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図鑑



青い風に吹かれて 2


 あれから二日、愛は学校へは行かず家でごろごろしていた。故に、翔とは顔を合わせていない。けれども今日からは、夏期講習がはじまる。
 櫻塚高校では例年、夏休み一週目は期末テストで赤点をとった成績不良者を対象に補習授業が行われ、その翌週からは希望者のみが受講する夏期講習が開かれる。理系志望の愛は、英語と数学と生物の講習を申し込んでいた。

「愛ちゃんせんぱーい!」
 初日の講習を終え、生徒会室へと向かう愛の頭上に降ってきたのは、自分の名前を呼ばう耳に馴染んだ明るい声だった。その方向を見上げると、二階の教室の窓から翔が大きく手を振っていた。そんな無邪気な様子に、愛は手を振り返すことも忘れてただ呆然と立ち尽くしていた。
「愛ちゃん先輩は、もう終わり?」
 反応のない愛に対し、翔は先程よりも声のボリュームを上げて尋ねてくる。
「あ、うん、終わったよ。そっちはまだ残ってるの?」
「このあとの英語で終わり」
 そんなに大きな声を出さなくてもちゃんと聞こえてるよと、そう思いながら愛は苦笑した。
「あっそ。居眠りするなよ」
「頑張るー」
 嬉しそうにぶんぶんと両手を振る翔につられるように愛も笑みを零すと、小さく手を振り返した。そのタイミングでチャイムが鳴り、やがて名残惜しそうに翔は窓から離れる。立ち止まっていた愛も、生徒会室のある東館へと歩きはじめた。刹那、ふと愛は視線を感じた。
 何気なくもう一度教室を見上げると、美月がじっとこちらを見つめていた。教師が入室したのだろう。ゆっくりと愛から視線を外すと、彼女は前方を向き他の生徒と同様に起立した。愛はしばらくの間、窓際の席に座る彼女の綺麗な横顔を見つめていた。

 愛は一年生の一部の女子の間で自分が疎まれているということに、梅雨頃から何となく気づいていた。自分に何かと構ってくる翔は明るく人当たりが良くて、その上可愛らしい顔つきをしている。そんな彼が、地味な上級生である愛に何かと纏わりついているのだから、翔に気がある一年生の女子たちは面白くないのだろう。やがて“不釣合”とか“可愛くないくせに”とかいう単語が、すれ違いざまに聞こえてくるようになった。主語はないが、それが誰を指すかに気づけない程、愛は鈍感ではない。腹を立てはしたけれど、どこかで納得する気持ちもあった。そりゃあ周りはそう思うよね、と。
 けれども、翔も愛も別に恋愛感情を持っているわけではないのだ。先輩後輩としての友好関係を、そんな理不尽な言われで解消する気はなかったので、愛は無視を決め込んだ。もしも直接何か言われたら、論破できるだけの気の強さを愛は持ち合わせている。そんな彼女の空気が伝わったのだろう。真正面から向かって来る根性のある子は現れなかった。

 そんな中で、美月は呆れるくらい堂々と愛に挑んで来た。自己中心的な言い分で不愉快になりはしたけれど、陰口を叩く子たちに比べればましなのかも知れない。
 けれど、彼女にだって行動を指図される筋合いはない。翔が生徒会との関わりを望んでいれば拒む理由はないし、それは翔が決めることだ。彼女と対峙した時に愛は確かにそう憤ったし、実際彼女にもはっきりとそう宣言した。けれども翔とふたりきりになった瞬間に、愛の気持ちは揺らいでしまったのだ。自分なんかと関わってはいけないのではないかという気持ちが、急に湧いてきた。結局、周囲から注目されるくらい綺麗な美月に真っ直ぐぶつかって来られて、日頃抑え込んでいた自信のなさが露呈してしまったのだろう。更にはその苛立ちを翔にぶつけてしまった。八つ当たりも甚だしい話だ。
 だから愛は、翔と顔を合わせるのが気まずかった。今までのように気軽に声をかけてくれないかも知れないし、笑いかけてくれないかも知れない。そんな不安を抱えていた。だけど彼は、まるで何事もなかったかのように呼びかけて、そして笑って手を振ってくれた。いきなり突き放した愛に対してあの時は確かに戸惑っていた筈だが、今はそんな様子は欠片も見せず、いつもの翔だった。彼にとっては大したことではなかったのかも知れない。単なる愛の気まぐれだと思われたのかも知れない。
 けれど愛は、そっと安堵の溜息を漏らしたのだった。


