こぼれたミルクの戻し方
9. 嵐の日の嵐
週のはじまりは、朝から雨だった。
日本列島を縦断すると当初警戒されていた台風は、幸い西に逸れ、どうやら暴風域を掠める程度で通過しそうだ。けれど南には秋雨前線が停滞していて昨日から雨が降り続き、時折突風が街路樹の枝を大きく揺らしていた。
外部監査は無事に終了したものの、そのまま月末に突入し、引き続きわたしは月次処理でばたばたと時間に追われていた。窓の外は濃い灰色に塗りつぶされ、照明をつけているにも関わらず事務所内が薄暗く感じられる。まったく気が滅入る天気だ。窓の外に向けた視線を手元に戻すと、わたしは提出されてきた伝票の小さな数字を電卓で叩いた。
「ちょっと君、木内さんはどこだ?」
残る数字はあと三行というところで、不意に乱暴に扉が開けられ、唐突に声をかけられた。検算に集中していたわたしは一瞬びくりとして、肩が大きく跳ねる。振り返ると入口には、営業一課の課長が不機嫌な表情を隠そうともせずに立っていた。
「申し訳ございませんが、木内課長は本日はお休みされています」
「はあ? 月末の忙しい時に有給とは、管理の人間は気楽なもんだな」
この男は、何を言っているのだろうか。わたしは眉間に皺が寄りそうになるのを懸命に堪えながら、失礼過ぎる発言を聞き流そうと努めた。本人は小さく愚痴を吐いたつもりだろうが、静かな事務所内では全員に聞こえた筈で、雨のせいで少し蒸し暑かった室内の温度が一気に冷えた気がした。
「じゃあ誰でも良い。経理担当は?」
「わたしですが……」
横柄な口調で尋ねられ、思わずこちらの返事もワントーン低くなる。
営業部とのやりとりは主に営業事務の人達とするので、営業課長と関わることはこれまでなかったのだが、間近で見ると年齢の割に容姿は整っていた。中年太りとかメタボリック症候群なんて言葉とは縁遠いスタイルで、五十歳前後だと思われるが格段に若く見える。だけど、如何せん態度が悪い。わたしは怒るなと自分に言い聞かせながら、静かに男と向き合った。
「アリュームから請求書が届いていないと連絡があったのだが、どうなっているんだ!?」
「確認いたしますので、少々お待ちくださいませ」
返事の代わりに舌打ちが聞こえる。請求依頼書の束を確認すると、確かに提出はされていた。けれど提出日は週末で、急ぎのものは申請書に期日を明記するように義務づけられているのだが、生憎そこは空欄になっていた。
「申し訳ございません。まだ準備できておりませんので、至急作成して本日中に発送いたします」
「何故できていないんだ? アリュームと大口の定期契約を結んだことは、経理の端くれなら知っているだろう。営業は色々やることがあって忙しいんだから、君達も優先的に準備するくらいの機転を利かせなさい。軌道に乗るまでは慎重にやらないといけないんだから、足を引っ張らないでくれよ」
アリュームと大口の定期契約を結んだことは、もちろん知っている。だけど、その担当者はこの人ではない。どうして突然、わたしが知っている人物ではない第三者が登場するのか。人を小馬鹿にしたようにまくし立てた挙句、最後に芝居がかったように盛大な溜息をつかれ、わたしは頭の奥でぷつんと何かが切れる音を聞いた。
「大変申し訳ございませんでした。担当の橋本さんが急ぎのものはすべて期日の指示をくださっていたので、期日指定がないものは、急ぎでないと判断しておりました。気が利かず失礼いたしました。今後アリューム関連の処理は、注意するようにいたします」
慇懃無礼とは、間違いなく今のわたしだ。申し訳ございませんと深々と頭を下げながら、ちくりちくりと先方の不備を指摘してやった。入口の先の廊下に他部署の人が通りかかる気配を察知して、見せつけるように更に体を深く追って頭を下げる。目の前の男は当然わたしの謝罪が心からのものだなんて微塵も思っていないだろうけれど、表面上では最上級の謝罪の意を示しているのでこれ以上怒るに怒れないだろう。
