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図鑑



だから白からはじめましょう 2


 晋平にはじめて彼女ができたのは高校一年の秋で、相手は幼馴染の斉藤夕子のクラスメイトだった。
 同じマンションに住む夕子とは同い年ということもあり、小学生の頃は他の友達も交えて毎日のように公園で一緒に遊んでいた。中学に進学するとさすがに一緒に遊ぶことはなくなり、高校入学後は学校が違う為に顔を合わせることすら滅多になかった。
 そんな夕子から女の子を紹介したいと言われたのは、高校はじめての文化祭が終わった頃だ。どうやら通学途中に晋平を見かけた女子が一目惚れし、クラスメイトの夕子がたまたま幼馴染だと知って、紹介してくれと頼み込んできたらしい。嫌なら自分に気がねせずにはっきり断ってねと何度も夕子に念押しされたが、結局晋平は付き合うことにした。
 彼女は小柄で、可愛らしい子だった。晋平は彼女のことを覚えてはいなかったけれど、好きだと言われて悪い気はしなかったし、これから付き合っていくうちに好きになれるだろうと思っていた。純粋に、“彼女”という存在に憧れがあったのも事実だ。

 けれども、付き合い始めて三ヶ月も経たないうちに、彼女の方から別れを切り出されることになる。理由は、何かが違ったかららしい。つまり彼女は、容姿が自分好みだった晋平に勝手な憧れを抱いて、中身は自分好みでなかったことに勝手に幻滅して離れていったのだ。
 別れたことを知ると夕子はひどく申し訳なさそうにしていたけれど、別に夕子のせいではない。紹介してくれたのは夕子だが、付き合うことを決めたのは晋平だ。実際に交際をはじめてから幻滅されたのも、晋平が口下手で退屈な男だったからだろう。

 晋平は、彼女に未練を感じているわけではない。恨んでいるわけでもない。ただ、きちんと相手を知って好きになってから付き合わなければいけないと痛感した。次に誰かと付き合う時は、自分のことをきちんと理解して、そして好きになってくれた人を選びたいと思った。
 憧れとか興味とか軽い気持ちで、よく知らないままに付き合うのは相手にも失礼なのだと、はじめての彼女の思い出は少しほろ苦いものとして今も晋平の胸に残っている。



 その日は朝から雪がちらついていた。
三学期は自主登校になっている為、晋平は週に二、三回だけ登校して軽く問題集を解き、まだ受験が終わっていない友人たちの邪魔にならない程度に喋ったりしている。登校しない日はたいがい昼間からバイトだ。
 一時から出勤している晋平がちらりと時計を見ると、ちょうど四時を過ぎたところだった。そろそろ学校帰りの学生たちが増えてくる時間だ。晋平は自動ドアの外の景色をちらりと見やった。
「シンちゃん、悪いけどちょっと買い物頼まれてくれないかい」
 背後からかけられた声に振り向くと、店長が立っていた。
「はい。何を買って来ましょうか?」
「マジックと、あとは色画用紙もお願いできるかな」
 先程から奥で今井がポップを作成しているのだが、どうやらマジックのインクが切れたらしい。今はパートだが結婚前はデザイン事務所で働いていたらしく、今井が作るポップはセンスがあって読みやすく、お客さんにもすこぶる評判が良い。

 面倒なので、店のロゴが入った紺色のエプロンの上にそのままコートを羽織り、裏口から外へ出た。冬の冷気が頬を刺し、思わず身震いする。晋平は白い息を吐きながら、数軒先の文房具屋まで小走りで向かった。
 頼まれた品物を買って領収書を切ってもらい、寒さに身構えながら外へ出る。すると、数メートル先の人ごみの中に見慣れた後ろ姿を見つけた。今日は確か休みだったのではないかと思いながら、彼に追いつこうと足を早める。そうして声をかけようとした瞬間、晋平の体はぴたりと固まってしまった。
 翔の隣には、桜が舞い散る中で一度だけ言葉を交わしたあの子の姿があった。

 結局、晋平は翔に声をかけられないまま裏口から店に戻った。
 翔が付き合ってる先輩とは、あの子なんだろうか。思い起こせば様々な事実が符合する。
 ふたりとも同じ櫻塚高校で、一年の翔に対しあの子は二年生だった筈だ。晋平が彼女の告白を断ってからも暫く同じ電車に乗っていたけれど、二学期から時間をずらされるようになった。翔が意中の先輩を射止めたのは夏頃だと、確か先日聞いたような気がする。
 予想もしなかった展開に、晋平はただ呆然と立ち竦むしかなかった。買って来た品物と領収書を店長に手渡すと、コートを脱いで再び晋平はレジに立つ。
 ほら、手遅れじゃん……。冷えた指先に息を吐きかけながら、晋平は小さくひとりごちた。