「愛ちゃん先輩、今日も暑いねー」
 それから夏期講習の間、毎日のように翔と顔を合わせた。学年は違うけれど、登校途中だったり休み時間だったり生徒会室への移動途中だったり、色んなところで偶然顔を合わせた。暑くて耐えられないとか、数学の講習が眠すぎるとか、新作アイスが食べたいとか、交わす言葉はどうでも良い内容ばかりだ。けれどもそんな他愛のない会話のおかげで、苦手な夏が今年はそれ程嫌ではないと愛は感じていた。

 その日、一科目しか選択していなかった愛は、講習が終わると生徒会室で書類整理を行っていた。あの堆く積まれた書類の山は今やすっかり平地になり、あとは不要なものを焼却炉まで捨てに行くだけだ。破棄する書類を詰め込んだダンボール箱を抱え上げて生徒会室を出ると、そろりそろりと足元に注意しながら階段を下り、校舎の裏にある焼却炉を目指す。
 少し詰め込み過ぎたかなと、一階に着く頃には腕に伝わるずしりとした重さに愛は後悔しはじめていた。暑い中を二往復するのが面倒で、一度にまとめて運ぼうとしたのだが、どうやら無謀だったようだ。校舎の外に出たところで抱えていたダンボールを一旦地面に置き、しびれた腕を休める。ぐるぐると何度か腕を回したのち、再び箱を持ち上げようとしたその瞬間、賑やかな声が近づいて来た。

「愛ちゃん先輩」
 聞き慣れた声に屈んでいた体勢から視線を上げると、案の定、そこには翔が立っていた。
「あれ、もう終わり?」
「うん、今日は一教科だけだったんだ。これから皆でカラオケに行くとこ」
 聞いてもいないのにこのあとの予定まで教えてくれて、成程、男女混合のグループが翔の後ろで足を止めていた。ふと一番右端に立っていた女子と目が合う。あっと声が出そうになって、愛は何とかそれを飲み込んだ。今日も三十度を超える夏日だというのに、さらさらのストレートヘアを下ろして涼しげな表情で立っているのは美月だった。
「もしかして、これ運ぶの?」
「う、うん」
 翔の問いかけに、我に返る。
「大丈夫? 手伝おうか?」
「もうすぐそこだから大丈夫。道野はカラオケなんでしょ」
「うん……」
 ひらひらと手を振って答えると、翔はあっさり引き下がった。そして、行こうかとクラスメイトたちを促す。
「じゃあ、またね」
「うん、バイバイ」
 上級生である愛に、一年生たちがぺこりと会釈して去って行く。美月も小さく頭を下げたので、愛も同様に返した。校門に向かうその集団の後ろ姿をぼんやりと見送ったあと、大きな溜息をひとつ吐き、愛は再びダンボールを抱え上げた。それは先程よりも、更にずしりと重かった。

 誰もいない焼却炉には、ただ蝉の声だけが鳴り響いていた。重い荷物を運び終えた愛の額には、汗が浮かんでいた。手の甲でそれを拭う。ふと、暑さを感じさせない美月の姿を思い出した。無意識に自分の髪に手をやる。後ろでひとつに結んだ髪はさらさらという形容詞がそぐわない剛毛で、おくれ毛が数本汗ばんだうなじにぺたりと貼りついていた。
 ――馬鹿馬鹿しい。
 愛は吐き捨てるように呟くと、乱暴に箱を開けた。そして苛立ちをぶつけるように、中から取り出した書類をびりびりと引き裂いて焼却炉に放り込んでいった。何に対して苛ついているのか、どうして苛ついているのかは、深く考えないようにした。

「愛」
 不意に背後から名前が呼ばれ、思わずびくりと肩が跳ねる。手を止めて振り返ると、そこには親友の姿があった。
「春菜……」
「もう、待っていてくれれば一緒に運んだのに」
 呆れたようにそう言うと、愛の隣で同じように書類を引き裂きはじめた。
「今日は生物だけだったし、春菜を待ってる間に片づけられるかなと思って」
 愛の乗り換え駅である桜中央に新しいカフェがオープンし、今日はふたりでそこに立ち寄る約束をしていた。春菜は二科目講習があったので、待っている間に時間潰しも兼ねて片づけようと思ったのだ。それに対して春菜は特に何も言わず、蝉時雨の中、ふたりは黙々と書類を焼却炉に投げ込んでいった。

