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こぼれたミルクのし方



8. 不思議な関係


 次の飲み会は、駅前に新しくオープンした居酒屋にしよう。峰岸さんはそう提案したけれど、九月に入ってもそれは実現しなかった。

「おや、珍しい人がいますね」
 のんびりとした課長の声に振り返ると、入口に橋本が立っていた。滅多に管理部には来ないので、誰がどの席なのか分からないのだろう。きょろきょろと見渡していたところを、お手洗いから戻って来た課長に声をかけられたらしい。
「聞きましたよ。大口の契約を獲って来たらしいじゃないですか」
「お陰様で、何とかうちに決めてもらえました。それで課長にお願いなんですが、システムの承認と登録を急ぎでやってもらうことは可能でしょうか?」
「ほほう、横山イズムが浸透していますねえ」
「入社以来ずっと、営業はスピードが勝負だと洗脳されてきましたから」
「横山部長は急に入院することになって、あなたのコンペのことをずっと気にかけておられたけど、まったく問題なかったですね」
 横山部長とは、営業一課と二課のトップに立つ営業部長だ。二週間前に体調を崩して急遽入院し、今は一課と二課の課長がそれぞれ部長代理を務めていると聞いている。幸い大事には至らず、暫く療養して来月には復帰する予定だそうだ。
 聞くともなしにふたりの会話を聞きながら、コピーを終えたわたしは自席に戻る。新入りのわたしは入口近くの末席で、だから席に着くには入口で立ち話をしている課長と橋本の前を横切ることになる。会話を遮らないように軽く会釈しながら席に戻ろうとしたところ、課長がわたしを呼び止めた。

「新山さん、こちらは営業一課の橋本くんです。今回、アリュームとの定期契約をとりつけて、購買システムの新規登録が必要となりますので、申請書が届き次第優先でお願いします」
「かしこまりました」
「橋本くん、こちらはこの春から経理を担当している新山さんです。彼女は仕事が早いので、あなたの書類が整いさえすれば優先的にやってくれますよ」
「ありがとうございます。では、先方にはこのスケジュールで回答して、早急に申請書を上げます」
 今までお互いに散々タメ口をきいているけど、上司の前なので敬語で話す。それが何だか気持ち悪くて、ちらりと橋本を見上げたら彼も微妙な表情をしていた。
「では、よろしくお願いします」
 やがて、橋本はそう言って課長に頭を下げると、営業部に戻って行った。わたしは自分の席に座ったものの、一瞬考えて、それからトイレに行くふりをして部屋を出た。

「ねえ」
 営業部はひとつ上の階にあり、橋本は階段で戻るつもりかエレベーターホールの手前で曲がった。わたしは小走りで追いかけると、その背中に向かって声をかけた。
「おめでとう」
 振り返った橋本に、そう素っ気なく言った。コンペに勝つ気満々の発言をしていた橋本から、わたしのスマホにメッセージが届いたのは二日前のことだ。ただ一言、“秋刀魚の刺身を奢ってやる”とあった。彼が定期契約をもぎ取って来たのはわたしでも知っている有名企業で、正直驚きながらおめでとうと返信したけれど、顔を合せる機会がなくて直接伝えられてはいなかったのだ。
「どうも。忙しいと思うけど、頼むな」
「頼まれてあげるわ」
 わたしがそう答えると、あんたなあと言ってわざとらしい溜息を吐かれてしまった。何よと睨むと、何だよと睨み返される。子供じみたやりとりののちに、ふたりとも馬鹿らしくなって吹き出した。
「この件が落ち着いたら、秋刀魚食いに行くぞ。早く行かないと秋限定のメニューが終わるからな」
「うん。秋刀魚と日本酒の為に頑張るわ」
 食い意地の張ったわたしの発言に、呆れたような顔をされるだろう。そんな予想に反し、橋本は柔らかく笑って見せた。
「おう、頼んだぞ」
 ちょっと疲れた顔をして、橋本はじゃあなと片手を上げると階段を上って行った。

 残されたわたしは、まさかそんな笑顔を見せられるとは思っていなくて、何故か敗北感に似た気持ちを覚えた。
 橋本はこのコンペの他にもイレギュラーな業務を抱えていて、ここ数週間はかなり忙しかったらしい。そのせいで、峰岸さんが行きたがっていた居酒屋での飲み会は延期となっていた。そしてわたしは来週から外部監査が入る為に残業が確実で、月末には峰岸さんが関西へ出張らしく、恐らく飲み会が実現するのは十月になるだろう。だけどその頃には橋本も一段落ついていて、きっと同期の皆が祝ってくれるのだろうなと、わたしは仲の良い面々の顔を思い浮かべる。そしてそれとは別に、ふたりで飲みに行くのは決定事項なのかと、ふと思った。
 同期ではなく、友人とも違う。ましてや恋人なんかではない。不思議な関係になったものだと、わたしは彼の姿が見えなくなった階段を振り返った。でも、嫌ではない。
「さてと、旨い料理とお酒の為に頑張りましょうか」
 わたしはひとりごちると、自分の席がある管理部の事務所へと戻って行った。



