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図鑑



茜色の誓い 1


「先生、お願いします」
 唇をきゅっと引き結んだ、真剣な表情。目の前に差し出された、丁寧な文字で埋め尽くされている原稿用紙。赤く滲んだ夕日が差し込む、放課後の進路指導室……。
 昨日も一昨日も一週間前も繰り返された日常が、今日もまた、当たり前のように繰り広げられる。



 国語教師である紺野亘が、教え子である斉藤夕子から小論文の添削を依頼されたのは、彼女が三年生に進級してすぐのことだった。夕子が第一志望としている女子大の推薦入試には小論文が課される為、その対策としてである。
 今のところ模試の結果でA判定とB判定を繰り返しており、苦手な英語も受けなければならない一般入試よりも、評定と小論文で決まる推薦入試で合格したいのが彼女の本音らしい。もともと文章を書くのが好きらしく、国語の成績だけで言うと学年でトップクラスだ。本人もそれを自覚しており、小論文対策に焦点を当てることにしたようだ。最初は週に一回、亘の出すテーマで小論文を書いて提出していたが、本番が目前に迫ってきた最近はほぼ毎日仕上げてくる。

「やっぱり時事問題は難しいです」
 亘がざっと目を通している間、本棚に並ぶ大学ガイドをパラパラと捲りながら、夕子は溜息をついた。
「新聞読めよ。国語だけじゃなく、社会や英語の試験でも出される可能性があるだろ。試験問題ではじめて知るのと、予め知識があるのとでは全然違う。そもそも、新聞で社会の動きを知ることは常識だ」
「……はあい」
 亘のアドバイスに夕子は小さく口を尖らせると、少し拗ねたように返事をした。

 放課後の校内には、色んな音が溢れている。
 居残っている生徒たちの笑い声や運動部のかけ声、そして吹奏楽部のパート練習の音。
 この部屋にもそれらは届いているのだが、扉一枚隔てているせいか、亘はいつもどこか違う世界にいるような錯覚に陥りそうになる。

「どんな感じ、ですか?」
 亘の目の前の椅子に腰かけると、夕子は亘が赤ペンで添削したばかりの原稿用紙を覗き込んだ。
「まずこの一文はいらないな。前文と同じことを繰り返しているだけだ。それからここは一旦区切った方がわかりやすいだろう。あと、この部分は入れ替えた方が文章として効果的だと思う」
 次々と赤に染まる原稿用紙を見て、夕子は落胆したように溜息を漏らした。
「先生が直してくれるだけで全然変わるね。はあー、わたし本当に大丈夫かな」
 黒目がちの瞳が不安げに揺れる。そんな夕子の表情をちらり見やると、亘は赤ペンで最後の一文の横に力強く波線を引いた。
「この締めの一文は良いよ。それからテーマが首尾一貫してる。本番でもいつもどおり、冷静に書ければ問題ないさ」
「本当に?」
 亘の表情を窺うように、夕子がそっと顔を上げる。真っ直ぐに見つめてくる瞳は真剣そのものだ。
「ああ。斉藤はどんなテーマにも対応できるように努力してきたんだから、絶対に大丈夫だ」
「先生、ありがとう」
 夕子は安心したようにほっと息を吐くと、満面の笑みを浮かべた。

「当日はいつも通り落ち着いて、自信を持って臨みなさい」
 嬉しそうに笑う夕子から何気なく目を逸らしながら、亘は意識的に言葉遣いを変えた。そして添削した原稿用紙を夕子に返すと、そろそろ下校するようにと促した。


 教師になって四年が過ぎた今も、亘は生徒との距離感に悩む。
「あ、亘ちゃんだ。バイバーイ!」
 進路指導室の鍵を閉めていると、背後から担当している二年生の女子が声をかけてきた。
「こら、紺野先生と呼びなさい」
「いいじゃん、別に。亘ちゃんてば、堅いことばかり言ってるとモテないよ」
 女子生徒はまったく気にする様子もなく、けらけらと笑っている。そして渋い表情を見せる亘に向ってバイバイと手を振ると、さっさと階段を下りて行った。
「まったく、俺はおまえの友達か」
 人懐こいその生徒の後ろ姿を見送りながら、亘は苦笑を漏らす。
(俺は、教師なんだよ……)
 そう小さくひとりごちると、彼はゆっくり職員室へと歩き出した。


