってたよ。次の飲み会、絶対にいじられるぞー」
 峰岸さんの話よりも橋本が何を言ったのか気になっているくせに、わたしは敢えてその話題には触れずにふざけて優花を脅した。酒の肴にされる覚悟はできているのか、優花は少し困ったような表情でそうだよねと言って笑った。

「良かったなって、自分のことのように喜んでくれたの」
 やがて優花が、ぽつりと言った。
「わたしもはっしーも出会った時は付き合っている人がいたんだけど、同じくらいの時期に別れてね。他の子たちは学生時代に付き合っていた人とそのまま続いて結婚したり、別れたけどすぐに別の相手が見つかったりして、わたしたちふたりだけフリーの時期が長かったの。だから仲間内では寂しんぼコンビで扱われたり、そう振る舞ったりすることも多くて、そんな相方だったからこそあの発言がショックで。でも、おめでとうって言ってくれた。優しい顔で、良かったなって笑ってくれた」
 前に峰岸さんから、出会った時は同期全員に恋人がいたと聞いていた。だけど、優花と橋本のふたりはフリーの状態がほぼ同じ期間続いていたことをはじめて知った。そうやって相手がいない者同士のように振る舞っているうちに橋本は優花のことを想うようになったのだろうけれど、彼女の方はどうだったのだろうか。ほんの一瞬でも、橋本のことをただの同期ではなく異性として見たことはなかったのだろうか。
「だからもう、大丈夫だよ」
「そっか」
 傷ついた優花の心が本当に癒えたのかどうかは分からない。ただ彼女がそう言うから、わたしは短く頷いた。心の中に沸いた疑問には、気づかないふりをして蓋をした。

 親しい同期の中でも特に仲の良かった相手を不用意な言葉で傷つけただなんて、つくづく馬鹿な男だ。惚れた相手の幸せを喜んで見せるなんて、とことん馬鹿な男だ。
 だけど、優花の表情は晴れ晴れとしていて。そのことを教えてあげたくなったわたしが、きっと誰よりも馬鹿な女なのだろう。



2019/06/02

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