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こぼれたミルクのし方



5. 巻き込まれた傍観者


 一週間は長いのか短いのか、いつも不思議な感じがする。休みを待ちわびていると一週間はとてつもなく長く、週末まであと何日かと指折り数え、週の前半は気が重い。だけど意識していないところではすごく早く過ぎ去っていて、何気なくテレビを見ていたら、つい最近この番組を見た気がするのにもう一週間が経ったのかと驚かされるのだ。

 今週もようやく金曜日を迎え、わたしたちは一週間頑張ったご褒美として、今日も行きつけの定食屋に来ていた。優花は豚カツ定食、わたしは唐揚げ定食に決めて、オーダーをとりに来た顔馴染みの店員さんに注文する。
「ねえ、美沙」
 閉じたメニューを元の位置に戻し、グラスに注がれたお冷で渇いた喉を潤していると、優花がおもむろに口を開いた。
「わたしね、水曜日にはっしーと一緒に帰ったんだ」
 あれから一度も話題にのぼらなかった橋本の名前が唐突に出てきて、わたしは少し驚いた。橋本は馬鹿な男だけれど、あのまま自分の失言をうやむやにするような人には見えなかったので、恐らく何らかのアクションを起こすとは思っていた。だけどそれはわたしにはあずかり知らぬことで、優花も触れられたくないだろうし、橋本の名前を話題にすることは一切なかったのだ。わたしたちが所属する管理部はオフィスビルの十二階にあり、彼が働いている営業部は十三階にあるのでそもそも顔を合せる機会がない。だから月曜日に橋本とふたりで飲んだものの、金曜日にはすっかり彼のことを忘れかけていた。

 そう言えば、橋本は告白したのだろうか。優花が橋本から誘われたと聞いて、わたしの心に下世話な好奇心がむくむくと湧き起こった。
 優花を褒めるということは、その魅力を周囲に気づかせライバルを増やすことになるので、敢えて興味がない風にあしらった。橋本のあの失言は、初恋を拗らせた中学生でも考えつかないような思考回路によるものだった。もういっそ想いを告げてしまえば良いのにと、あの日、口にはしなかったけれどわたしは内心呆れていた。以前プライベートに話題が及んだ時に、今は彼氏がいないと優花は言っていたが、橋本を恋愛対象に見ているかどうかは分からない。だけどあんな風に自滅するような行動をとってしまうのなら、当たって砕けた方が余程マシだと、他人事だから勝手なことを思う。
 だけど、あのヘタレそうな感じでは無理だろうな……。わたしは尚も勝手なことを考えていた。そんなことができるなら、最初からあんな発言をする必要はないのだから。

「同期としての仲を誤解されないように説明するつもりが、咄嗟のことで焦ってしまって、本心でない言葉を口にしてしまったんだって」
 わたしが事実を暴露したことで、自分が優花を傷つけたことが確定的になり、橋本はどうやらきちんと彼女に謝罪したらしい。
「東野さん、あの時はっしーと一緒にいた営業さんなんだけど。あの人ちょっと噂好きだから、はっきり否定しないと変な噂になって面倒だという判断なんだろうなと、それは分かっていたの。だけど飲み会で顔を合せたら、他に言い方があるんじゃないのってだんだん腹が立ってきて、皆がいるのに嫌な態度とってしまった。美沙は一部始終聞いていたから困ったと思うけど、本当にごめんね」
「優花はあの人のことムードメーカーだって褒めていたのに、この人何言ってるんだろうってわたしは内心あの発言にすっごい怒ってた。でも部外者だから、口出しすべきじゃないかなって。ふたりできちんと話できたのなら良かったよ」
 内心怒っていたのは嘘ではないけれど、月曜日に直接本人にも説教してしまった。まあ、それは言わない方が良いだろう。
 そんなことを考えていると、わたしたちが注文した豚カツ定食と唐揚げ定食が運ばれてきた。すっかりお腹が空いていたわたしは早速箸をとり、揚げたての唐揚げに添えられていたレモンを絞って頬張った。熱々の肉汁が口の中に広がり、食欲を増大させる生姜とニンニクの味に幸せな気持ちになる。優花の豚カツもサクサクの衣が美味しそうで、だけど優花の箸はいつもより動きが鈍かった。
「優花、唐揚げ味見する?」
 注文前に優花は唐揚げか豚カツかで迷っていたので、わたしは唐揚げを一個皿の上に載せてあげる。すると優花は嬉しそうに笑って、豚カツを一切れわたしにくれた。その様子にほっとしたのも束の間、彼女の表情は再び曇ってしまった。