 晋平がこの店の求人を見つけた時、真っ先に思い浮かべだのはいつも車内で本を読んでいるあの子の姿だった。夏休みが明けてから同じ電車に乗り合わせなくなって、ずっと気になっていて。このあたりで一番大きな本屋で働いていたら、いつか彼女が来店するのではないかと心のどこかで期待していた。
 彼女の存在には、いつの頃からか気づいていた。どこから乗って来るのかは知らないが、晋平が電車に乗り込むと既に彼女は反対側のドアにもたれ、いつも本を読んでいた。晋平が利用する時間帯の乗客はまばらで、言葉を交わすことはなくても毎日顔を合わせる彼らの存在は感じている。空いている席に座ることはせず、いつも同じ場所に立って本を読んでいる彼女の横顔もまた、確実に晋平の日常の風景の一部だったのだ。

 彼女が覚えているかどうかはわからないが、晋平は一度だけあの子と言葉を交わしたことがある。
 信号機の故障で朝からダイヤが乱れていたその日は、珍しく車内が混み合っていた。不意に車体が大きく揺れ、その力に抗えない乗客たちの体も大きく傾く。その瞬間、何とか踏ん張った晋平の足元にばさりと音をたてて何かが落ちた。
 それは、春らしい薄紅色の花柄カバーがかけられた文庫本だった。反射的に拾って落とし主を見ると、いつもは反対側のドアの傍に立っているあの子だった。外れてしまったカバーをかけ直すその瞬間に、本のタイトルが視界を掠める。そのまま本を差し出すと、持ち主は恐縮したように頭を下げた。

 彼女のブックカバーと同じ色に染まる駅のホームで、唐突に想いを告げられた時は本当に驚いた。
 嬉しくなかったわけではない。気持ちが揺れなかったわけでもない。けれども、彼女の言葉を真に受けて喜んだらまた傷つくぞという警告が、ずっと耳の奥で響いていたのだ。
 彼女もまた、毎朝見かける顔馴染みの人間に対するただの好感を、恋だと錯覚しているに違いない。苦い思い出が脳裏をよぎり、再び傷つくのが怖くて晋平は踏み出す勇気が出せなかった。彼女のことが気になる理由をきちんと説明づけられないと付き合う資格がないような気がして、彼女の姿を見つけて安堵する毎朝の習慣については深く考えないようにした。
 けれども今、晋平はあの子が翔の彼女だったという現実に衝撃を受けている。傷つくことを恐れて、結局は余計に傷ついている自分の間抜けさ具合に、晋平はひとり皮肉な笑いを浮かべた。


 自動ドアが開く微かな音に、ふと我に返る。反射的に目を向けると、翔と彼女が立っていた。
「いらっしゃいませ」
 晋平は普通に言ったつもりだったが、失敗した。僅かに声が裏返った。
「シンちゃん、今日はお客さんを連れて来たんだよ」
 何も知らない翔は得意げに言うと、あの子の方を振り返って笑った。彼女は店に入って晋平の姿を認めた瞬間に驚いた顔をして、そのあとは気まずそうに俯いている。
「僕の彼女の親友の、春菜先輩です。そしてこちらはバイト仲間のシンちゃん」
 どうも、と口の中で小さく呟く。そして晋平はのろのろと、翔の言葉の意味を理解する作業を脳内で繰り広げる。そしてようやく、“彼女の親友”という単語に引っかかった。
「春菜先輩が探している本があるから見つけてあげて欲しいと、愛ちゃん先輩に頼まれたんだ」
 嬉しそうににこにこと笑いながら、翔がそう説明してくる。別に邪魔だからって先輩に生徒会室を追い出されたわけじゃないよと、聞いてもいないのに言い訳をする。しかし、それらの言葉はまったく晋平の耳には入っていなかった。
「翔、レジ頼む!!」
「へ?」
 カウンターから飛び出すと、晋平は春菜の手を掴んで店の外へと連れ出した。



