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こぼれたミルクのし方



11. 車の中で


「びっくりした、どうしたの?」
 促されて何となく助手席に乗り込んだわたしは、運転席の橋本を見つめながらそう尋ねた。
「日帰り出張だったんだ。会社に戻る途中だったんだけど、そこの交差点で信号待ちしていたらどこかで見たことある人がいるなと思ってさ」
「お疲れさま。どこまで行ってたの?」
「冨和。駅からめちゃくちゃ遠い場所にある会社だから、電車で行くよりも車の方が便利なんだ」
 隣県の端にある市の名前を口にした橋本は少し疲れたように笑うと、わたしにシートベルトを締めるよう促した。
「駐車場の入庫が十時までだから駅のロータリーまでしか行けないけど、送ってやるよ」
「ラッキー、助かる!」
 社用車は職場があるビルの地下駐車場を契約して停めているが、夜十時になると警備員が帰るので入口が閉鎖されるらしい。そんな規則ははじめて知ったのだが、駅まで乗せてもらえるだけでありがたい。行きは三人で喋りながらだったのでさほど距離が気にならなかったものの、帰りはひとりだしお腹もいっぱいだし、駅までの遠さを感じていたのだ。喜ぶわたしを呆れたように一瞥すると、橋本はバックミラーを確認しながらゆっくりと車を発進させた。
 つい先程まで、わたしたちはこの男を話題にしていた。今日わたしたちの部署に不愉快をもたらした人物の直部下であるこの男が、上司の行動を知っているのかがわたしは気がかりだったけれど、どうやら終日外出していたようで少しほっとした。橋本は悪くないくせに、上司の言動を知れば経理課に対して申し訳なさを感じるのではないかと思えたからだ。

「ところで、何であんたは駅の反対側にいるんだ?」
「さっきまで、優花と舞とごはん食べていたの」
「また飲んでいたのか」
 まるでわたしがいつも飲み歩いているような物言いをするので、今日はグラスワインを二杯だけだと反論する。優花も舞もさほどアルコールに強くないので、彼女たちと飲みに行く時は食べる方がメインだ。実際、舞が選ぶお店は料理が美味しい店ばかりで必然的に食べる方に集中してしまうのだ。
「そっちはごはん食べたの?」
 わたしたちが店を出たのが九時過ぎだったので、もしも夕食がまだならばお腹が空いているだろう。
「途中の道の駅で食って来た。本当はもっと早く戻る予定だったんだけど、事故渋滞にはまってさ。腹が減ってこっちに着くまで持ちそうもなかったから、牛串とコロッケを買った」
「えー、渋滞は最悪だけど、道の駅は羨ましい。わたしも牛串食べたいなあ」
「あんた、本当に食うことが好きだな」
 日帰り出張の帰りに渋滞だなんて大変なのは分かっているけれど、道の駅で晩ごはんは魅力的だ。思わず本音を零すと、真顔でしみじみと言われてしまった。
「だって、あそこの道の駅の牛串はテレビで何度もとりあげられるくらい有名じゃん」
「分かった分かった、じゃあ土産にこれをやるよ」
 わたしの父親は車好きで、小さい頃はよく家族でドライブに連れて行ってもらい、道の駅でお昼を食べたり併設の施設で遊んだりしたものだ。だから未だに、ずらりと並んだ名産品を前にどれにしようか迷うのがわくわくするのだ。そんなわたしの手に信号待ち中の橋本が何かを押し付けてきて、何だろうと開いてみれば、それは道の駅で買った牛串とコロッケのレシートだった。わたしは瞬時にレシートを丸めて、運転席に投げつける。
「こんなのいらないわ!」
 わたしのリアクションを見て、奴はハンドルに覆いかぶさるようにして笑っている。まったく腹が立つ男だと思いながら、わたしは少しほっとしていた。疲れて見えるものの、腐っては見えなかった。
「仕方ないから、今度は土産買って来てやるよ。ちょっとトラブルがあって、近いうちにまた富和まで足を運ばなければいけないだろうからさ」
 笑いながらさらりとそう言うので、思わずわたしは橋本の顔を見つめてしまった。
「でも、牛串は高いから無理だぞ」
「えー、ケチ!」
 わたしの反応を、牛串への期待と受け取ったのだろうか。橋本がふざけて釘を刺してくるので、わたしもそれに乗って混ぜ返しておいた。

