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図鑑



薄紅色に滲む世界 3


 流れる景色は薄紅色に染まり、同じ色に頬を染めた春菜の視界の先を流れてゆく。予期しなかった偶然に、ちらりと彼の姿を盗み見して幸せを感じながら、けれども春菜はどこか冷静な頭で来年この景色を見る時に彼はいないのだと思った。
 次の春は彼の隣で桜を見たいだなんて、そんな大それたことは願わない。けれども桜の季節に少しだけ、ほんの一瞬でもわたしのことを思い出して欲しいという、今までは抱くことのなかった欲が湧いてくる。
 桜の蕾が膨らむようにゆっくりと密やかに育っていったこの想いを、何も伝えられないままに散らせてしまうのはやはり悲しい。今いっぱいに花開いた自分の気持ちをせめて彼に知って欲しいと、春菜の気持ちは僅かな時間のうちにまるで振り子のように揺れ動いていた。


『次は咲坂、咲坂』
 逡巡する春菜の想いとはうらはらに、のんびりとした口調で車掌が次の停車駅を告げる。
 春菜はもう一度そっと晋平を見やると、唇を噛んだ。来週の朝、彼がいつもの電車に乗るかはわからない。再びまた会うことができるのかさえもわからないのだ。不意に、今まで当たり前だったことは決して当たり前じゃないんだという美智子の声が、春菜の脳内に響いた。
 列車がスピードを緩め、ゆっくりとホームに滑り込む。開いたドアの向こう側には、薄紅色の世界が広がっていた。ずっとずっと、密やかに見つめていた紺色の背中が、その中へと消えてゆく。

 指先が冷たい。心臓の音が煩い。
 扉が閉まる瞬間、春菜は衝動的に飛び降りていた。晋平が驚いた表情で振り返る。
 どうやら春菜は、無意識のうちに彼を呼び止めていたらしかった。


「あの……」
 背後で扉が閉まり、ゆっくりと列車が走り出す。もう逃げ道はなかった。
「あの、わたし、櫻塚高校二年の遠藤春菜と言います」
 きっともう、春菜の伝えたいことはバレバレだろう。真っ赤な顔をして、震える声で呼び止めて。
 けれどもきちんと、自分の言葉で伝えなければいけない。顔を上げる勇気はないが、彼が立ち止まって聞いてくれているのはわかった。不意に柔らかな風が吹き抜ける。ふわり舞った花弁に後押しされるように、春菜は勇気を振り絞ってその言葉を発した。

「好きです」
 想いをのせた言葉に、一瞬ぴくりと晋平の体が強張ったのが春菜には伝わった。怯みそうになる気持ちに渇を入れるように、握りしめていた掌に小さく爪をたてると春菜は言葉を繋いだ。中途半端な告白では意味がない。この想いのすべてを伝え切ってしまいたいという願いだけが、春菜を支配していた。
「この一年、毎朝同じ電車で姿を見られるだけで幸せで。でも今週会えなかったことで、ようやくそれが当たり前ではないことに気づいたんです。付き合って欲しいとか、そんな大それたことは願ってなくて。ただ、せっかく育てたこの想いはきちんと咲かせて、自分の手で散らせてあげたいとそう思ったんです」
 彼の顔を見る勇気は欠片もないが、きっとぽかんとしていることだろう。緊張のあまり、言葉を発するごとに支離滅裂になってゆくもどかしさに春菜は歯噛みした。

「今週は委員会の当番でね。一週間だけ早く登校しなくちゃいけなかったんだ」
 それは、来週から再び同じ電車に乗るということだろうか。告白しても、避けないでいてくれるということなのだろうか。やがて発した彼の声音は優しく穏やかで、張りつめていた春菜の心が少しだけ緩む。
「ありがとう。びっくりしたけど嬉しかったよ。でも僕は君のことを何も知らないし、君だって僕のことを何も知らない。だから……」
「わかっています。確かにわたしはあなたのことを何も知りません。でも、あなたのことを好きになったんです。毎朝たくさんの人と同じ電車に乗り合わせる中で、あなたのことだけが気になって仕方なかったんです。それを伝えられないままに会えなくなるのが嫌だったんです。きちんとあなたに自分の気持ちを伝えたかった、これはわたしの我儘なんです」
 謝罪の言葉を聞きたくなくて、彼の言葉を遮ると春菜は一方的に喋った。付き合って欲しいだなんて大それた想いを抱いていないというのは嘘ではないけれど、想いを受け入れてもらえるかもという微かな期待があったのも偽らざる事実で。けれども気持ちを伝えたあの瞬間の、ぴくりと震えた微かな反応が拒絶を表していることを、春菜は敏感に感じ取っていた。
 だから想いを伝えた今、晋平には罪悪感を持って欲しくないと、春菜はただそれだけを願っていた。

 遠くから微かに、踏切の音が聞こえてくる。どうやら次の電車が近づいて来ているようだ。
 桜の季節に、ほんの一瞬だけでも自分のことを思い出して欲しい。そしてそれは、自分の一番の笑顔であって欲しい。告白の原動力となった欲望に、やがて新たな望みが加わる。
 春菜は持てるだけの勇気を振り絞り、別れを前にそっと顔を上げてまっすぐに彼の目を見つめた。
「わたしの想いを聞いてくださって、ありがとうございました」
 笑えと、心の中で強く念じる。
 一番の笑顔には程遠いものではあったけれど、それでも春菜は精一杯の笑みを浮かべた。
「こちらこそ、ありがとう」
 “ごめん”ではなく“ありがとう”という言葉をくれた彼に、春菜は深く頭を下げた。



 結局、晋平は春菜の乗った電車がホームを離れるまで見送ってくれた。そんな彼の優しさに、好きになって良かったと春菜はしみじみ思った。
 もちろん、自分の告白はあまりにも行き当たりばったりだったという自覚はある。あんな衝動に任せた思いつきみたいな告白じゃなく、伝えたい気持ちを表す言葉をきちんと推敲して、朝から髪型とか身なりにもきちんと気を配って臨むべきだったとは思う。それでもあの時、あの瞬間に、どうしても伝えたくなってしまったのだ。会えなくなって後悔するよりも、ぐだぐだな告白でもしておきたかった。
 自信がある人なら付き合ってからわたしを知ってくださいと言えたかも知れないが、あれが春菜の限界だ。きっとこの先、大人になってからも思い出しては恥ずかしさに身悶えすることだろう。気持ちの半分も伝えられなかったという後悔も、山のようにある。けれども告白しなければ良かったという後悔は、決して負け惜しみとかじゃなく、春菜は微塵も感じていなかった。
 ガラス窓にコツンと額をつけて俯くと、不意に涙腺が緩む。あと少しだから。そう自分を叱咤して顔を上げると、春菜は窓の外に広がる見慣れた風景を睨むように見つめた。

『次は終点、散乃里』
 やがて列車は、終着駅に辿り着く。人影まばらなホームにゆっくりと滑り込むと、春菜がもたれていた扉とは反対側のドアが開く。僅かに残っていた乗客に続き、春菜は一番最後にホームに降り立った。刹那、強い南風がホームを吹き抜ける。駅舎の脇に立つ桜の木の枝が大きく揺れ、薄く色づいた花弁が風に煽られぶわりと一斉に舞い上がった。
(ああ、散ってゆく……)
 はらりはらりと、まるで粉雪のように舞い散る桜を、春菜は呆然と見上げていた。不意に、世界が薄紅色に滲む。遂には堪えきれず、喉の奥からは嗚咽が漏れた。



2011/04/24

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