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図鑑



だから白からはじめましょう 1


「いらっしゃいませ」
 自動ドアが開くと、客と一緒に外の冷たい空気が入り込む。ビジネス書のコーナーへ進むサラリーマンの後ろ姿を見ながら小さく溜息をつくと、今井晋平は再び手元に目を落とした。
「シンちゃん、終わった?」
 背後からバイト仲間に声をかけられる。
「これが最後の一冊」
「いやあ、シンちゃんは仕事が早くて助かるよ」
 横から覗き込んできた店長は感心したようにそう言うと、更に新しい雑誌をどさりと置いた。


   ***


 十一月に行われた推薦入試で第一志望の大学に合格し、晋平は一足先に受験勉強から解放された。暫くは自堕落な生活を楽しんでいたが、そんな毎日にも飽きて年が明けるとアルバイトをはじめた。いつもつるんでいる連中全員の受験が終わったら旅行に行こうと話しているので、その資金調達も兼ねている。
 通学に利用している染野線とJRが連絡している桜中央駅の向かいにある本屋でアルバイトを募集しているのを知ったのは、ほんの偶然だ。同じく進学先が決まった友人がアルバイト情報誌を持っていたので、一緒になって眺めていたらたまたま目についたのだ。本屋で働いていたら、新刊の情報を逃すことはないな。それが晋平の志望動機だった。

「すっげー、シンちゃんは啓陵なんだ」
 去年の夏前から働いているという道野翔は、初日から屈託なく晋平に声をかけてきた。
「うん、まあ。それより、シンちゃんって……」
「あ、ごめんね。でもパートでもうひとり今井さんって人がいるから、間違えなくて良いかなと思って」
 そう言って、人懐こくにこりと笑う。感情を表に出すのがあまり得意ではない晋平は、その愛嬌のある笑顔が少し羨ましいと感じた。大きな目に小柄な体躯は、まるで小動物のようだ。それでもまだ高一らしいから、これからぐんと背が伸びるかも知れないけれど。
「シンちゃんは卒業までの短期バイト? それとも大学入っても続けるの?」
「大学に入っても続けるつもり。通学に便利だからこの店を選んだし」
「やったー。んじゃ、これからよろしくね!」
 高校は染野線一本で通うことができたけれど、大学はJR線の沿線にあるので、乗り換え駅である桜中央にあるこの本屋は便利なのだ。長期で働きたいという旨は、面接の時に店長にも伝えている。
 晋平は子供のようにはしゃいで喜ぶ翔を見ながら、シンちゃん呼びは決定事項かと苦笑した。幼稚園の頃は家族からも友達からもそう呼ばれていたけれど、小学校に入ると名前を呼び捨てされるようになったので、それは十年以上ぶりだった。



「この前シンちゃんが教えてくれた映画、昨日先輩と観て来たんだ」
 タイムカードを押してレジに立つと、翔は満面の笑みを浮かべながら昨日の出来事を真っ先に報告してきた。どうやらバイトが休みの昨日は、デートだったようだ。
「へえ、面白かった?」
「すっごい面白かったよ。最後のどんでん返しが全然予想してなくて、先輩もすごく喜んでた」
 翔は同じ学校の先輩と付き合っているらしい。本当に彼女のことが好きらしく、初対面にも関わらずバイト初日にいきなり自慢され、それ以来一日一回は彼女情報を聞かされる。
「はいはい、良かったわね。シンちゃんも、毎日律儀にのろけ話に付き合ってあげなくてもいいのよ」
 後ろを振り返ると、奥で事務処理をしてた筈のパートの今井が立っていた。ちなみに、翔のせいで今ではバイト先の全員が晋平のことをシンちゃんと呼ぶ。
「今井さんひどいよ。僕はただ、シンちゃんが薦めてくれた映画を観に行ったことを報告しただけなのに」
「わかったわかった。じゃあ、これお願いね」
 適当にあしらいながら、今井が翔の手に数冊の本を押しつける。人使いが荒いなあとぶつぶつ言いながら、翔は漫画コーナーへと向かった。お喋りだけど仕事も早いので、あっと言う間に片付けてくるだろう。

「まったく飽きもせず、毎日あれだけよくのろけられるもんだわ」
 漫画コーナーで新刊を並べている翔を見やりながら、隣で今井が呆れたように苦笑を漏らした。
「よっぽど好きなんでしょうね」
「一目惚れなんだって。まったく相手にされていなかったらしいけど、懲りずにアタックを繰り返してね。女心を教えてくださいって、わたしたちパートのおばちゃんにも真剣に意見を求めてくるの。可愛いでしょ?」
「一目惚れ、ですか……」
「相手の子も毎日あんな犬っころみたいなのに纏わりつかれて、とうとう心が動いたんでしょうね。夏休みに入ってすぐだったかしら。ようやくOKもらった時はもうみんな大騒ぎで、店長なんか自分のことのように喜んでお祝いにご飯をおごってやるって言ってね」
 その時の状況を思い出したのか、今井は堪え切れないようにくつくつと笑い出した。きっと周囲みんなを巻き込んで、大喜びしたのだろう。想像するに余りあるなと、晋平もつられて笑った。

