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こぼれたミルクのし方



4. やっぱり馬鹿な男


 週が明けた月曜日も相変わらず暑かったけれど、朝のラッシュが少しだけましになっている気がした。よく考えてみれば学校は夏休みに入ったので、学生がいない分、少しだけ車内の密度が低いのだと思い至る。わたしも長い夏休みが欲しいなあ。旅行会社の中吊り広告を眺めながら満員電車に揺られていると、降車駅を告げるアナウンスが聞こえてきた。
 タイムカードを押して、いつものようにコピー用紙の補充などの雑務を行っていると、先輩社員や上司たちが次々に出勤して来る。けれど、優花がなかなか姿を現さない。休みなのかと心配になってホワイトボードを見やると、森野という名前の横には会議室Aと書かれていた。そう言えば、今日は来年の新卒採用の最終面接があると言っていた気がする。先週ランチの時に優花がそんな話をしていたことを、わたしはようやく思い出した。筆記試験とグループ面接を通過した人たちの個人面接が今日と明日で行われるらしく、恐らく早めに出社して会場の準備などを行っているのだろう。わたしはほっと胸を撫でおろすと、自分の席に戻って週末に各部署から提出されてきた申請書類に目を通した。

 結局、面接の受付にあたっていた優花は終日離席していて、昼休みも時間が合わなくて一緒にとることができなかった。夕方になってようやく席に戻って来たと思ったら、ノートパソコンと書類の束を抱えてすぐに会議室に籠ってしまったので、恐らく明日の面接の準備しているのだろう。
 ちょうど区切りの良いところで定時になり、わたしは入力していたデータを保存して眼鏡を外した。経理の仕事は細かい数字を打ち込むことが多いので、少しでも目の負担を軽減する為に、仕事中はブルーライトをカットする眼鏡をかけている。スクエア型の眼鏡をかけていると少しだけ仕事ができるようになった気がして、オンとオフの切り替えにもなるので密かなお気に入りだ。その眼鏡を入れたケースを引出しにしまい、パソコンをシャットダウンして帰ろうと思ったその時、わたしのデスクの電話が鳴った。短く鳴るコール音は内線で、もうパソコンも落としたのに面倒だなと思いながら受話器をとる。

「はい、新山です」
『営業一課の橋本だけど』
 受話器の向こうで名乗ったのは、意外な人物だった。あまりにも驚いて、一瞬、不自然な間が空いてしまう。
「……お疲れさまです。先日はどうも」
『こちらこそ』
「何か、急ぎの案件ですか?」
 先週末の飲み会に参加させてもらったので一応挨拶をしたものの、それ以上雑談する気はなくて、わたしはさっさと本題に入るよう水を向けた。何か急ぎの処理を要しているのなら早く言って欲しい。課長もそろそろ帰り支度をしているので、わたしで判断がつかないことなら退社される前に確認しておきたかった。
『あ、いや。そうじゃなくて……』
 もともと心象が良くないので、退社時間に内線をかけてきて言い淀んでいるだけで、少し苛ついてしまう。これは仕事の電話ではないな。言い辛そうにしている受話器の向こうの空気から、わたしはそう結論づけた。
『ちょっと話したいことがあって。もし予定が空いていたら、このあと時間が欲しいんだけど』
 仕事の話ではないと予想したものの、ようやく意を決したように橋本が切り出したのは、予想外の要望だった。

     ***

 わたしは会社を出ると駅に向かい、電車に乗ってふたつ先の駅で降りた。そこは複数の路線が乗り入れているターミナル駅で、わたしの乗り換え地点でもあるのだけれど、今日は一旦改札の外に出る。そのまま駅ビルの地下に下り、わたしのスマホに送られてきた居酒屋を目指した。
「新山さん、こっち」
 和のテイストを全面に押し出した店内に足を踏み入れると、奥の席に座っていた男が手を挙げた。わたしが向かいの席に座ると、店員さんが冷えたおしぼりを差し出してきた。今日は湿度が高くて顔がテカテカになっており、思い切り顔を拭きたい衝動に駆られるが、そんなことはできないので大人しく手だけ拭いておく。そして、とりあえず生ビールを注文した。