 夕子の推薦入試の日も、亘は進路指導室にいた。
 放課後はたいがい職員室でテストの採点や授業の準備をしていたのだが、夕子の小論文の添削をするようになってからは進路指導室にいることが多くなった。 職員室では他の教師たちの邪魔になるし、第一夕子が落ち着かないだろうというのがそもそもの理由だ。教室でも良かったのだが、大学の資料や問題集が揃っている進路指導室が都合が良くて、いつの間にかそこが亘の放課後の指定席となっていた。
 亘が持ち込んだノートパソコンで小テストの問題を作成していると、足音が近づいて来てガラリと扉が開いた。生徒かと思って顔を上げると、同僚の村木だった。
「おう、どうした?」
「いやあ、さっき生徒から質問を受けた問題がやたらひねていてさ。そいつが受ける大学は毎年ちょっと意地の悪い問題を出すみたいなんで、お勉強しておこうと思ってね」
 そう言うと、村木は本棚にずらりと並ぶ赤い背表紙の中から一冊を抜き出してパラパラとページを捲る。
「何だかここ、おまえの部屋みたいだな」
 数学の問題に目を走らせながら、不意に村木が呟いた。
「え?」
「最近はずっとここにいるだろう? おまえを探しに誰かが職員室に来たら、近頃は進路指導室に行けと言うようにしてるんだ」
 そう言えば、亘を探しに進路指導室までやって来た生徒が確かに何人かいる。深くは考えなかったが、そういうことかと亘は納得した。
「今、俺が担当しているのは三年生中心だし、ここが何かと便利なんだよ」
「なるほどね」
 そう亘が説明すると、村木は納得したように頷いた。

 それからは特に会話もなく、それぞれが黙々と仕事をこなしていた。どれくらい時間が過ぎたのだろうか、唐突に賑やかな女子の声が近づいて来ると、勢いよく扉が開いた。
「村セン見っけー!」
 顔を上げると、二年生の女子がふたり入って来た。今年は担当していないが、去年授業を受け持った生徒なので見覚えがある。
「こら、村木先生だろう」
 亘が注意すると、女子生徒はちらりと亘を見やり、不服そうに頬を膨らませた。
「ねえ、村センは甘いもの好きだったよね?」
「うちら今日、調理実習でカップケーキ作ったんだ。これ、村センに差し入れ」
 女子生徒たちは亘の存在を無視するように甘い声を出して村木に纏わりつくと、可愛らしくチェックのリボンでラッピングされたカップケーキをそれぞれ差し出した。
「おう、サンキューな。ちょうど甘いものが食べたいなと思っていたんだ」
「マジで!? うちら超タイミング良いんじゃん?」
 村木の言葉に、ひとりが嬉しそうにはしゃぐ。それから、他愛のない会話をきゃっきゃと繰り広げた。やがて村木が、まだ仕事が残っているからそろそろ帰るようにとやんわり促す。すると女子生徒たちは、亘が拍子抜けするくらいにあっさりと頷いた。ちゃんと今日の授業の復習をしろよと村木が言うと、少し嫌そうな顔をしながらも、また差し入れするからねと口ぐちに言いながら進路指導室を出て行く。
 結局、彼女たちが亘に視線を合わせることは一度もなかった。

「紺野先生は堅いねえ」
 再び静寂を取り戻した進路指導室で、村木が含み笑いを漏らした。
「教師と生徒なんだから、当然だろう」
「こういうのが嬉しい年頃なんだから、合わせてやればいいだろう。それで真面目に授業を受けてくれりゃあ、こっちもやりやすい」
 そう言いながら、村木は受け取ったばかりのカップケーキのリボンをほどく。ふたつのうちのひとつを亘に差し出して食うかと尋ねてきたけれど、亘は片手を振って断った。亘の胃袋に入ったと知れば、さっきの生徒は発狂するかも知れない。

「教師になったばかりの頃は俺とおまえのツートップだったのに、今や俺のワントップだ。堅苦しいことばかり言ってると、今の生徒には人気が出ないぞ」
 冗談めかしてそう言うと、村木はふたつめのカップケーキに手を伸ばした。教科は違えど同期なのでたまに飲みに行ったりもするが、亘と村木の性格は正反対だ。
「そんなものはいらん。生徒が俺の授業をわかりやすいと思ってくれたら、それでいい」
「真面目だねえ。前はそうでもなかったのに、いつからそんな頑なになったんだよ」
 村木は大袈裟に肩を竦めると、苦笑いを浮かべた。

「そもそも、おまえは不用意すぎる。彼女たちの気持ちに応えられないのに、気持ちだけ煽って、もしも本気になったらどうするつもりなんだ?」
「別に煽ってなんかいないさ。それに、あいつらも馬鹿じゃない。キャーキャー騒いでいるのが楽しいだけなんだから、適当に合わせておけば満足する。可愛いもんじゃないか」
「しかし……」
 亘の小さな反論の言葉は、村木にあっさりと遮られる。
「あいつら結構シビアだからな、ちゃっかり彼氏とかいるんだよ。俺たちは本気で向かって来る奴だけを注意してればいい。本気の奴は、接していればわかる」
 そうだろうと、村木が亘に同意を求めた。
「そいつに対してだけ教師と生徒の距離感を見誤らなければ、どれだけくだけていても、他は自然と距離を保てる筈だ」
 結局、亘は村木の言葉に、同意することも反論することもできなかった。進路指導室のふたりの間を、ただ沈黙だけが占領していた。



2011/11/28

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