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図鑑



青い風に吹かれて 1


 彼は、青が似合う。
 真夏の空一面に広がる、鮮やかな青がよく似合う。



 夏休みの午後の校内は、静かだ。朝早くから鳴き続けていた蝉もくたびれてしまったのか、一日のうちで一番暑い時間を迎え、先程からぴたりと鳴き止んでしまった。いつもはグラウンドに響き渡っている運動部の掛け声も、試合や合宿などで皆校外に出かけているのか、今日は殆ど聞こえない。
「暑いなあ……」
 机の上に突っ伏した内村愛は、窓の向こうに覗く夏の空をちらりと見上げた。全開の窓からはそよとも風は吹き込まず、生成りのカーテンは1ミリも動くことはない。室内に停滞した生温かい空気に汗がじっとりと滲むが、愛は首筋に髪の毛が貼りつくことも気にせずうつ伏せたままひとりごちた。

「愛ちゃん先輩、はっけーん!」
 ガラリと扉が開く音とそれ以上に大きな声に、真夏の静寂は一気に破られた。
「うるさいなあ」
 その声で、いや近づいて来る足音だけで誰だかわかってしまった愛は、体を起こすことすら億劫で、机に突っ伏したまま小さく抗議した。
「ごめん。てか、愛ちゃん先輩、具合悪い?」
「悪くない。ただ暑いだけ」
 そう答えると、心配そうな声音が近づいて来る前に愛はのそりと上体を起こした。
 彼女は昔から夏が嫌いだ。体は丈夫なので夏バテしたり体調を崩すわけではないのだが、肌に纏わりつく湿気とか容赦なく照りつける日差しが苦手なのだ。冬の寒さは着込めば何とかしのげるけれど、暑いのは脱ぐにも限界があるのでどうしようもない。

「大丈夫? とりあえずアイス食べる?」
 後輩はそう言うと、ガサガサと音をたてながら手にしていたコンビニ袋からソーダ味のアイスを取り出した。そしてそれを、愛の額にぴたりとつける。
「ひゃ、冷たい」
 思わず首をすくめると、愛は受け取ったアイスを溶ける前に額から離した。
「これ、わたしがもらっていいの?」
「うん、だって愛ちゃん先輩に買って来たんだもん」
 当然のように言い放った後輩は、愛の向かいの席に腰かけると自分の分のアイスを取り出した。
「わたしに買って来たって、いなかったらどうするの?」
「ちゃんといたじゃん」
 その言葉に愛は呆れたように笑うと、アイスの封を開けた。少し溶けかかったアイスをかじると、口の中に爽やかなソーダ味が広がった。

「食べ終わったら、今日も書類の整理する?」
 棒の周りだけアイスを残しながら器用に食べている後輩が、愛の後ろに積み上げられた書類の山に目をやりながら尋ねてきた。
 書類は歴代の生徒会の記録だ。過去の経費の記録だったり議事録だったりが乱雑に積まれた山は、歴代の生徒会役員たちが見て見ぬふりをしてきた。けれども今年の春に生徒会副会長に就任した愛は、性分からかそれを放置できなかった。今や必要としないものも多く混ざっているので、まずは保管するものと破棄するものに分け、保管するものは見やすく整理するつもりだ。普段は色々と雑用があるので手をつけられなかったのだが、夏休みはこれらを片づける絶好のチャンスであり、愛はその為に週に何度かは登校していたのだ。
 別に、愛がそれらを片づけなければならないという理由はない。他の役員たちは、先輩たちも放置していたものだし今更手をつけなくても良いのではという意見だったが、愛はひとりで片づけることを選んだ。さすがに書記をしていた一年の時は差しでがましいことはできないので見て見ぬふりをしていたが、先輩たちが引退し自らが副会長になった今年は好きにできる。別に使命感に燃えているわけでも完璧主義なわけでもなく、ただ使わないものが放置されている状態が気持ち悪いだけだ。そんな愛の性格を知っているので、他の役員たちも好きにさせてくれていた。