「急にごめん」
「いえ」
 三日前はご機嫌な様子でビールを呷っていた橋本は、殊勝な様子でそう詫びた。帰る間際に受けた内線で話がしたいと橋本に言われ、正直わたしは用事があると嘘をついて断ろうかと迷った。わたしはこの男のことを良く思っていなくて、そんな相手とふたりで飲みに行くなんて罰ゲームにしか思えなかったからだ。けれど結局、わたしは了承した。一体どんな言い訳をするのか、意地の悪い興味が湧いたのだ。
 金曜日の夜、酔っぱらった優花が放った言葉に、橋本は己の発言が当の本人に聞かれていたことを察しただろう。そしてわたしの冷ややかな態度に、わたしもその場にいたと気づいたに違いない。だけど確証はなくて、まさか本人に尋ねるわけにもいかず、だからわたしに探りを入れる為に呼び出したのだ。

「あなたの発言、聞いてましたよ」
 店員さんが運んで来た中ジョッキを互いに小さく掲げると、まずは琥珀色の液体で渇いた喉を潤す。ごくごくと勢い良くジョッキの半分くらい呷り、口の周りについた泡を拭うと、わたしはあっさりとそう言い放った。
「え?」
「わたしたち、毎週金曜日のランチは“和み家”に行くことにしているんですよ。先々週も定食を食べに行って、帰りに横断歩道のところであなたを見かけて。優花があなたのこと、同期でムードメーカーだと教えてくれたんです。そしてわたしたちもエレベーターホールに向かったら、話し声が聞こえてきて。別に聞くつもりはなかったんだけど、人気がなかったから結構声が響いていて、あなたが優花をどう思っているのか聞いてしまったんです」
 橋本が優花を地味だと陰で言っていたことを、わたしたちは聞いていた。
「そっか……」
 きっと、自分の勘違いであっていて欲しいと、彼はそう願っていただろう。だけど勘違いなどではなく、自分が発した言葉が大切な同期を傷つけたという事実を無情にも突きつけられて、目の前の男は分かりやすく項垂れた。
「ごめん」
「わたしに謝られても」
 そうわたしは突き放した。傷ついているのは優花の方で、聞かれて困るなら最初からあんなことを口にしなければ良かったのだ。

 月曜日の飲食店は比較的空いていることが多いが、この店は人気らしく、カウンター二席を除いてすべて埋まっている。確かにメニューは割安で、店員さんはてきぱきと動き回っていて、一口食べた突き出しの筑前煮は美味しかった。満席に近いものの酔って騒ぐような客層ではなく、各々が酒と肴を静かに愉しむ落ち着いた雰囲気の中で、橋本が絞り出すように呟いた。
「あれは、本心じゃなかったんだ」
 いやいやいやいや。ビールを一口飲んだのち、箸を手に取ることなく俯いていた橋本がようやく発した言葉に、わたしは心の中で盛大に突っ込みを入れた。そんな言い訳が通用するならば、どんな悪口だって許されてしまうではないか。
「じゃあ、本心ではないのに何故あんなことを言ってしまったんですか?」
 自然と言葉に現れてしまう棘を必死に抑えようとしながら、わたしは努めて冷静に問いかけた。
「あの時一緒にいた人、営業一課の二年上の先輩なんだけど、噂好きで女子と喋ってたらすぐ探りを入れてくるんだよ。大事な同期なのに、変にからかわれてぎくしゃくしたら困るから、だからそんな関係じゃないと強調したかったんだ」
「余計にぎくしゃくしてますけどね」
 何だ、この馬鹿な男。第一印象を裏切るどころか、それが間違っていないと裏づけるような愚かな発言に、わたしはもはや棘を隠すことを忘れていた。
「あんな誰が聞いているか分からない場所で、陰口ともとれる発言をして、優花の耳に入ったらどうするつもりだったの?」
「陰口なんかじゃない」
「それはあなたが決めることじゃない。聞いた人がどう感じるかで決まるものなの!」

 ――あんな可愛げがない女。
 不意に、懐かしい声が耳の奥に響く。
 言いたいことがあれば、本人に直接言えば良い。直接言えないのなら腹の中に収めておけ。どうしても収め切れないのなら、せめて絶対に本人に聞かれない場所で言って欲しかった。

