恋色図鑑
茜色の誓い 2
放課後の進路指導室で、その日も亘はいつものように翌日の授業の準備をしていた。けれど今日はどこか集中力が散漫で、扉の外の足音や話し声に意識が飛んでしまう。亘は小さく溜息をつくと、窓の外を眺めた。先程まで青だった空の色は、少しずつその色を変化させている。
その時、微かな足音が聞こえてきた。その音はだんだんとこちらへと近づいて来る。亘が扉を見やったのと、その扉が勢いよく開いたのは殆ど同時だった。
そこには頬を上気させた夕子が、満面の笑みを浮かべて立っていた。
亘が夕子の合格を知ったのは、六限目の授業を終えたあとだった。亘が小論文対策を指導していることを知っていた夕子の担任が、わざわざ報告してくれたのだ。
「先生、わたし合格したよ」
そう言うと、夕子は手にしていたA4の用紙を差し出した。
「うん、さっき間宮先生から聞いた。おめでとう」
亘はゆっくりと立ち上がると、夕子の手からその紙を受け取る。大学のホームページに掲載されている合格者の受験番号一覧をプリントアウトしたのだろう。右上に記された2407という数字が、ピンク色のマーカーで塗られていた。
「よく頑張ったな」
それは心からの言葉だった。夕子の頑張りをずっと見てきて、彼女の努力が報われることを強く願っていた。合格の知らせを受けて、早く彼女におめでとうという言葉をかけてやりたいと思っていたのだ。
「先生に一番に報告したくて、休み時間のたびに職員室に行ったのに、先生ったら全然いないんだもん」
少し詰るように、夕子が言った。
「今日は午前中が研修で、午後からの出勤だったんだ」
「わたし、先生に一番に報告して、そしてありがとうって言いたかった」
噛みしめるようにそう言うと、夕子は亘を真っ直ぐに見つめてきた。その瞳はあまりにも力強く、亘は思わず視線を逸らした。
「俺は教師としての仕事をしただけだよ。頑張っている生徒に力を貸すのは、教師として当然のことだ」
亘は敢えて、教師と生徒という単語を強調させた。夕子は何も言わなかったが、目を逸らしたあとも彼女の視線を強く感じていた。
「……先生」
数秒の沈黙のあと、夕子が静かに口を開いた。その呼びかけに、亘が夕子へゆっくりと視線を戻す。窓から差し込む西日に夕子の右側の頬は赤く染まり、黒い瞳はしっかりと亘の眼を捕えていた。
駄目だ、と亘の脳内でシグナルが点滅する。そろそろ帰りなさいと声をかけようとしたけれど、それより一秒早く夕子が言葉を発した。
「わたし、先生が好きです」
どれくらい見つめ合っていたのだろうか。チャイムの音に、ふと我に返る。
赤い背表紙の問題集が本棚に並ぶ進路指導室は、燃えるような夕日に赤く染まっていた。
目眩がしそうだと、亘は思った。
「斉藤の気持ちには、応えられない」
長い沈黙を挟んで、ようやく亘は言葉を絞り出す。夕子が息を止めたのが伝わってきた。
「好きな人、いるんですか?」
「……」
「噂で先生に彼女はいないって聞きました。もしも今、好きな人がいないなら、わたしを好きになってくれませんか?」
縋るように見上げてくる夕子の姿に、亘は言い知れない後悔の念を抱いていた。
「好きな人は、いない。だけど斉藤にそういう気持ちを抱くことはない」
「どうしてですか?」
「君は生徒だ。生徒に対して恋愛感情は湧かない」
「あと数ヶ月で生徒じゃなくなります」
「卒業しても、君たちはみんな永遠に生徒だよ。俺の大切な教え子だ」
「そんな理由じゃ納得できない!」
不意に夕子が、未だ四桁の数字が羅列している紙を握ったままの亘の手首を掴んだ。驚く程強い力が、その細い指に込められる。
「大学に入ったら頑張って勉強する。綺麗になれるように努力する。早く大人になれるように頑張るから。だから、永遠に生徒という立場から抜け出せないなんて、そんな理不尽なこと言わないで」
涙まじりの声が、亘の心臓に突き刺さる。