「ねえ、美沙。ちゃんと謝ってくれたのに許せないのは、心が狭いかな?」
 予想外の質問に、わたしは驚いて箸を止めた。
「誠心誠意、はっしーは謝ってくれた。だけど、思っていない言葉は口から出ることはないんじゃないかな。わたしは気の合う同期だと思っていたけど、彼はわたしのこと小馬鹿にしていたのかな。そんな思いをずっと打ち消すことができなくて。些細な言葉を受け流せない自分の小ささに、もやもやしてしまうの……」
 自分を責めている優花に、思わずわたしは声を上げた。
「優花は小さくなんてないよ。いくら言った本人に悪気はなくても、言われた方は不快に感じて当然じゃない。むしろ優花は、ひとりでそれを消化しようとしていて大人だよ」
「……そうかな?」
「そうだよ。あんな女性を敵に回すような軽率な発言、優花があの場で暴露していたら、わたしと大石さんであいつを糾弾することもできたんだよ。でも優花はいつもどおり楽しく食べて飲んで、ムードメーカーは優花の方だよ」
 わたしがそう力説すると、優花がようやく笑った。どうやらわたしと大石さんが橋本を吊し上げているところを想像しているらしい。こんなにも優花を傷つけて、実際にそうするべきだったかなと、心の内に黒い感情が湧いてくる。

 そうなのだ。一度吐いた言葉は、誰かに聞かれてしまうと残ってしまうのだ。
 言った本人の意思に関わらず、その言葉は誰かに喜びを与えたり、残酷に傷つけたりすることがある。それをわたしは知っていた筈なのに、だからこそあの時橋本に対して怒りを感じた筈なのに、彼に悪気がなかったことが感じられた為にそのことを忘れかけていた。
 けれど当事者の優花にとって、そんなことは関係ない。信じたい気持ちと、裏切られた気持ち。許したい思いと、許せない思い。きっと相反する感情が、心の中でぐるぐると渦巻いていたのだろう。
 大人になればいちいち波風立てるのが面倒で、黙って飲み込むことも増えるけれど、だからと言って傷つかないわけではない。いっそ切り捨てても惜しくない間柄なら悩まないが、大切な存在であるからこそ、彼女は心を痛めているのだ。

「優花がしたいようにすれば良いと思うよ。距離をとりたいならそうすれば良いと思うし、皆と一緒の同期会くらいの付き合いは続けていけるというならそれも良い。原因はあっちにあるのだから、優花が彼に配慮する必要はなくて、優花の気持ちを第一に考えるべきだと思う」
 わたしは迷いなくそう断言した。優花は、中途入社で右も左も分からないわたしのことを、温かくサポートしてくれた先輩だ。だからわたしが彼女の味方になるのは当然で、そのことを伝えることで少しでも、自分を責める必要がないことを優花に分かって欲しかった。
「ありがとう。美沙にそう断言してもらえると、すっきりした」
 そう言って笑うと、優花は大きな口を開けて豚カツを頬張る。美味しそうに食べる様子に安堵して、わたしも唐揚げを口に放り込んだ。鶏肉の旨味を引き出す濃いめの味に舌鼓を打っていると、さらりと何でもない風に、優花が驚愕の発言をした。

「あのね、美沙は彼とすごく似てるかも」
「へえ、彼って?」
 わたしは深く考えず、豆腐の味噌汁をすすりながら聞き返した。
「高校時代の同級生。今回のことは結構ショックで彼に色々と愚痴を聞いてもらっていたんだけど、はっしーを非難するわけではなく、でもわたしの気持ちが一番大事だと言ってくれて。はっしーの発言にもやもやしているくせに、もしもはっしーのことを悪く言われたらそれはそれで彼のことを知らないくせにと複雑な気分になったと思うのね。だから余計なことは言わずにわたしの気持ちを優先してくれたことが嬉しかったの」
 すみません、わたしは心の内で散々橋本のことを罵りました。何なら本人にも馬鹿だと言ってしまいました。いや、そうではなくて。そんなことよりも“彼”ってどういうことだと、わたしの脳内は大混乱に陥っていた。

