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こぼれたミルクのし方



10. 毒を吐く


「わたしが部長なら、絶対に大山課長を降格させるのに!」
 乱暴にフォークでソーセージを刺すと、優花はぷりぷりと怒りながらかぶりついた。
 営業一課の課長の横暴は広報部の舞の耳にまで届いていて、その日定時で仕事を終えると、彼女の誘いで急遽飲みに行くことになった。優花とは相変わらず毎週金曜日に定食屋へ出かけているが、時間が合えば舞も加わり、大石さんから名前で呼ぶくらいにすっかりわたしたちは打ち解けていた。

「じゃあ早く出世して、人事の権限で降格させてよ」
 ワインを呷ると、わたしはうんざりしたように吐き捨てた。
「あれでも大山課長って、あの世代の出世頭だったらしいよ。見た目も良いし口も上手いから、当時の営業部長に気に入られて同期では真っ先に管理職になったって。だけどもともと大雑把で、若い頃は長所でカバーしていたけど、年とっても仕事ぶりが雑なままだから今の横山部長には見切りをつけられているみたい」
「確かに要領が良いというか、小狡い感じはするよね。今日だって部門長会議の時間帯に、部長がいないのを狙って来たに決まってるし。あの年であのスタイルはカッコ良いと思うけど、中身があれはないわ。いつも非生産部門を下に見ているんだもん」
 常に外へアンテナを張っている広報という部署に所属しているせいか、舞は情報通だ。遥か昔の社内情報にも精通している。一方、人事総務の仕事にプライドを持っている優花は、製品を売って利益を上げられる営業が一番会社に貢献しているという彼の考え方がとにかく気に入らないようだ。誰に対しても明るく優しい彼女にここまで黒い台詞を吐かせる存在に、わたしはある意味尊敬の念を抱いてしまった。
「確かに、管理の人間は気楽という言葉にはドン引きしたよね。非生産部門の人間を下に見ているというのを隠そうともしていなくて、どの部署もひとつ欠けたら会社は成り立たないのにと思わず突っ込み入れたくなったもん」
「売れれば営業がすごい、売れなければ広報が悪いとかも平気で言ってしまう人だからね」
 どうやら彼の横暴は今回が特別ひどいわけでなく、日頃から全方位に敵を作っているようだ。媚びへつらう必要はないが、他部署の人間と上手くコミュニケーションをとっておかないと円滑に仕事が進まないだろうにと、自分よりも遥かに年長の人の愚行に呆れてしまう。

「木内課長が休まれていることに口出ししたのも筋違いだよね」
 まるで怒りの感情と食欲が連動しているかのように、優花はテーブルの上の料理を平らげてゆく。わたしたちが食事に行く店はほぼ舞のチョイスで、今日も彼女おすすめのイタリアンレストランを訪れていた。彼女は様々なジャンルの店に詳しくて、石窯を備えたこのレストランもメニューにはずれがない。
「初孫ができてずっと会いたがっていて、わたしたちが勧めてようやくとった有給なのに。おめでたい話に水差さないで欲しいよ」
 九州で働いているという息子さんに先日第一子が誕生したけれど、遠方の為にまだ会えていなくて、スマホに送られて来た写真を毎日眺めている姿を見ていた経理課員が全員で有給消化を勧めたのが今回のいきさつだ。監査も無事に終わったことだし、ついでに奥様と一緒に温泉にでも寄って来てくださいと背中を押したのだ。
「部下に休めと労わられる課長と、部下の仕事を奪って白い目で見られる課長と。同じ役職でも天と地だね」
 焼きたてのマルゲリータをピザカッターで八等分にしながら、舞がそう言って整った顔に侮蔑的な笑みを浮かべた。

 どうやらこの店は人気店らしく、駅から離れているにも関わらず既に満席だ。賑やかな店内には、ギターが奏でるカンツォーネのメロディが話し声や笑い声に混ざって微かに聞こえてくる。
「はい、どうぞ」
 舞が切り分けたピザを差し出してくれたので、ありがとうと言って早速わたしは手を伸ばす。とろりと零れ落ちそうなチーズに歓声をあげながら、店内の窯で焼き上げた熱々のピザを頬張った。
「まあでも、大山課長と経理は因縁の関係だからね」
「美沙はとばっちりだけどね」
 わたしと同時に手を伸ばした優花は、チーズが垂れないように注意深くピザを口に運びながら、それが大前提であるかのように言った。因縁の関係とは、どういうことだろうか。酸味のあるトマトソースと濃厚なチーズの味わいを堪能していたわたしは、その単語に引っかかってふたりを交互に見つめ返した。
「美沙が入社する前、前任の松永さんとはずっと折り合いが悪かったのよ」
「ああ、なるほど。きっちりしている松永さんといい加減な大山課長では、絶対に合わなさそうだもんね」
 松永さんとは長く経理課で働いていた人で、彼女が退職することになったのでわたしが後任として採用されたのだ。わたしは数日間引継ぎを受けただけの関りだけど、残された資料やデータを見ていると、責任感があって真面目な人だったんだろうということが分かる。そんな人が杜撰な仕事をする人間と合うはずもなく、わたしは優花の言葉にさもありなんと頷いた。

