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こぼれたミルクのし方



6. 恋愛感情のない同期


 盆休み明けの社内は、どこか気怠い空気が漂っている。それは休みボケと残暑によるものであり、何よりも、今日が金曜日ということにも起因すると思われる。一日出勤するだけでまた休みという喜びがありつつ、それならばいっそ今日も休みにして、盆休みを繋げて欲しかったという不満を皆心の中に抱いているに違いない。集中力が途切れたわたしは眼鏡を外すと、チェックしていた書類を持って立ち上がった。
「営業部に行ってきます」
 誰にともなくそう行先を告げ、社内便用の書類トレーに入っていた営業部宛ての郵便物を手に取る。営業一課から提出された書類の数字に不備があり、内線でも良かったのだが、書類を見せながら説明した方が早いので直接担当者のところに行くことにした。

「あれ、新山さん?」
 用事を済ませて営業部から出たところで、誰かがわたしの名前を呼んだ。振り返ると、がっしりとした体格の男の人が、街中で配っていたと思われる宣伝用のうちわで扇ぎながらこちらに近づいて来る。その人は優花の同期の峰岸さんで、そう言えば確か営業二課だと思い出した。
「お久しぶりです。今戻りですか?」
「うん。今日も外は暑いぞー」
 峰岸さんの顔は一ヶ月前の飲み会の時よりも日に焼けていて、暑い中の外回りは大変だなとしみじみ思う。
「随分と焼けましたね。今年は猛暑だから、特に大変そう」
「そんなに焼けた? 外回りのせいもあるけどどちらかと言うと、盆休みに学生時代の連れとフットサルしたのが原因なんだけどね」
 そう言って頭を掻く。初対面の時から何かスポーツをやっていそうだと思っていたけれど、やはりそうかと、彼の言葉にわたしは密かに納得していた。

「ところで、新山さんがこのフロアにいるなんて珍しいな」
「ちょっと確認事項があったので」
 わたしが所属する管理部はひとつ下の階にあり、滅多にこのフロアへ上がって来ることはない。どちらかと言うとわたしは業務的に申請などを受ける側なので、必要な書類などはわたしの所へ届くようになっているし、何かあれば内線やメールで事が済むのだ。だから同じ部屋で働いている優花や、大石さんと田島さんも同じフロアなのでたまに顔を合せるが、他の三人は姿を見かけることすらなかった。
 そんな他愛のない話をしていると、不意に峰岸さんがわたしの肩越しに、誰かにうちわを振って合図を送る。何気なく振り返ると、書類を抱えた橋本が会議室から出て来たところだった。
「お疲れさまです」
「どうも」
 橋本に会うのは、ふたりで飲んだあの日以来となる。つまりは、彼の秘めたる恋心をうっかり知ってしまった日以来ということだ。この人は、優花に恋人ができたことを聞いているのだろうか。そう思いながら、ちらりとその表情を窺った。
「休み明け早々、ミーティングか?」
「いや。来月コンペがあって、その資料を整理するのに会議室を使っていただけだ」
 目の前のふたりは色々と情報交換をし合っているが、橋本の様子からは何も判断することができない。そもそも彼の普段の様子を知らないので、判断する材料がないのだと気づき、わたしは思わず苦笑した。

「そういや、駅前に新しく居酒屋がオープンするらしいぞ。記念価格でドリンク料金が安くなっているから、また飲み会しようぜ」
 相変わらずうちわで忙しなく自分に風を送っていた峰岸さんは、ふと思い出したようにその赤いうちわをこちらに見せてきた。どうやら彼が手にしているうちわは、新しくオープンする居酒屋の宣伝に配られていたものらしい。
「ああ、銀行の隣のビルか。良いじゃん、次はそこにしようぜ」
「新山さんも飲むの好きみたいだし、この店でオッケーだろう?」
 前回の飲み会では峰岸さんと一番席が離れていた筈なのに、どうやらわたしが酒好きだと認定されているらしい。まあ、飲み放題だったからとこっそりおかわりを注文しまくっていたのだから当然か。
「確かに、この値段は魅力ですねえ」
 わたしは赤地に白いフォントで太々と価格が書かれたうちわを眺めながら、しみじみと呟いた。
「だろう? じゃあ、場所は決定な。日程はまた調整するから、女子に言っておいてよ」
「了解です」
 さてどうするか。了解したものの、わたしは内心頭を抱えた。優花のことだから、橋本の発言にわだかまっていても同期が集う飲み会には参加すると言うかも知れない。一方、橋本は優花のことを密かに想っていて、だけど優花には恋人ができたのだ。
 ああ、わたしは新参者の筈なのに、何でこんなに微妙な関係に巻き込まれているのだろうか。それもこれも橋本のせいだと、目の前の男をじろりと睨むと、わたしの視線に気づいた橋本はしれっと目を逸らした。とその時、峰岸さんが唐突に爆弾を投下した。
「そうだ、森野に伝言。デートで忙しいから同期会不参加は、NGだからと言っといてな」

