恋色図鑑
未来は灰色の空の向こう 4
「よ、熱血高山先生!」
控室である視聴覚室に戻ると、佐藤が冷やかすように声をかけてきた。高山が最後の授業で熱弁をふるったという話は見学に来ていた教生から瞬く間に広がり、教頭にお叱りを受けた話まで既にしっかりと伝わっているようだ。
「いやいや、佐藤先生だってたいがい熱かったですよ」
二限目に覗きに行った佐藤の数学の授業はわかりやすく、しかし、終わりのチャイムが鳴ったあとの一言はなかなかに熱かった。教壇に立つと誰しも高校時代の自分の姿がちらついて、何か伝えたい気分になるらしい。その時は一生懸命なのだが、他人に見られていたと思うとどうにも面映ゆく、照れ隠しにふたりは互いを思い切りからかった。
「じゃあ、行くか」
そう言うと、佐藤が鞄を持って立ち上がる。二週間の実習を終えて、これから教生たちで打ち上げの予定だ。既に殆どの教生たちは指導教諭との挨拶を終え、打ち上げ会場の居酒屋へ向かったらしい。洋司はちらりと窓際の席を見やった。
「米山は?」
貴子が二週間使っていた机の上には、黒の鞄がぽつんと置かれている。それは貴子が、まだ校内にいることを物語っていた。
「あれ、まだ先生との打ち合わせが終わってないのかな? 女子は全員、店に向かったと思っていたんだけど」
のんびりとした佐藤の言葉に、鞄の中に辞書や筆記用具をしまっていた洋司の手が止まる。
「打ち上げ会場って、桜中央の駅ビルの地下にある居酒屋だよな?」
「おう、河原がバイトしてるって言ってたとこ」
「悪い、先に行っててくれないか。すぐ追いかけるから」
そう言い捨てると、洋司は視聴覚室を飛び出した。
「頑張れよ」
不意に背中にエールを受ける。ぎょっとして振り返ると、佐藤がにやりと笑っていた。
「頑張れよ、無敵の高山先生!」
「おう」
短く答えると、洋司は階段に向かって駆け出していた。畜生、どこまでばれているんだと、心の中で舌打ちをする。けれども、あの頃のように誤魔化そうとは思わない。照れくさくて恥ずかしいことに違いはないけれど、あの頃の、十八歳の夏に抱いていた気持ちはすべて本物だったから。だから二十二歳の自分が、きちんとそれを伝えて昇華してやらなければならないのだ。
貴子の居場所には予感めいたものがあった。机はきちんと片づけられ、あとは帰るだけという風情だった。だから指導教諭との挨拶も既に終えているだろう。彼女の居場所は、教室や職員室ではない。
四階から屋上へと繋がる階段の下に立つと、洋司は少し弾んでいる息を整えた。湿度をたっぷりと含んだ空気が、体にじっとりと纏わりついている。蒸し暑さのせいか緊張のせいか、少し汗ばんだ額を手の甲で軽く拭うと、洋司はゆっくりと階段を上って行った。
果たして貴子は、軽く目を閉じ、屋上と階段を遮る鉄の扉にもたれて座っていた。踊り場から見上げる洋司は、眠っているのだろうかと一瞬声をかけるのを躊躇った。
「貴子」
そっと呼びかけた声は、緊張のせいで無様にも震えていた。一瞬の間を置いて、貴子がゆっくりと目を開ける。ふたりはただ黙って、じっと互いを見つめていた。やがて我に返った洋司が口を開きかけた刹那、貴子が唐突に言葉を発した。
「高校時代とは、無限である」
真っ直ぐに洋司を見据え、宣言するようにそう言い放つ。そして小さく息を吐くと、自嘲気味に笑った。
「四年前のわたしは、そう信じてたの」
どう答えて良いのかわからず、洋司はただ貴子が紡ぐ言葉に黙って耳を傾けた。
「子供の頃は、願えば夢は叶うと無邪気に信じていたけれど、限界があることも少しずつわかりはじめていて。でも、自分が諦めなければ可能性は無限に広がってると、あの頃のわたしは信じてた」
不意に、人気のない放課後の校内にチャイムの音が大きく鳴り響く。少し驚いた表情で、貴子が口を噤む。貴子が何を語ろうとしているのかわからない洋司は、のんびりと間延びしてなかなか鳴り止まないチャイムの音に少し苛ついた。チャイムの余韻が消えるまでしっかり待ったあと、ようやく貴子は口を開いた。