「卒業までは確かに生徒だから、絶対に先生の迷惑にならないようにします。だけど、卒業したらわたしにもチャンスをください」
確かに夕子は、亘の立場を脅かすような暴走は絶対にしないだろう。けれど、どうしてこれ程までに一途な想いを自分にぶつけてくるのだろうか。あまりにもその想いが痛くて、亘はその若さが不意に恐ろしくなる。
やがて小さく息を吐くと、亘は自分の手首を掴む夕子の細い指をそっと離した。
「君は、勘違いしているんだよ」
夕子の肩が、びくりと震えた。
「第一志望の大学に合格して、その感謝の気持ちを恋愛と履き違えているだけだ」
信じられないというように、夕子の瞳が大きく見開かれる。刹那、大粒の涙が一粒溢れ落ちた。
「そろそろ帰りなさい。どうせ今日は、家の人が君の合格を祝ってくれるんだろう?」
ぽろりと零れた滴には気づかないふりをして、亘はずっと手にしていた用紙を差し出した。
結局、夕子は一言も発することなく、唇を噛んだまま進路指導室を出て行った。感情的に責めるわけでもなく、泣き叫ぶわけでもなく。ただじっと、濡れた瞳で亘の目を見つめると、黙って静かに出て行った。
窓の外を見ると、秋の終わりの空は赤と紫の絵の具を混ぜ合わせたように滲んでいる。
亘は力なく椅子に腰かけると、頭を抱えて小さく舌打ちをした。スーツの袖口は、少しだけ皺になっていた。
「紺野先生、ちょっとお願いがあるんですけど」
亘が学年主任の田中から声をかけられたのは、十二月に入ってすぐの頃だった。
「何でしょう?」
期末テストを作成する手を止め、亘は隣の空いている椅子を田中にすすめた。
「実は、進路指導室の管理を紺野先生にお願いしたいと思いましてね」
「進路指導室の管理、ですか?」
一瞬意味がわからず、亘は田中が発した言葉をオウム返しに繰り返す。
「ええ。これまでは終日解放していたんですが、実は最近、問題集やガイド本を持ち出したまま返却しない生徒が増えて困っているんですよ。これまでは貸出用紙に記入して返却してもらうよう生徒に任せてたんですが、このままだと一部の生徒のせいで他の生徒が困ることになりそうで」
田中が眉間に皺を寄せながら、簡潔に状況を説明した。
「そこで、放課後は紺野先生に管理して頂こうかと。これまでも受験生の指導の為に頻繁にいらっしゃったようですし、今後もお願いしたいなと思いましてね。いや、特別に何かしてもらうことはないですよ。教師がいれば無断貸出はなくなるでしょうし、進路相談などもしやすくなる。もちろん毎日じゃなくて、可能な日だけで結構なんですがいかがでしょう?」
クラスの受け持ちがなく、クラブの顧問もしていない亘に断る理由はなかった。
「わかりました。お引き受けします」
助かりますと言って豪快に笑うと、田中は満足そうに自分の席に戻って行った。
「良かったな。これで正真正銘、進路指導室がおまえの部屋になるじゃないか」
そう言って、背後から肩を叩かれる。振り返ってじろりと睨むと、村木が愉快そうに笑った。
「斉藤さんの受験も終わって最近はずっとこっちだったけど、これからは正々堂々と入り浸れるな」
「え?」
不意に登場した夕子の名前に、亘は微かに動揺する。
「だから、斉藤さんが合格して彼女を指導するという名目がなくなったから、最近は進路指導室に行かなかったんだろう?」
反応の鈍い亘に対し、まどろこしそうに村木が言う。確かに夕子が合格したあの日から、亘は一度も進路指導室に足を踏み入れてなかった。
「……まあな」
「そんなに頻繁に生徒が来るわけじゃないし、ここよりも仕事がはかどるんじゃないか?」
少し羨むような口調の村木に対して曖昧に笑うと、亘は再びノートパソコンのモニターに視線を戻した。
ゆっくりと鍵を回すと手先に開錠された感覚が伝わり、亘はそのまま鍵を抜いて扉を開けた。少し緊張して、進路指導室の中へ足を踏み入れる。亘は自分でも滑稽なくらいここへ来ることを躊躇していたのだが、当然のことながら、あの日から何も変わってはいなかった。
