恋色図鑑
彩り 色どる
「背の高さが近いということは、それだけ視線も近くなるといということだから別に良いじゃん」
傍らに立つ中学からの友人が、気にしていない素振りを見せながらも自らの身長をコンプレックスに思っていることは、三年間見つめていればわかること。
だから、校内の男子を品定めする先輩方の品のない会話がわたしの友人の身長に及んだ時、わたしは視聴覚室へ向かうルートを変更しようと奴の袖を引いた。
けれどもその瞬間、ひとりの先輩の言葉が空気を変える。
ねえ、わたしが同じことを言っても、そんな表情になるの?
わたしだって、わたしの方が、あんたの身長なんか気にしていないんだよ。
廊下の向こう側を見つめる横顔を、わたしは知らない。
傍らでわたしは途方に暮れて、ただ睨むようにその横顔を凝視し続けていた。
紅色に染まる
「なあ遠藤。我らが副会長殿は、魔性なのか天然なのかどっちだ?」
俺の問いかけにクラスメイトの女子生徒がきょとりと目を瞬かせると、やがて俺の視線を追って窓の外を見やった。眼下では、体育の授業を終えた俺の幼馴染が水を飲んでいる。
その様子を目にすると、件の女子生徒は状況を把握したようで、くすりと笑いを漏らした。ちらりちらりと西館の出入口を眺めながら水を飲む奴は、三階から見れば完全なる挙動不審者だ。
やがて、西館からぞろぞろと見知った顔が出て来る。西館には科学室や生物室などの特別教室があるので、理系クラスの面々が出て来たということは、そのどちらかの授業があったのだろう。
水飲み場で待機していた不審者、もとい俺の弟分は、まるでご主人様を見つけた子犬のように駆け出した。あの様子だと、副会長殿のクラスの時間割をチェック済みなのだろう。健気すぎて涙が出そうだ。
「そこが愛の可愛いところなんだよ、会長」
くつくつと笑いながら、副会長殿の親友は俺の質問とはいささかずれた答えを返す。
「確かに豆柴の奴はそう思ってるのだろうが、少し不憫でもあるな」
「……それは否定しません」
頭が切れて仕事も早い我が生徒会の副会長殿は、けれども色恋沙汰にはからっきしのようで、あれだけ纏わりつかれてもまったくその気持ちには気づいていないらしい。ワンコアピールが強過ぎて男と見られていない豆柴にも問題はあるのだが、学年が違うのにあれだけ接触が多ければ普通は気づくものだろう。
「でも、ふたりとも楽しそうだから良いんじゃないかな」
「まあ、そうだな」
俺は彼女の意見にまったく異論はなかったので、そこは素直に同意した。
緑薫る窓辺の風
「何だこの企画書は!? 誰がこんなくそ長いもの読むんだ? いいか企画書というのはな、おまえの薄っぺらな知識をひけらかす為のものじゃないんだ。わかったら、明日までに作り直して来い!」
口の悪さでは右に出る者がいないと恐れられている鬼課長の怒声が響き渡る。
水を打ったように静まり返った中、言葉を発する者は誰もいなかった。
先程まで部内ミーティングが行われていた第二会議室には、今は自分と新入社員のふたりだけだ。
こういった会議の準備や後片付けはまだ下っ端の自分の役割で、プロジェクターを所定の位置にしまうと先程から座ったままぴくりとも動かない後輩の横顔を見つめた。
そこには、屈辱と怒りの色が滲んでいる。
ああ、あれは二年前の自分だと、何とも言えない苦い気持ちが湧きあがる。
高校も大学も首席で通し、いつしか自分の考えがすべて正しいのだと錯覚するようになっていた。
自分なら何でもできると根拠もなく信じ込み、そしてその高すぎる鼻は社会人になってすぐ、見事にぽっきりと折られたのだ。
――無敵じゃないけど、無限なんだ。
そんな恥ずかしい台詞をふと思い出したのは、やることなすこと上手くいかず、プライドを打ち砕かれた入社一年目の梅雨のことだった。
辞めようかと思いながら眺めていた窓の外には、灰色の雲が低く垂れこめていた。
なぜだかわからないけれど、その景色を見ていると、高校三年の時に二週間だけ国語の授業を担当した教育実習生を思い出した。
顔も名前も覚えていないけれど、彼の最後の授業は自分でも驚く程鮮明に覚えていた。
「四時から営業一課がここを使うらしいから、それまでには出ろよ」
二年前の自分と同じ背中に声をかけ、会議室をあとにする。
社会人とは何かを今あの教生に尋ねられたら、高校生活を単なる通過点だと言った自分は、一体何と答えるだろうか?