「ちょっと待って、彼って彼氏のこと!?」
 何と頭の悪い質問だろう。だけどわたしは、反射的にそう尋ねていた。
「えへへ、そうなの。この間、久しぶりに高校の同窓会があって、昔仲良かったクラスメイトと付き合うことになったんだ」
 わたしの間抜けな質問に、優花は満面の笑みで答える。彼女が今どれだけ幸せかを雄弁に語っているその笑顔は、わたしには少し眩しいくらいだ。
「実はわたし、高校時代から地味だの女子力低いだのとよくいじられていて、その同窓会でも相変わらず地味だなって何人かの男子にからかわれたの。確かにおしゃれに疎い自覚はあるけど、ちゃんとメイクもしているのに十年ぶりに会ってもそんな扱いで、はっしーの件があった直後だったから余計にショックで。でも彼は、そんなことないよって否定してくれた。それがあまりにも自然で、そう言えば高校時代も彼は一度もそんな話題には加わることがなかったなと、今更ながら彼の優しさに気づいたの」
 たまに話の糸口として、誰かを貶める人がいる。そんなことをされて不快にならない筈がないのに、そうすれば場が盛り上がるとその人は勘違いしているのだ。きっと優花の同級生も、優花なら笑って流してくれるから、久々の再会の場を盛り上げるのに彼女をいじっておけば良いと軽率に考えたのだろう。それで彼らは周囲を笑わせたつもりかも知れないが、優花の気持ちは置き去りだ。だけどそれを掬い上げてくれた人が、その場にいたのだと言う。

「その一言に、きゅんときたんだ?」
「きゅんときた」
 からかったつもりが、あっさり肯定されて撃沈する。のろける様子が可愛すぎて、会ったこともない彼氏さんを心から羨ましく思った。
「どっちから告白したの? 付き合う経緯とか色々気になるのに、昼休みがもうすぐ終わるじゃん!」
「美沙は人の恋愛に興味がないと思ってたから、ちょっと意外な反応だ」
 わたしがそう悔しがると、優花が笑い出す。彼女の言うとおり、基本的にわたしは他人の色恋沙汰には興味がないが、愚痴とか悪口とかでないひたすら幸せなだけの話は別だ。
「じゃあ今度、女子会しようよ。この間、舞が三人で飲みたいと言っていたの」
「女子会楽しそう! じゃあ、そこで彼氏さんの話を色々聞かせてね」
「舞にもそう言われてるけど、話すような特別なエピソードなんてないよ」
 そんな風に言いながらも顔は緩んでいて、少しつつけば恥ずかしながらもあっさりと馴れ初めを話してくれそうだ。先日の飲み会以来、大石さんとは廊下やトイレで顔を合わせれば雑談する仲になっていて、三人で飲みに行ったら絶対に楽しいだろうと既にわくわくしていた。

 やがて、すべてを綺麗に平らげたわたしは、箸を置いて手を合わせた。そのタイミングで、各テーブルを回っていた店員さんが空いたグラスに水を注いでくれる。ありがとうとお礼を言いながらお冷を一口飲むと、わたしはそのまま手の中のグラスに視線を落とした。
 グラスに注がれた水はこうやってわたしの喉を潤してくれるけれど、例えばわたしが手を滑らせてグラスを落としてしまえば、水は零れてしまい二度と飲むことは叶わない。ふとそんなことを考えてしまったのは、馬鹿なあの男のせいだ。
 あの日、橋本は自らの手で水をぶちまけてしまった。本人にそんなつもりはなくて、半ばパニックになって落としてしまったと言うのが正解かも知れないが、零れた水を元に戻すことができないのは事実だ。あの時点で橋本にチャンスがあったのかどうか、優花の気持ちは知る由もないが、だけど優花の彼と橋本の発言は天と地ほど違い過ぎてフォローのしようもない。

 馬鹿だなあ。そう思う気持ちに、可哀想だと憐れむ思いが少しだけ混ざる。けれど、水もミルクもジュースも酒も、一度零れたら戻す手段はなくて、それを嘆いたところで仕方がないのだ。
 半ば事故のような形で橋本の気持ちを知ってしまったが、彼はこの先どうするのだろうか。優花の様子からすると謝罪をしただけで告白はしていないようだが、残念ながら彼に幸せな展開は待ち受けてはいない。同情の気持ちを抱えながらも、変に彼に関わってしまった月曜日の自分の行動を、わたしは大いに後悔していた。



2019/04/20

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