持って来た文庫本を机の上に置き、亘はくるりと室内を見回す。何も変化がないと思っていた中で、ひとつだけ二週間前との違いを発見した。あの日はまだ窓の外の木に赤い葉が残っていたのだが、その殆どが落ちてしまい、今はほんの僅かの葉だけがその枝にしがみついている。
亘は窓際に寄り、窓を開けた。冷たい空気が室内に入り込み、思わず身を竦める。
階下に目をやると、校舎から吐き出されるように生徒たちが校門に向かっていた。部活動に向かう生徒たちは、せわしなく走っている。眼下に広がる世界がひどく自分と遠いもののように思え、そして眩しく感じた。
亘は小さく首を振ると、そっと窓を閉めた。
(どこで距離を見誤ったんだろうな、俺は……)
力なく椅子に腰かけると、手元にある本のページを捲るでもなく、亘はぼんやりと思った。
――本気の奴は、接していればわかる。
いつかの村木の言葉が、脳内でリピートされる。亘は確かに、いつの頃からか夕子の気持ちに気づいていた。ふと見せる表情に、予感めいたものを感じていた。
錯覚であれば良い、自分の自惚れであれば良いという願いは、あの日、唐突に裏切られた。幾重にも予防線を引いて夕子との距離を保ってきた筈なのに、自分は予防線を張ったつもりで、実は張っていなかったんじゃないだろうかと思い悩む。いや、張るふりをして、ずっと誤魔化していたのではないだろうか、と。
その時、突然ガラリと音をたてて扉が開いた。
足音が聞こえなかった為にそれは不意打ちで、びくりと肩を跳ねさせた亘は、そのまま条件反射で扉の方を見やった。そして、そのままたっぷりと固まってしまう。そこに立っていたのは、夕子だった。
ここへ来ることを躊躇っていたものの、受験が終わってしまった夕子は進路指導室にもう用はない。だから彼女とふたりきりになることはないと、そう自分に言い聞かせていたのに、夕子はいつもと同じようにこの場所へやって来たのだ。
夕子にしても、亘がここにいることが意外だったのだろう。亘と同様に固まっている。何と声をかけて良いのかわからず言葉を探しあぐねていると、夕子がつかつかと亘の前まで真っ直ぐに歩いて来て、一枚の原稿用紙を差し出した。
「先生、お願いします」
それはこれまでずっと繰り返されてきた、夕子と亘の日常だった。夕子の真意をはかりかねて亘は戸惑いの表情で彼女を見上げたものの、勢いに押されてそのまま原稿用紙を受け取った。
いつ、これを書き上げたのだろう。亘に読んでもらう為に、毎日用もないのにこの進路指導室へ足を運んでいたのだろうか。
「高校生活とは、茜色である」
おもむろに夕子が口を開いた。激情も懇願も何もない、淡々とした声。原稿用紙に目を落とすと、それは文章の書き出しの一文だった。
「思い返せば、わたしの高校生活は茜色に染まっている」
目と目が合った。とくりと、亘の心臓が鳴る。茜色に染まる放課後の進路指導室で、亘は夕子が書いた文章に目を走らせた。
それは、正真正銘のラブレターだった。夕子の精一杯の想いが、四百字で綴られていた。
心が、揺れないわけはない。
「先生の授業を受けられるのは、あと十七回だね」
亘がすべて読み終えると、まるで見計らったかのようなタイミングでぽつりと夕子が呟いた。来週から期末テストがはじまり、それが終わると冬休みだ。三学期は自主登校だが、夕子は出席するつもりなのだろう。
亘は唐突に、この日常が永遠ではないことを自覚した。もちろん終わりが来ることはわかっていたが、具体的な数字を示されると、急にそれがリアルに迫ってくる。
「そしてわたしは卒業して、春には新入生が入学して。先生は何度も何度もここで、新しい生徒を迎えて送り出して、そしていつかわたしのことを忘れていくんだよね」
淡々と、夕子が呟く。いつの間にか彼女は窓を背に立っており、赤い夕日が逆光になって、亘にはその表情が読めなかった。
「忘れないよ」
亘はきっぱりと否定した。