「じゃあ、先方には本日まで待って欲しいと俺から頭を下げておく。必ず本日中に発送しておきなさい」
恩着せがましく頭を下げるなどと言っているが、こちらにだけ非がある話ではない。当然ながらわたしにだって他にも色々と業務があり、それらに優先順位をつけながら仕事をしている。何もこちらの忙しさを考慮しろと突っぱねているわけではなく、期日を指定してくれたら合わせるというルールを設けているのに、一方的にこちらが責めを負うのは馬鹿げた話だ。だけどこれが、この男のせめてもの反撃なのかと思えば哀れにも見えた。
「承知いたしました。部長が戻り次第押印を頂き発送しますが、先方がお急ぎでしたら先にメールでPDFをお送りしましょうか?」
「あ、ああ。もちろんだ。請求書を作成したらすぐに、PDFを私宛てに送りなさい」
いや、絶対にそこまで考えていなかっただろう。わたしの申し出に一瞬きょとんとした顔をしてからの命令に、気が利かないのはどちらだと内心呆れる。何とか神妙な表情を維持したまま、できるだけ早急にPDFをメールする旨をわたしが伝えると、奴はそそくさと管理部の事務所から出て行った。
「新山さん、大丈夫かい? えらく不機嫌だったけど、大山課長は一体何を言いに来たんだ?」
カツカツと耳障りな靴音が廊下の向こうに消えるや否や、斜め向かいの席に座る主任がわたしの所までやって来た。営業課長が入室して来た時はちょうど電話中で、通話を終えて間に入ろうとしたものの、わたしが嫌味をオブラートで包んだ謝罪で強引に事を収めたので入るに入れなかったのだ。
「急ぎで請求書が必要だったようです。請求依頼書には特に期日の指示はなかったのですが、すぐに作成します」
「まったくあの人は……。驚いただろう? フォローに入れなくて悪かったね」
「いえ、大丈夫です。それに、そもそもわたしの担当案件ですから」
経理課の中でわたしが主に売掛を、主任は買掛を担当しているので、請求書作成について主任はまったく関わりがないのだ。かけられた声の優しさをありがたく感じながら、主任とは対照的な営業課長の言動を思い出して、上司に恵まれた自分の幸運に心の底から感謝した。
「それにしても、新山ちゃんの返しは鮮やかだったねえ」
主任の気遣いにお礼を言って席に座った瞬間、隣の島に座る総務課の主任が愉快そうに笑った。
「大山課長、ちょっと目が泳いでなかったか?」
「大人しいと思っていたけど、新山さんはなかなか強いな」
しんと水を打ったように静まり返っていた事務所が、総務主任の一言を皮切りに一気に盛り上がる。ああ、本性がばれてしまった。先程のわたしの対応をからかう人達に愛想笑いで返しながら、わたしは入社以来ずっと被っていた猫の皮がとうとう剥がれてしまったなと思った。きついとか怖いとか、可愛げがないとか思われているのだろうな。わたしはひとつ溜息を吐くと、請求書のフォーマットをクリックして開いた。
先日、営業事務の五十嵐さんが再提出してきた申請書の担当者欄にあったのが、たった今、ここにいる全員を不快にさせた男の名前だった。
コンペの準備で資料室に籠っていたのは橋本で、定期契約をとりつけたのも橋本で、その後も不備がないよう社内外の必要書類を準備していたのも橋本だ。だけど突然、担当者が橋本から大山にしれっと書き換えられて。理不尽が起きたと、わたしはその時に悟ったのだ。
秋刀魚の刺身、食べたかったな。ふと思った。今まで橋本に対して馬鹿だの何のと言いたい放題してきたから、今回は旨い酒と料理で労ってあげようと思っていたのに、あの男の横暴のせいでそれはもう叶わない。
窓の外を見やれば、相変わらず灰色の厚い雲が垂れこめていて、そしてわたしの心の中にも同じ色の暗い感情が渦巻いていた。
2019/05/14