 課長が褒めていたとおり、橋本の仕事はスピーディだった。その日の午後には件の申請書が提出されて、翌日になるかと思っていたので少し驚きながらも、すぐに課長と部長の承認をもらう為に書類を回した。
 営業職の中には、交渉能力は高いけど事務的なことが苦手な人がたまにいる。だけど橋本は、交通費や出張費の申請も出し忘れがないし、領収書の添付にも不備がない。悔しいけれど、わたしたち管理部門の人間にとって彼は優等生だった。

 恋愛も仕事と同じくらい積極的にいけば良かったのに。そんなことを考えながら、ちらりと隣の島に座っている優花を見やる。
 優花の交際は順調なようだ。たまに彼のことを尋ねてみれば、必ずのろけ話が返ってくる。傍から見ても橋本に勝算はなくて、それは仕方がないけれど、彼は自分の気持ちをどうやって昇華させるのかとたまに思う。自業自得とは言え告白する権利を自ら失い、玉砕して気持ちにけじめをつけることができなかったのだ。仕事に没頭しているのは、そのせいかも知れない。もちろん営業として成績を残す為に頑張っているのだろうけれど、あのがむしゃらな感じは、未練を振り切る作業にも見えて少し心配になった。
「新山さん、こちら問題ないので進めてください」
 不意に呼びかけられ、振り返ると課長が一枚の書類を差し出して来た。それは橋本が提出した申請書で、どうやら急ぎで承認してくれたようだ。わたしはそれを受け取ると、監査の為の書類の準備を中断して、購買システムの登録をすることにした。同い年のよしみとしてわたしが傷心男にしてやれることは、そのくらいしかなかった。


 峰岸さんから連絡が来たのは、翌週のことだった。十月の三連休前の金曜日に、駅前にオープンしたばかりの居酒屋で飲み会を決行するという内容だった。優花に彼氏ができたお祝いと、橋本が大口契約を決めたお祝いだそうだ。そこを並べてあげないでと思ったけれど、彼は何も知らないのだから仕方がない。わたしは了解と返信して、とりあえず飲み会を糧に監査を乗り切ろうと気合を入れた。
 以前の会社でも経験はしているが、やはり監査が入ると緊張感が漂う。対応は課長があたっていてわたしはサポートにすぎないのだけれど、突然予想もしていなかった帳票の提示を求められたりして、経理課全体が終始ばたばたしていた。

「新山さん、こちらお願いしたいんだけど」
 追加で求められた帳票をすべて提出し、ほっと一息ついたタイミングで背後から声をかけられた。ファイリングしていた手を止めて顔を上げると、営業一課の事務の五十嵐さんが一枚の申請書を差し出してきた。彼女は勤続十年の主任で、個性豊かな営業社員たちを支える縁の下の力持ちだ。はいと返事をしながら受け取った書類に目をとおすと、それは橋本が契約した件のシステム登録の申請書だった。
「こちらは既に橋本さんから申請書を提出していただいていて、登録も完了していますよ」
 橋本は営業事務に報告せずに進めていたのだろうか。大口の契約を獲ったからと言って、ひとりで突っ走るなんて張り切り過ぎだろう。わたしが苦笑しながら答えると、五十嵐さんは困ったように否定した。
「ううん、新山さんが急ぎで登録してくれたのは知っているの。今回は訂正をお願いしたくて……」
 ベテランの姉御といった風情でいつもはきはきしている五十嵐さんらしくなく、歯切れの悪い物言いを不思議に思いながら、わたしはもう一度申請書に視線を落とした。何を訂正するのかと目を走らせるも修正箇所はなく、下まで読んでもう一度上部に視線を戻す。すると、そこでようやく担当者が違うことに気づいた。

「五十嵐さん、これ……」
「余計な手間かけて、ごめんなさいね。急ぎじゃないから、監査が落ち着いたら変更しておいてちょうだい」
 戸惑いながらわたしが尋ねると、彼女は憤懣やるかたないという表情で溜息をついた。理不尽が、起きてしまったらしい。
 わたしは脳裏に、少し疲れた様子ながらも達成感に満ちた、そんな橋本の表情を思い浮かべた。他部署のことなので事情は分からないけれど、彼にとって不利益なことになったのは明白だ。だけど、わたしにはどうする力もなく気概もなく、手にした申請書をただじっと見つめていた。



2019/05/05

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