「おまえは面倒な案件を抱えているから、そちらに専念できるようアリュームは俺が引き受けてやる」
 橋本が獲って来た契約をそう言って上司が奪ったのだと、教えてくれたのは情報通の舞だった。もともとアリュームは大山課長が担当していたが、二年程前に橋本が引継いだらしい。といっても当時は不定期に発注がかかる程度で、だからこそ課長は手放したのだろう。
 一方、後任の橋本は定期的にアリュームに顔を出し、この秋に大きなイベントを企画していることを知る。そこで使用してもらえるようにうちの商品を売り込んで、同じく採用を狙っていた他社を退けた。それどころかこれまで単発での発注しか受けていないのに足繁く通い、提示された条件が厳しかったにも関わらず色々と折衷案を出して、先方担当者の信頼を得た橋本は定期契約までも獲って来たのだ。
 そんな橋本に上司が抱いた感情が、妬みなのか羨望なのか知らないし知りたくもない。ただ事実は、上司は部下を褒めずに手柄を奪ったということだ。ちょうどその頃、橋本が担当する別の会社が代替わりをし、新しく社長に就任した二代目が先代のやり方をすべて一新しようとして大きなトラブルになっていたらしい。恐らくそれが今日営業に行ったという冨和にある会社なのだろうが、取引を一旦見直すと言い出しているという。大山課長は、そちらが大変だろうからアリュームは自分が引き受けてやるともっともらしいことを言って、強引に担当を自分に戻してしまったのだ。さすがに今回の売上すべてを自分のものとするのは周囲の目もあり露骨すぎてできなかったようだが、定期契約のある会社の担当となることで今後の営業活動が楽になるのは明白だ。
 営業部長が病気で不在の間にそのような勝手が許されるのかとわたしは憤ったものの、イベントの方は橋本が自力で獲って来て、そのあと大山課長のサポートで定期契約に繋げることができたという流れを作り上げてしまったらしい。そいういうところが姑息で卑怯だと舞も優花も激怒していたけれど、わたしたち他部署の平社員には為す術がなかった。

「悪かったな」
 狭い社内で、ぽつりと橋本が呟いた。視線を右に向けると、彼はハンドルに腕をのせてぼんやりと前方を見つめていた。
「それは何の謝罪?」
 わたしが静かに尋ねると、一瞬彼は考えるように視線を彷徨わせ、やがておもむろに口を開いた。
「馬鹿な上司が迷惑をかけたことに対する謝罪」
 たぶん本当は、わたしに早く処理をして欲しいと頼みながら自分が担当を外れたことを謝るつもりだったのだろう。でも、そんな不可抗力の事態を謝って欲しくなかった。そんなわたしの意思をきちんと読み取ったようで、橋本は苦笑しながらそう言った。
「先方の都合で、経費を今月で上げたいから請求書を急ぎで欲しいと依頼があったらしいんだ。うちだけじゃなく色んな部署の処理をしているから即日発行できないこともあるのに、あの人はそんな事情も頭になくて、他部署にまで失言を吐いた。期日を書いておくだけで、あんたはちゃんと処理してくれるのにな」
「謝罪は本人からのみ受け付けます。部下からの謝罪は無効ですのであしからず」
「そっか。じゃあ、いつか俺があの人より出世したら管理部に頭を下げに行かせるわ」
「早めに来てよ。じゃないと、何のことだったか忘れちゃう」
 わたしがそう急かすと、橋本が鋭意努力しますと言って笑った。

「でもさ、外出していた筈なのに何で今日のこと知っているの?」
 こんな下らないことは知らないにこしたことはないので、外出していてちょうど良かったと思っていたのに、何故か橋本は昼間の出来事を知っている口ぶりだ。わたしが疑問を口にすると、運転席の男は青信号で車を発進させながらにやりと笑った。
「用があってたまたま十二階にいた東野さんが、管理部に喧嘩売った自分の上司が経理の女の子に反撃されるところを目撃したらしい」
「ちょっと、反撃って失礼な」
 ちゃんと頭を下げて可及的速やかに請求書を作成したのに、反撃だなんて人聞きが悪い。相手の方が無茶を言っているのだと周囲にアピールする為に、ちょっぴり大袈裟に謝罪しただけだ。と言い訳をしたところで、はたと思い出す。
「ねえ、その東野さんってもしかして……」
「あ、覚えてた? もしかしなくても、俺の先輩の噂好きな東野さんさ」