「だけど、人の気持ちだけはどうにもならなくて。願っても叶わなくて。頑張るチャンスすら与えられないこともあるのだと気づかされた」
「貴子」
短く名前を読んで、洋司は貴子の言葉を遮る。最後の授業を見に来てくれた彼女が、洋司が何に対して後悔しているのか、その内容を理解しているかは疑問だった。けれど、貴子が気づいたとしても気づかなかったとしても、きちんと伝えなければならないと洋司は思っていた。だから貴子が次の言葉を発する前に、洋司は三年半の時を経てようやく自分の気持ちを口にした。
「俺は貴子のことが、ずっと好きだった」
身じろぎもせず、その大きな瞳で貴子が階段の上から洋司をじっと見つめている。
「ずっと後悔していたんだ。どうしてあの時、堂々と好きだよって言わなかったんだろうって。せめてあとで、弁解すれば良かったって。だけどぐずぐずしてたら貴子の隣には俺じゃない男がいて、すっかり告白するタイミングを失っていた」
無敵だと思っていた毎日が、後悔に染まった夏。大学生になって新しい出会いはあったけれど、後悔の色は褪せることなく、夏を迎える度にじくじくとした想いが蘇る。
「あの頃、貴子に一番近い場所に居るのは俺だって自惚れていた。頑張れば想いが届くと、無敵なんだと馬鹿みたいに信じてた」
「無敵だったのよ」
三年半の時間を要した洋司の告白を、貴子は不意に遮った。
「確かにあの頃の洋司は、無敵だった。高校最後の文化祭も高校最後の体育祭も、すべての行事があんなに馬鹿みたいに盛り上がれたのは、クラスの中心にいつも洋司がいたからだよ。休み時間はふざけたことばっか言ってたくせに、陰で努力してどんどん成績も上げていって。二年の時はわたしと変わらないくらいの順位だったのに、三年の時には大差をつけられていた。置いて行かれたくないって、せめて得意科目の英語だけでも対等でありたいって、わたし必死で勉強してたんだよ」
苦笑いを浮かべると、貴子はそっと立ち上がる。そして、思い出が美化されすぎてはいやしないかと呆然と佇む洋司のもとへ、一段一段ゆっくりと階段を下りて来た。
残り一段の所で貴子は足を止める。踊り場に立つ洋司と、視線の高さがほぼ等しくなった。
「わたしも洋司のことが、ずっと好きだった」
手を伸ばしたのは、どちらが先だっただろうか……。
コンマ一秒も違わぬくらい同時に、互いが互いを求めて恐る恐る触れる。しんとした静寂が広がる放課後の校舎内で、ふたりは自分のものではない鼓動を感じていた。
「好きじゃないって言われて、諦めなきゃって思ったの。だから、好きだと言ってくれた人の気持ちを利用した。他に好きな人がいてもいいよっていう言葉に甘えて、そして傷つけた。叶わないってわかっていても、わたしの心の中には洋司しか入って来なかったの」
腕の中で涙まじりに囁かれる告白に、洋司の心は甘さと苦さがないまぜになった。正直、無敵だと調子に乗っていたあの頃でさえ、ここまで想われていると期待はしていなかった。だからこそ、自分が勇気を出していればこんなに傷つけることはなかったのにという思いが胸を刺す。
「ずっと好きだった。今も、これからも、ずっとずっと貴子が好きだよ」
懺悔の意味を込めて、洋司は貴子を抱きしめる腕に力を込める。
高校時代はヘタレすぎて無敵には程遠かったけれど、自分の弱さを知ることができたから、だからそれを優しさに変えてゆこうと心に誓った。
「あっ……」
不意に貴子が、洋司の腕の中で小さく感嘆の声を上げる。洋司の肩越しに何かを見つめる彼女の視線の先を追うと、踊り場の小さな窓から光が差し込んでいた。
どちらからともなく手をとり、窓へと近づく。
ずっと空を覆っていた灰色の厚い雲の隙間から、太陽の光が差し込んでいた。その細い光の筋が、暗い雲の色を金色に染め上げている。
洋司は思わず、繋いでいた手にぎゅっと力を込める。その瞬間、貴子もぎゅっと握り返してきた。
雲の切れ間から覗く光が、間もなく梅雨が明けることを宣言していた。
2011/07/07