「あれ、新山さん知らなかった? 言ったらまずかったか」
 余程わたしが驚いた顔をしていたのだろう。一瞬まずいという表情を見せた峰岸さんに、わたしは慌てて否定した。
「聞いてます、聞いてます。でも、峰岸さん情報早いですね」
 油断していた。男性陣は知らないものだと勝手に思い込んでいて、まさかこのタイミングで優花の話題になるとは予想していなかったのだ。
「先週だったか、森野が男とふたりで歩いているところを偶然見かけたんだ。それで翌日すぐに尋問したの」
「へえ、森野に彼氏ができたんだ。なら、次の飲み会はお祝いだな」
 橋本のその言葉に、やはり知らなかったのだと悟る。恐る恐る見上げると彼は笑っていて、だけどわたしは彼の気持ちを知っているから、だから笑顔の仮面の下の表情が透けて見えてしまった気がした。
「森野は前の彼氏と別れてから割と長い間ひとりだったけど、良い人が見つかったみたいで安心したよ。幸せそうな顔して手とか繋いじゃって、ラブラブだったぞ」
 何も知らない峰岸さんが、そう言って茶化す。もう追い打ちをかけないでください。さすがに橋本が可哀想になって、わたしは口を挟んだ。
「もう峰岸さん、飲み会の席であまり優花をからかったら駄目ですよ」
「えー、駄目かな。酒の肴にしようと思ったのに」
 絶対にやめてください。わたしは心の中で叫ぶも、実はわたしと大石さんは既に、散々優花の彼氏の話を酒の肴に楽しんでいた。三人で女子会をしようという話が持ち上がり、お盆休みに入る前日に開催されたのだ。予想したとおり、優花は恥ずかしがりながらものろけたい気持ちもあるようで、つつけば色々と話してくれてかなり盛り上がった。
 峰岸さんの口ぶりからして、なかなか次の恋に進まない優花を皆は心配していたのだろう。だから彼女のことをからかって、仲間内で目いっぱい祝ってあげたいのだろう。だけどそうなれば、間違いなく死んだ魚の目になってしまう男がここにいるのだ。

「それにしても、同期とは言え本当に皆さん仲が良いですよね」
「ああ、それは恋愛感情がないからだよ」
 話を逸らそうとわたしが口にした言葉に、峰岸さんが予想外の答を返す。一瞬意味が分からなくて、わたしはオウム返しに尋ねた。
「恋愛感情……?」
「そう。うちの会社は割とオープンだから社内恋愛もまあまあ多くて、結構くっついたり別れたりしていているんだ。普通に付き合うには構わないけど、色々揉めると周りも気を使うだろう? その点、俺らの間には一組もカップルが成立しなかった。入社した時に皆それぞれ彼氏彼女がいて、誰も同期に対して恋愛感情を持つことがなく、その後もそれは変わることないまま今に至っている。男とか女とかじゃなく、同士みたいな存在に思えたことが、六人全員が辞めずに続いている理由のひとつじゃないかと俺は思っているんだ」
 ああ、そういうことか。わたしは心の中で納得した。
「そんな同期の集まりに混ぜてもらえて、光栄です。じゃあ、わたしはそろそろ戻りますね。優花と舞には話しておきます」
 少し立ち話をし過ぎたようだ。おどけた調子で会話を締めると、わたしはふたりに会釈をする。峰岸さんは手を振る代わりに赤いうちわを振り、橋本は片手を小さく上げて応えてくれた。その顔には相変わらずへらへらと笑顔を貼り付けていて、わたしはそっと目を逸らすと、足早にエレベーターホールへと向かった。

     ***

 タイムカードを押して外に出ると、日も暮れかけているというのにまだ太陽の熱が残っていた。昼間の長さは徐々に短くなり、夏のはじめは退社時間はまだまだ明るかったけれど、今はもう薄暗くなってきている。だけど気温は一向に下がらず、わたしは肌に纏わりつくような熱気にうんざりとしながら、駅に向かって歩き出した。
 ホームに上がると、いつもより人口密度が低かった。大手企業では明後日の日曜日までが夏休みのところも多いと聞くので、きっとそのせいだろう。そんなことを考えながら電車を待つ列の後ろに並ぶと、わたしは電光案内を見上げた。次の電車の到着は五分後だ。そのまま何気なく視線を移し、隣に並んでいる人が視野に入った。
「あ……」
 思わず小さく声をあげる。しまった。そう思った瞬間、隣に立っているサラリーマンと目が合った。橋本だった。

「どうも」
 口の中で小さく挨拶すると、同じように返してくる。どうしてわたしはこの列に並んでしまったのだろう。どうしてわたしは声をあげてしまったのだろう。心の中で自分自身を罵倒した。今更移動するわけにいかず、かと言って、何を話せば良いのかも分からない。今まで一度も電車が一緒になるなんてなかったのに、今日の今日でこんな偶然が起こるなんてと、自分の運の悪さに厄日かと落ち込んだ。
 不意に、橋本が口を開いた。ちょうどそのタイミングで隣のホームに電車が到着することを告げるアナウンスが流れ、わたしは上手く聞き取れずに彼を見上げた。
「悪かったな」
 こちらを見て、橋本はもう一度言った。前に飲みに行った時はわたしのことをツンツンしているとか嫌な奴とか、散々暴言を吐いたくせに、やけにしおらしくて調子が狂う。だからわたしは、思わず口にしていた。
「飲みに行く?」



2019/04/25

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