「忘れちゃうよ。こんなにいっぱいの生徒がいるんだもん」
「忘れない」
何故かむきになって、亘は夕子の言葉を否定した。
やがて小さく笑うと、夕子はゆっくりと亘の方へ近づいて来た。まるでスローモーションのようだと、亘は思った。不意に赤い色が目の前に迫ってきたと思うと、唇と唇が触れる。
それは掠めるように一瞬だったけれど、その感触は鮮明だった。
「これでわたしのこと、一生忘れないでしょう?」
夕子の言葉に、亘は我に返った。目の前に迫って来た赤色が、セーラー服のスカーフの色だったことに今更ながら気づく。心の中で何かが弾けたと思った瞬間には、もう、亘は夕子を強く抱きしめていた。
「忘れないって、言ってるだろ……」
彼女の高校生活が茜色に染まっていると言うのなら、亘のすべても既に茜色に染まっているのだ。
「先生、これは慰め?」
腕の中で、夕子が小さく尋ねてきた。
「慰めでこんなことしない」
「じゃあ、同情?」
声が小さく震えているのに気がついて、亘は腕により力を込めた。
「斉藤といると、いつも教師と生徒の距離がわからなくなるんだよ」
あんなにも必死に予防線を張ろうとしていたのは、夕子が自分に想いを寄せていたからではない。教師である自分が、生徒である夕子に惹かれていたからなのだ。自分の無意識の行動の意味を、今、ようやく亘は自覚した。
「嘘だ」
「本当」
「夢だ」
「現実」
不意に、腕の中で嗚咽が漏れる。
「卒業したら、もう、線、引かない?」
震える声で、夕子は途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「線?」
亘が尋ね返す。
「いつも線、引いてたでしょ。少し近づけたと思っても、すぐに口調が変わったりして、前よりももっとずっと遠くに感じてた」
どうやら、聡い夕子には気づかれていたようだ。
「引かないよ。引いても無駄だし」
「どういう意味?」
「抗うよりも、覚悟を決めて認めた方が楽ってこと」
「意味、わからないよ」
「俺の気持ちの話」
亘はそう言うと、涙の粒が残る目の端を、そっと親指で拭った。
「高校生活を表す言葉が“後悔”だなんて、絶対に嫌だったの」
やがて落ち着きを取り戻した夕子は、ぽつりとそう呟いた。既にふたりの距離は、いつ誰が入室して来ても怪しまれない、教師と生徒の距離に戻っている。
「高山、か……」
亘は自分のかつての教え子で、一学期に教育実習に来ていた高山洋司の顔を思い浮かべる。ひたすらに真っ直ぐだった頃の自分の言葉が、こういう形で返ってきたことに、亘は感慨深いものを感じた。
「玉砕しても、迷惑だと思われても、悔いだけは残したくなかった。茜色の思い出が、後悔に染まるのだけは耐えられなかったの」
身勝手でごめんなさいと、夕子は小さく謝った。
「常識的に言うと、俺は教師失格なんだと思う」
亘の言葉に、夕子はひゅっと息をのんだ。そのまま否定も肯定もせず、亘の次の言葉を待っていた。
「でも気づかないふりをして、誤魔化して抗って、果たしてそれが正解なのかと思った」
真っ直ぐに見つめてくる夕子の目を、真っ直ぐに見つめ返す。
「君は俺の生徒だ。それは変わらない。だから卒業までは、ちゃんと教師と生徒の距離を保ちたいと思う」
夕子が小さく頷いた。
「だけど卒業後は、ゆっくりと距離を縮めていこう」
窓の外はすっかり夕闇に覆われていた。西の空に少しだけ、赤い夕日の欠片が残っている。
教師としてこの選択が正しかったのか、衝動的に決断を下した亘は自分の胸に問いかける。罪悪感がまったくないとは言い切れない。
けれど、自分の気持ちに蓋をして彼女を卒業させたら、きっとそのあとに後悔していただろうから。茜色に染まる空を、一生綺麗だと思って見ることはできなかっただろうから。
だから、勇気を出して受け入れた自分の気持ちを大切にしようと、暮れなずむ秋の終わりの空に、亘は密やかに誓った。
2011/12/05