 愛は生徒会の活動を、クラブのようだと思っている。
この櫻塚高校の生徒会は世間が抱くイメージのような真面目な集団ではなく、ただ人をまとめて何かをしたい人間の集まりだ。テニスをしたいからテニス部に入るように、絵が好きだから美術部に入部するように、学校行事を仕切って達成感を味わいから生徒会に入った。親友の遠藤春菜はしきりに愛のことを偉いねと言うが、部活で頑張っている人たちの方がよっぽどすごいと思う。
「愛ちゃん先輩?」
 ぼんやりと物思いにふけっていた愛の顔を、既にアイスを食べ終えた後輩が覗き込んでくる。
「うん、少しだけ片づけて帰ろうかな。でもひとりで大丈夫」

「何で? 僕も手伝うよ」
 愛の答に不思議そうに目を瞬かせると、彼は当たり前のようにそう言った。
「いいよ、あと少ししたら今日はもう帰るし」
「じゃあ、僕も手伝うから一緒に帰ろうよ」
「ひとりで大丈夫だって。生徒会でもないのにこんな雑用してもらうの悪いし、そもそもこれはわたしが好きで勝手にやってる仕事なんだから」
 愛の頑なな拒絶に、後輩の表情が徐々に不満の色を帯びてくる。
「何で今更そんなこと言うの? 愛ちゃん先輩が勝手にやってるって言うのだったら、僕も勝手に手伝うんだから問題ないじゃん」
「夏休みにまで部外者に手伝わせるなんて、体裁悪いでしょうが」

 簡単に引き下がってくれない相手に対して放たれた言葉は、思いとは裏腹に鋭く尖っていた。
「生徒会に出入りしてるのは僕だけじゃないし。そんなこと言ったら、春菜先輩だって部外者じゃないか」
 愛の言葉に反論する彼の声は、確実に苛立ちを滲ませている。愛は返す言葉が見つからなくて、目を逸らした。窓の向こう側には、相変わらず絵の具を塗り重ねたような濃い青色の夏空が広がっている。外の世界の鮮やかな色彩とは対照的に、室内は重苦しい沈黙が流れていた。

「愛ちゃん先輩は、僕と一緒にいるのが嫌だった?」
 やがて彼が、ぽつりと呟く。その言葉に怒りの色は感じられず、視線を戻すと、飼い主に捨てられた子犬のような寂しそうな目がこちらを真っ直ぐに見つめていた。
「また忙しい時期になれば会長がヘルプ要請を出すかも知れないけど、この仕事は手伝う必要ないから」
 愛は彼の質問には答えず、努めて淡々と言い放った。
「わかった。纏わりついてごめんね」
 彼は何もわかっていない。けれどそう思わせたのは愛自身で、彼を納得させる言葉を持ち合わせていない彼女は、否定も肯定もせずに押し黙っていた。
「じゃあ、またね」
「アイス、ごちそうさま」
 愛がそう言うと、彼は少しだけ微笑んだ。音をたてて扉が閉まると、足音が遠のいて行く。再び机の上に突っ伏すと、腕の隙間からぼんやりと窓の外を見やった。真夏の空は鮮やか過ぎて、目に染みた。



 愛が後輩である彼に、道野翔に出会ったのは、春の終わりの頃だった。
 生徒会会長の松田と家が近所で幼い頃は兄弟のように遊んでいたという翔が、入学後すぐ兄貴分である松田に呼び出され、三年生からの引き継ぎでばたばたしている生徒会の雑用を押し付けられたのがそもそものはじまりだ。
 幼い顔立ちと小柄な体躯のせいで、はじめて生徒会室にやってきた翔から愛が思い浮かべたものは豆柴だ。人見知りしない性格の翔はちょこまかと動き回り、あっという間に生徒会に馴染んでいった。手伝ってくれたことに対して愛が礼を言った時に見せる何とも嬉しそうな姿は、もっと褒めてとしっぽを振る子犬のそれだった。
 それ以来、翔は頻繁に生徒会室を訪れるようになった。用がなくても居座り、気が済んだら帰ってゆく。特に愛の仕事内容に興味津々の様子で、パソコンに向かっていたら覗き込み、荷物を運んでいたら奪い取って代わりに運び、打ち合わせをしていたら隣でじっと聞いている。
 そんな翔の姿に他の生徒会役員たちも愛と同じ連想をしたらしく、豆柴から豆翔と呼ばれるようになり、やがてマメという愛称が定着した。その頃にはすっかり翔が生徒会室にいることが当たり前になり、彼の存在について愛は深く考えることもなかった。
 けれどもある日、ひとりの女子が、愛と翔の距離感に疑問の声を投げかけたのだ。