 駅から少し離れた住宅街の中にある公園まで来ると、ようやく晋平は足を止めた。灰色の冬の空から真白の雪がちらちらと舞い降り、コートも羽織っていない晋平の紺色のエプロンに落ちて消えてゆく。
「あ、ごめん」
 彼女の細い手首を強く掴んでいたことに気づくと、晋平は慌てて手を離す。晋平と春菜の息切れの音だけが、静かな住宅街に響いていた。
 勢いだけで飛び出して来たものの、我に返ると言葉が出てこなかった。春菜が晋平のことを今も好きだという保証はない。それどころか、もう別の誰かと付き合っている可能性だってあるのだ。
 それでも、伝えなければ。自分の気持ちを、いい加減認めなければ。
 本当は、もう特別だった。ずっと特別だった。
 あの日の朝、満員の通学電車の中で春菜が手落とした本が、ちょうど自分があの時読んでいた本とまったく同じだと知ったあの瞬間から、彼女は晋平の特別だったのだ。
 失望のあとに神様がくれた思いもかけないチャンスに向かって、晋平はその手をまっすぐに伸ばした。


「もうずっと、君が好きだった」

 白い息と共に、やっとのことで言葉を吐き出す。寒さのせいか緊張のせいか、声が微かに震えた。 唐突な展開にずっと戸惑いの表情を見せていた春菜の目が、驚いたように大きく開かれる。
「え、でも……」
「僕は君のことを何も知らない。でも、僕が知っている僅かな部分に、君を好きになる理由がたくさん隠されていたことにようやく気づいたんだ」
 春菜は晋平の真意を探るように、じっとその大きな瞳で彼の目を見つめた。晋平もまた、まっすぐに見つめ返す。
「本が好きだという共通点があること。どうやら本の趣味も似ているらしいということ。僕が断ったあとも、露骨に避けずに暫く同じ電車に乗り続けた優しさが嬉しかったこと」
 思いつくまま、一気に羅列する。そして晋平は大きく息を吸い、そして吐いた。
「毎日通り過ぎるたくさんの人の中で、意識するのは君だけだったということ」

「それは……」
 どれ程の間、沈黙が続いただろうか。凍てついた空気を震わせるように、やがて春菜の口から小さく掠れた声が漏れる。
「それは僅か一時間足らず同じ電車に乗り合わせるだけの人を、好きになる理由になりますか?」
「これ以上の理由なんて、他にないよ」
 はらりはらりと舞い散る粉雪は、まるであの日の桜の花弁のようだった。


   ***


「いらっしゃいませ」
 微かな音をたてて自動ドアが開くと、冷気と共に男子高校生が入って来た。参考書のコーナーへ向かう後ろ姿を見送ると、晋平は再び雑誌を紐で縛る作業を続ける。
 あの日から降り続いた雪は、街中の景色を白く染めてしまっていた。
「残念、春菜先輩じゃなかったね」
 出勤してタイムカードを押すや否や、翔が晋平にすり寄って来てこそりと囁く。
「別にそんなんじゃないよ」
 晋平がポーカーフェイスでかわすと、シンちゃんは素直じゃないなあと翔が笑った。
「一緒にレジに入っていたら、たまにシンちゃん、誰かを待ってるのかなあと思う時があったんだよね」
 翔の言葉に、そんなつもりはなかったけれど存外自分はわかりやすい性格なのかも知れないなと苦笑した。

 あの日店に戻ると、当然ながら晋平は店長に叱られた。そして何が何だかわからないまま店に残された翔は、根ほり葉ほり詮索し、からかい、そして自分のことのように喜んだ。
 勤務中に仕事を放棄したことは本当に無責任だったし申し訳なかったと思うけど、それでも晋平は後悔していなかった。あの時動かなければ、きっともっと後悔していたと思うからだ。
 ただ、一部始終は翔によって尾ひれをつけて広められ、バイト先のみんなから生温かい目で見られることだけは耐えられなかったのだが……。

「シンちゃん、ピンク色の毎日は充実してるでしょ?」
 翔がからかうように笑う。あれ以来、すっかり晋平は翔に主導権を握られている。
「すっごい充実してて、すっごい幸せだよ」
 あまりからかわれてばかりも悔しいからすました顔で開き直ると、そのまま晋平は手元の雑誌を抱えて表へ出た。残された翔はぽかんと口を開け、そのあと堪え切れずに吹き出した。
 暖房で温められた店内から外へ出ると、ぴりりとした冷気が肌を刺す。晋平は抱えていた雑誌を店頭の棚へ手早く補充し、乱れた平積みの雑誌を整えた。
 本音を言うと、どんでん返しの展開にまだ実感が沸かなくて、ピンク色という程ではない。まずはしんしんと降り積もるこの雪のように真っ白な気持ちになって、そして来たる春には、あの日の桜のように薄紅色に染まれば良いと思っている。

 理屈なんかいらない。
 ただ自分の気持ちに素直になれば良い。

 ――だから、白からはじめましょう。


< 終 >



2012/02/10

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