「うん、すごくきっちりしてた」
「きちんとしてたね。だけど逆に言うと、融通が利かなかった」
 けれども遠慮がちに言ったふたりの意見は、わたしの予想とは違う風に一致していた。仕事柄、細かい人間が多い経理の中でも松永さんは特に几帳面で、細部まできっちりと引継ぎを受けたわたしは経理の鑑のような人だと感心していたのだが、社内での評価は少し違うらしい。
「他社と仕事をしていると、請求書を二枚に分けて作成して欲しいとか決算月に合わせて支払いを前倒しにしたいとか、色々あるじゃない? だけど松永さんは杓子定規で、イレギュラーになかなか対応してもらえなかったのよ。交通費の申請とか個人的なものはルール厳守が当たり前だけど、相手があるものはもっと臨機応変に対応して欲しいとみんな思ってた」
 サングリアのグラスの底に沈んだフルーツをつつきながら、舞がぼそりと言った。恐らくこれは、全部署の本音なのだろう。
「でも、営業が新規案件をとれるとれないの微妙な状況だと、こちらが先方のリクエストをどれだけ受けられるかがポイントでしょ。木内課長もそんな感じだったの?」
 常に温和な経理課長が、他部署の反感を買うような対応をするとは思えない。現に先日、橋本がアリューム関連の処理を急いでいた際、わたしになるはや対応を指示したのは課長だったのだ。
「課長はやってくれるよ。だけど、松永さんに対応するように指導するわけではなかった」
「だからどうしようもない時は、直接課長に依頼していたの。だけど大山課長は毎回松永さんに依頼して、毎回バトルを起こしていたのよ」
 人を判断するのは難しい。誰にも丁寧に接する課長のことをわたしは尊敬しているけれど、管理職の立場にあって暴走する部下を指導する力があるかと問われればそれはノーだったのだろう。松永さんは勤続年数が長くなまじ仕事もできるので、反発されるのも面倒で課長自身がフォローに回っていたに違いない。優しい上司によくある、事なかれ主義というやつだ。

 そんな経緯を知ってしまうと、大山課長が経理課と対立していたと聞いても一方的に彼が悪いと決めつけるわけにはいかなくなる。わたしが何とも複雑な表情をしているのを見て、舞が口を開いた。
「だけど今は美沙が臨機応変に対応してくれるから、広報部でも美沙が入社してくれて良かったねって話題になっているんだよ」
「お世辞でも、そう言ってもらえると嬉しい」
「お世辞じゃないよ。前は管理部の事務所内がピリピリしてたけど、今は平和だもん」
 舞と優花が力説するのがくすぐったくて、口元が緩んでくる。不快なことはあったけれど、美味しいものをお腹いっぱい食べて、友人たちに励ましてもらって、この会社に転職して良かったなと思った。わたしの知らない経緯があったとしても、わたしは自分の仕事をやるだけで、会社で働いていれば理不尽のひとつやふたつやみっつやよっつくらいいくらでもある話だ。
「ちょっと美沙、何にやにやしてるのよ」
「別ににやにやしてないよ。デザート食べたいなと思ってるだけ」
「デザートわたしも食べる。ティラミス食べたい!」
 わたしはアフォガードにしようかな、でも優花が言うティラミスも気になるな。三人でデザートメニューを眺めながら、わたしたちは真剣な顔でデザートを吟味し始めた。



 昼間はまだ日差しがきついけれど、夜はすっかり涼しくなった。わたしは店の外に出ると、ライトグレーのカーディガンを羽織った。
「じゃあ、また明日」
「お疲れ。気をつけてね」
 優花は今日もバスで帰るらしく、バス停がある大通りで解散だ。最近彼氏と同棲する為に一駅先のマンションに引越したという舞は、まだ時間が早いので歩いて帰ると言う。天災のように突然降って湧いた横暴に腹が立ちはしたけれど、ふたりが気遣って愚痴吐きに付き合ってくれて、美味しいものでお腹が満たされたので苛立ちは落ち着いた。優花と舞に感謝しながら手を振ると、わたしは彼女たちの背中を見送った。
 舞が連れて来てくれたレストランは、会社の最寄駅から北へ少し歩いた路地にあった。職場は駅の南側にあり、飲みに行く際も南口周辺ばかりだったので、北口界隈を歩くのは実は初めてだ。タイミング良くやって来たバスに乗り込む優花の姿を、少し離れた横断歩道から信号待ちをしながら眺めていると、ファンと短くクラクションが鳴らされた。飛び出した人や自転車がいたわけでなく、無理に車が割り込んだわけでもない。もちろんわたしもきちんと歩道で信号が青に変わるのを待っており、何事かと思いながら左折して来た車を見送ると、その白い乗用車がゆっくりと速度を落として信号の先のコンビニの前で止まった。
「新山さん」
 やがて開いた窓の隙間から見知った男が顔を覗かせて、わたしの名前を短く呼んだ。



2019/05/21

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