「ねえ、愛」
 すべての書類を破棄し終わったあと、遠慮がちに春菜が口を開いた。
「翔くんと何かあった?」
 思わずぎょっとして、愛は春菜を凝視した。何もないよ。そう答えようとしたのだけれど、あまりにも過剰に反応してしまった為にそんな言葉は通用しないと観念した。
「何で?」
 代わりに、何故そう思うのかという疑問を口にする。ここ数日、翔が声をかけてきたうちの何度かは春菜も一緒にいた。別によそよそしくしていたわけでもないのに、何故そう感じたのか愛には不思議だった。
「講習が終わる直前に愛が重そうにダンボールを運んでいるのが窓から見えて、またひとりで頑張り過ぎてるなって呆れていたの。でも翔くんが声をかけている姿が見えて、だから安心してた。だけど講習が終わってすぐにここへ来てみれば、愛がひとりでいるんだもん。誰だっておかしいと思うよ」
「別におかしくなんかないよ。クラスの子たちと一緒にカラオケに行くみたいだったから、手伝うって言ってくれたけどわたしが断ったの。他の子たちもいるのに悪いでしょ」
 愛は笑ってそう説明したけれど、春菜は腑に落ちないという顔をしていた。

「今日だけじゃないのよ。夏休みに入って、一見いつものように話しかけて来るんだけど何か違うの。壁があると言うか、いつもはもっと踏み込んで来るのにどこか引いてるように感じてた」
 壁を作った張本人である愛は、春菜の鋭すぎる指摘に何も答えられなかった。
「今までの翔くんなら、友達がいようと関係なかったじゃない。愛が荷物持ってたら、友達に先に行ってもらってでも愛を手伝っていたじゃない。どんな小さな荷物でも目ざとく見つけて、いつかの梅雨の日なんか、ぬかるんだグラウンドを横切る愛を見つけた瞬間に駆けつけて来て。いくら近道だからって泥だらけのグラウンドを小雨の中強行突破しようとした愛も愛だけど、予想どおりやって来た翔くんの姿に、わたしたちのクラスでもみんな笑っていたんだよ。本当に翔くんは、愛のことが好きなんだねって」
 さらりと言ってのけた春菜の最後の言葉に、愛の頬が一気に染まる。いや、そういう意味で言われているのではない。あくまでも飼い犬がご主人様を慕っているのと同じなのだと、瞬時に自らに突っ込みを入れた。
「……そんなんじゃないよ」
 愛は苦笑しながら、小さく否定した。自分と翔が校内で注目を浴びているという自覚はそれなりにあった。生徒副会長という立場柄、愛の知名度はそこそこある。愛想が良いわけではなく綺麗なわけでもない副会長に、豆芝のような翔がいつもにこにこ纏わりついているのだから、注目を集めない筈がない。

「愛ちゃん先輩、何してるの? どこに行くの? 会うたびにそうやって尋ねて来るのに、最近は暑いねとかまたねとかそんな会話ばっかりで、翔くんが愛のことを尋ねてこないんだもん」
 追及の手を緩めず、春菜はじっと愛の顔を見つめてきた。それは好奇心とかそんなものではなく、不器用な友人を心配している表情だった。
「春菜は鋭いなあ……」
 やがて大きく息を吐くと、愛はぽつりと呟いた。本当は愛だって、翔があの日から少し違うことを感じていた。いつもどおり話しかけてくれたことに安堵しながら、けれども愛が引いてしまった線から内側には決して踏み込んで来ないことに気づいていた。でも、それを寂しいと思う資格は愛にはなくて、だからずっと気づかないふりをして誤魔化していたのだ。
「ふたりがわかりやすいだけだよ」
「そっか」
 あっさりと言われた春菜の台詞に、愛は思わず苦笑いを漏らす。

「何かね、もうわからなくなっちゃった」
 呆れるくらいの大音響で蝉が鳴き続ける中、やがて愛は途方に暮れたように呟いた。



2011/08/25

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