「ところで、シンちゃんは彼女いないの?」
 唐突に話の矛先が自分に向けられて、思わず晋平はたじろぐ。
「いや、いないです」
「あらまあ、もったいない。男前なのにねえ」
「そんなことないです。それに男子校だし」
「そっか。まあ大学に行ったらたくさん出会いがあるでしょう。若いのだから、シンちゃんも翔くんを見習って恋愛しなきゃもったいないわよ」
 からかうように諭してくる今井に、晋平は曖昧に笑って返した。ちょうどタイミング良く客がレジに来たので、話はそこで終わり晋平はそのまま接客する。
 もったいない、か……。目の前の客に釣銭を渡しながら、晋平は心の中で今井の言葉を反芻した。


「シンちゃんは確か、咲坂駅だったよね? 途中まで一緒に帰ろうよ」
 晋平がタイムカードを押していると、背後からそう声をかけられた。いつもは翔の方が一時間早く上がるシフトなのだが、今日は珍しく一緒だ。まだ残っている店長に挨拶して裏口から外へ出ると、向かいにある駅の改札へと向かった。翔の家は意外に近所で、最寄駅は晋平が降りる駅のひとつ手前になるらしい。

「げっ、どうしよう! 明日古典の小テストなの忘れてた」
 階段を上りきった瞬間にタイミング良くホームに滑り込んで来た電車は空いていて、ふたり並んで腰かける。すると、扉が閉まるその瞬間に、何かを思い出した翔が情けない声をあげた。
「うーん。でも、まあいっか」
 けれども晋平が声をかけるより早く、ひとりで勝手に解決する。どこまでもマイペースな翔は憎めなくて、晋平は彼の隣で思わず吹き出した。
「翔の毎日って、すごく充実して楽しそうだね」
 そして、ずっと感じていたことを口にしてみる。翔は少し驚いた表情を見せたあと、にやりと笑った。
「学校もバイトも楽しいし、彼女は可愛いし、無敵ってカンジかな」
 そう得意げに言い放つ。いつも素直で正直な翔のことを、晋平は無性に羨ましく感じた。

「シンちゃんは充実してないの?」
「うーん、まあまあしてるかな」
 気の合う友達がいて、新しくはじめたバイト先の人間関係にも恵まれ、何より第一志望の大学に合格したのだ。人生、順風満帆と言ったところだろう。
「まあまあ充実しているシンちゃんの生活が、すっごく充実したものになるのに足りないのは何か教えてあげようか?」
 何故か上から目線の翔の台詞に興味をそそられ、晋平はこくりと頷いた。
「ズバリそれは、彼女です!」
 そう言いながら、翔はびしりと晋平の顔を指さした。
「彼女、ですか……」
 その勢いに押され、晋平は思わずオウム返しに繰り返す。前に尋ねられた時に、誰とも付き合っていないと答えたのを覚えていたのだろう。
「そうだよ彼女作りなよ。楽しいよ、毎日がピンク色だよ」
「うん、翔が毎日ピンク色で楽しそうなのは傍で見てたらよくわかるから」
「シンちゃん、好きな子もいないの?」
「……いないよ」

 ふと脳裏にあの子が浮かぶ。桜が舞い散る中で、自分のことを好きだと言ってくれたあの子。
 けれども晋平には、言葉を交わしたこともない人を好きになるというのが信じられなくて。だから自分のことを好きだと言う気持ちも、きっと彼女の錯覚なんだと思えて。
 電車で朝一緒になるだけの相手の気持ちを受け入れることは、晋平にはできなかった。

「今、誰のこと考えていたの?」
 翔の声に、はたと我に返る。
「へ? 別に誰のことも考えてないよ」
「今、シンちゃんの頭に浮かんだ人が、シンちゃんの好きな人だよ」
 得意満面の翔に、何で断言できるんだよと晋平は呆れたように笑った。
「そんなんじゃないよ」
「そうだよ」
 次の停車駅を告げる車掌のアナウンスが、人影まばらな夜の車内に響く。次は翔の降車駅だ。
「僕たちは毎日、たくさんの人と出会って言葉を交わす。だからその中で意識に残る人は、ふとした時に浮かんでくる人は、それだけでもう特別扱いなんだよ」

 ゆっくりと扉が閉まると、列車は静かに発車する。窓の外では白い息を吐きながら、翔が力いっぱい手を振っていた。晋平も小さく手を振り返す。やがて電車は緩やかに加速し、すぐに翔の姿は夜の闇に紛れて見えなくなった。
 規則的なリズムに揺られながら、晋平は先程の翔の言葉を反芻する。
(でも、もう手遅れだよ……)
 大きな溜息をひとつつくと、晋平はゆっくり目を閉じた。



2012/02/02

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