 翔と同じ一年生である女子生徒は、愛の学年でも話題になったくらいの美少女だった。中学時代にやっていたというフルートを続ける為、入学後すぐに吹奏楽部に入部したらしいのだが、そのせいで今年は例年よりも男子の新入部員が増えたとの噂もある。
「一年の中川美月と言います。内村先輩にお話があるのですが、少しお時間よろしいですか?」
 靴を履き替えて帰ろうとしていた愛がそう声をかけられたのは、三日前の午後のことだった。
 有名なので顔は知っていたけれど、こんなにも近くで見るのははじめてだ。学年が違うし共通の知り合いもいないので、当然言葉を交わす機会もない。男子たちが騒ぐだけのことはあるなと相手の容姿に見入りながら、愛は彼女の用件を想像してみたがさっぱり思い浮かばなかった。
「良いけど、何?」
 そう愛が答えると、ここではまずいからと校舎の外へ連れ出された。ストレートの黒髪をなびかせながら先を歩く美月は、校舎脇の桜の木の下まで来ると足を止めた。濃い緑の葉で覆われた桜の木からは、蝉の声が大音響で聞こえてくる。彼女はゆっくりと愛に向き直ると、おもむろに口を開いた。
「単刀直入に伺います。先輩は翔のことをどう思っていますか?」

 大きな瞳で射るように見つめられながら投げかけられた予想外の質問に、愛は言葉を失った。けれどもやがて、理不尽に向けられた敵対心に不愉快な思いが湧いてくる。
「そんなこと、何故あなたに答えなくちゃいけないの?」
「わたしが翔のことを好きだからです」
 不機嫌さを隠さない愛の様子に怯むことなく、相手は即答で返してきた。それが彼女の気持ちの本気度を表していて、愛はより苛々した。
「じゃあ、わたしのことなんか気にせず、さっさと告白して付き合えばいいじゃない」
 愛は投げやりにそう言った。熱を孕んだ風が時折桜の枝を微かに揺らし、その度に葉の隙間から夏の太陽の光がちらちらと差し込んでくる。
「ええ、そうするつもりです。だから彼を、生徒会に縛りつけないでください」
「縛りつけてなんかいないわ」
「先輩はそんなつもりではないかも知れませんが、実際は違うと思います。生徒会役員でもないのに雑用を押し付けられ、夏休みにまで登校して手伝わされているじゃないですか」
「それは……」

 それは翔が勝手にやっているだけだ――。
 喉まで出かかった言葉を、愛は既のところで飲み込んだ。好きな時にやって来て適当に手伝って帰って行く様子に、きっと生徒会の居心地が良いのだと思い、彼に居場所を提供している気でいたけれど。でもそれは、愛の勘違いだったのだろうか……。
「道野がそう言ったの?」
 少し考えたのち、愛はそう美月に尋ねた。
「いいえ。ただわたしが、おかしいと感じただけです」
 そう答えた美月の姿は呆れるくらいに堂々としていた。いきなり話したこともない上級生である愛を呼び出し、自分の好きな男に近づくなと宣言する。自分に自信がないとできない行動だ。
「あなたがおかしいと思っても、道野が生徒会に関わりたいと思ったらそれは彼の自由だわ。わたしたち生徒会は彼に強要したことはないし、これからもするつもりはないの」

「先輩」
 少しの沈黙のあと、やがて美月は微かに笑みを浮かべた。その表情は、やはりとても綺麗だった。
「先輩は二年生で、翔は一年です。それを忘れないでくださいね」
 そう言い放つと、彼女は失礼しますと礼儀正しく頭を下げて立ち去った。残された愛は蝉の声を聞きながら、彼女の言葉の意味を考えていた。



2011/08/19

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