廊下の突き当たりはガラス張りになっており、灰色の雲の切れ間から薄く陽が差し込んでいた。
その答えは出ないけれど、ただ絶対にこの会社でのし上がって見せると心に決め、背筋を伸ばして窓の外に広がる空を眺めた。
灰色の追憶
あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る
(美しい茜色に照り映える紫野を行きつ戻りつしながら袖を振るあなた。そんなにあからさまに振ると標野の番人に見つかってしまいますよ)
久しぶりに訪れた生徒会室には、予想外に誰もいなかった。
皆どこへ行ったのかと見回していると、机の上に置かれた誰かの古典の教科書が目に留まる。
思わず手を伸ばし、ぱらぱらとページを捲る。いくつか並んだ万葉集の歌のひとつを、そっと指でなぞった。
「茜色と言えば夕暮れを想像するけど、当時は朝を指していたと言われている。俺はどちらかと言うと、朝焼けより夕焼けの方が好きだけど」
人に言えば笑われるかも知れない。けれどこの言葉に、自分を好きだと言ってもらえた気がした。
恋に落ちた瞬間だった。
いつも生徒会室の窓際の席を陣取り、職員室へ通じる渡り廊下を眺めていた。
茜色に染まる廊下を足早に歩く姿を見かけては、密やかに袖を振っていたのをあの人は知らないだろう。
万葉の時代に人々が求愛の意を込めたように、その後ろ姿に向かってそっと手を振り続けたことを。
受験が終わり、久々に後輩の元を訪れてみたけれど彼らが帰って来る気配はない。
古典の教科書を元に戻すと、わたしは窓際の席に座った。
そして鞄から、一枚の原稿用紙とペンケースを取り出す。窓の外は、茜色に染まっていた。
あかねさす
「ごめん」
優しい人に謝らせてしまった弱いわたし。
空からは白い綿のような塊が落ちてくる。
「ごめんなさい」
そう言って、唇を噛んだ。わたしに泣く資格なんてない。
好きな人に好きだと告げる前に、好きじゃないと言われてしまった夏。
そして、好きじゃない人に好きだと言われ、好きでなくても良いからという優しさに甘えてしまった。
いつか好きになれると思っていたのは本当。
好きになりたいと願っていたのも本当。
けれども、不意に顔を寄せられたその瞬間、わたしは無意識のうちにその肩を押し返してしまっていた。
空から落ちてくる白い塊はわたしの肩に降り落ちても、いつものように溶けて消えてしまいはしない。
次から次から降り積もり、髪も、肩も、白く染まる。
もっと降れば良いのに。もっともっと、すべてを白く覆い尽くしてしまえば良いのに。
そうしてわたしの未練たらしい気持ちも、白く塗りつぶしてしまえば良いのにと、既に真白に染まった公園でわたしはひとり呟いた。
白に染まれ
こっそりと見つめていた人と、一緒にいられる奇跡。
未だに実感が湧かなくて、ふわりと足元が宙に浮いたような感覚に陥る。
「どうしたの?」
隣を歩くその人が、挙動不審なわたしの様子に気づいて声をかける。
「何でもない、です」
幸せすぎて、眩暈がしそうだ。
「ただ、春の空だなあと思って」
「うん、春の空だね」
勿忘草の可憐な花と同じ色をした空は、淡く霞んでいて。
他の誰と一緒に見るよりも、彼と一緒に眺める空が綺麗だという事実に、やはり彼はわたしの特別なんだと心がとくりと鳴った。
勿忘草色の空の下で
2012/02〜2012/03 拍手再掲