 最悪だ。わたしは思わず頭を抱えた。
 面識がないので聞き流していたが、その名前がどうも引っかかって思い起こしてみれば、橋本が優花に関する失言を吐いた時に一緒にいた先輩の名だ。そして橋本も優花も口を揃えて、この人物のことを噂好きだと称していた。わたしは廊下を通りかかった誰かに見せつけるようにわざと深く腰を折ったのだけれど、その誰かが東野さんだったのだろう。
「渋滞にはまって戻りが遅れると事務所に電話したら、たまたま東野さんが出て詳細を教えてくれた」
 大山課長の横暴が少し広まれば良いくらいの考えだったのに、どうやら相手が悪かったらしい。組織の中で目立たずに仕事をしたいと思っていたのに、一体どのような噂がどこまで広がるのだろうか。調子に乗り過ぎたなと、わたしはがっくりと肩を落とした。
「おたくの先輩に、変な噂を広めないでと言っておいてよ」
「残念ながら、十三階にはもう広がってると思う。でもきっと、課長がまたやらかしたという認識だ」
「ちょっと東野さん、噂に違わず伝播力強すぎでしょ。ああ、せっかく猫かぶっていたのに、絶対にこれからキツいとか怖いとか言われるんだ」

「あんたは別にキツくなんてない。正しいんだ」
 ぐちぐちとわたしがいじけていると、不意に、橋本がこちらを向いて言い放った。いつの間にか車は駅前のロータリーに到着していたけれど、その言葉にわたしはシートベルトを外すのも忘れて運転席を見やった。
「課長の横暴に譲歩しながらも、怯むことなく自分の主張をしていて、聞いていて清々しかったと東野さんが言ってた。俺もそう思う」
 別に慰めて欲しいとか否定して欲しいとかじゃなく、性格がキツいのは自分でも自覚しているので、むしろネタとしていじってもらうつもりだった。それなのにきっぱりと否定され、わたしは予想外の言葉に思わず橋本の顔を凝視してしまう。
「前に俺が馬鹿なこと言った時も、今回課長が迷惑かけたことも。間違っているのは俺たちで、あんたは正しいことを言っているだけなんだ。だから、気持ち悪いからしおらしくなるなよ」
「ちょっと、失言癖直ってないじゃん!」
 不覚にも、少し感動した。けれど最後に付け足された一言が余計だ。わたしが噛みつくと、相手はしれっと失言を重ねた。
「そもそもあんた、猫かぶれてないし。俺には最初から思い切り牙剥いてたぞ」
「それは、そっちが猫かぶるのも忘れるくらいに馬鹿なこと言ったからでしょ。他の人には、わたしちゃんと優しいもん」

「じゃあさ、もう馬鹿なこと言わないから、俺にも優しくしてよ」
 真っ直ぐにわたしを見つめるくっきりとした二重の目は、いつの間にか弱々しい色を帯びていた。まるで子供のようだと、ぼんやりと思った。ふざけた口調で囁いた言葉は少し掠れていて、救いを求めているようにも聞こえた。
「分かった。優しく、よしよししてあげる」
「よしよしって、子供じゃないぞ」
 そっと手を伸ばすと、わたしは少しだけ躊躇って、やがて彼の髪に触れた。憎まれ口を叩いているくせに抵抗しない。少し硬い髪に指をとおして、慰めるように元気づけるように、わたしは自分の優しい気持ちを精一杯指先に集めて頭を撫ぜた。
「泣いてもいいよ」
「泣かねえよ」
「誰にも内緒にしてあげるよ」

 顔を寄せたのは、どちらからだったか。わたしたちは暗黙の了解のように、ゆっくりと吸い寄せられるかのように唇を近づけた。
 ロータリーの端に停めた車の脇を、何台もの車が通り過ぎて行く。都会の喧騒に包まれている筈なのに、この狭い車内ではすべての音が遮断されていて、ただ自分の心臓の音と彼の微かな呼吸だけが聞こえていた。
 やがて、鼻の頭と鼻の頭が微かに触れる。わたしはたまらなくなって、そっと目を閉じた。



2019/05/28

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