「まさかあの時間に、あんな所にいると思わなかったんだ」
 往生際が悪い言い訳に、一瞬別の場所を彷徨いかけた思考が戻る。わたしは溜息が出そうになるのを何とか堪えながらも、だけど自分の表情には軽蔑が滲んでいるだろうという自覚があり、もはや取り繕うことは放棄した。
「交代で電話番してるから、業務がずれ込んだらあの時間に昼休みとることも普通にあるの。それに本人が耳にしなくても、誰か知っている人が聞いて告げ口することだってあるよ」
「……」
「あなたが優花をどう思おうと勝手だけど、それはあなたの意見でしょう? あなたの好みで女性を否定しないで」
「そんなつもりじゃない」
 橋本と慣れ合うつもりはなくて、一線引いているのを明確に示す為に敢えて敬語で話していたが、だんだん感情が昂ってきていつしかタメ口になっていることにわたしは気づいていなかった。優花の為に怒っているのか、自分のことで腹を立てているのか分からなくなってきて、目の前の男をただ糾弾し続ける。
「そんなつもりじゃなくても、現にしてるの。地味も派手も、要は男の好みでしょう? あなたの好みに合わないだけで、優花を地味呼ばわりしないで!」
「森野は地味なんかじゃない!!」
 唐突に、橋本が声を荒げた。わたしの攻撃に防戦一方だったくせに、突然の反撃にわたしは一瞬びくりと怯んでしまう。そんなわたしを真っ直ぐに見据えると、橋本は宣言するように言い放った。
「森野は地味なんかじゃない。控え目で、でも愛嬌があって可愛いんだ!」

 この男は、何を口走っているのだろうか。わたしは何となく嫌な予感がして、とりあえず泡の消えたビールを一口飲んで気持ちを落ち着かせた。
「そんなの知ってるわよ。だけどあんたがその口で、地味だって言ったんじゃないの」
「だって仕方ないじゃないか。東野さんは一日に百回くらい彼女欲しいと呟くくらい切羽つまっていて、そんな人が森野に興味を持ったら危機感抱くに決まっているだろう。食いしん坊で女を前面に出してこないから皆気づいていないけど、人懐っこくて可愛いから、東野さんに気づかれたら絶対にロックオンされるに決まっているんだ。だから俺は……」
 そこまで一気にまくしたてると、橋本は急に我に返り赤面した。そして誤魔化すように、ジョッキに半分以上残っていたビールを一気に呷る。
 馬鹿じゃないの。わたしは一気に脱力して、腹の底から長い長い溜息をついた。
「馬鹿って言うな」
「あ、ごめん。思わず本音が出てた」
 心の中で呟いていたつもりだったのに、あまりに馬鹿馬鹿しい展開に、本音が口から漏れ出ていたようだ。
「あんた、初対面からやけにツンツンして嫌な奴と思っていたけど、やっぱ嫌な奴だな」
「はあ!? そっちこそ、馬鹿な男だと思っていたけど、やっぱり馬鹿な男ね」
 売り言葉に買い言葉で、そう応戦する。最初から橋本の心象が悪かったが、どうやらわたしが良く思っていないことは本人にも伝わっていたようだ。まあ、あまり隠す気もなかったから当然なのだけれど。

「さっさと優花に謝りなよ」
 やがてわたしは、そう呟いた。
 橋本は、優花のことが好きなのだ。自分だけが彼女の魅力に気づいていると自負していて、でも告白する勇気がなくて、そんな時に別の東野という先輩がいきなり優花を話題にしたので焦ってしまった。だから先輩が彼女の魅力に気づかないように、敢えて優花を地味だと評したのだ。一体どこの中学生だと、心の中で盛大に突っ込む。好きなのに正反対のことを言って本人に聞かれるなんて、少女漫画の王道の展開ではないか。
「……分かってる」
 小さく頷くと、橋本は気まずそうに目を逸らした。散々ぎゃんぎゃん騒いで、何だかお互い疲れて押し黙る。いつの間にか運ばれていただし巻き卵を口に運ぶと、ほんのりと甘く優しい味が広がった。
 わたしの橋本一哉の第二印象は、やっぱり馬鹿な男だった。



2019/04/17

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