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図鑑



薄紅色に滲む世界 2


 今年は四月になってからもなかなか気温が上がらず、例年よりも桜の開花が遅れていた。四月も半ばを過ぎたというのに、車窓から見える桜はまだ五分咲きだ。もっとも今週から気温が上がるらしく、一気に開花して見頃を迎えるだろうと、昨晩のニュースで気象予報士が説明していた。
 春菜は読みかけの本から視線を上げると、ぼんやりと窓の外を見つめた。
『次は咲坂、咲坂』
 のんびりとした車掌のアナウンスが車内に流れる。等間隔に乗客が並ぶホームに、ゆっくりと列車が止まった。春菜はちらりと視線を走らせ、列車を待つ人々の顔を確認する。開いたドアから次々とサラリーマンや学生が乗り込んで来るが、紺色のブレザーを着た彼の姿はなかった。

 静かに走り出した列車の中で、春菜は小さく溜息をついた。愛と乗り合わせたあの朝以来、晋平の姿を見ていない。一日目は日直か何かの当番だと思った。二日目は体調を崩したのかと心配になった。三日目の今日は、愛との会話が聞こえてしまい春菜の気持ちが知られてしまったのではないかと思って、絶望的な気持ちになった。
 あの日、晋平との距離は離れていたし、声のトーンも抑えて話していたので聞かれていないと思っていたが、自分が思っていたよりも大きな声が出ていたのかも知れないし、ふたりの視線を感じたのかも知れない。これまでも一日くらいなら姿を見ないことはあったが、このタイミングでこれだけ見かけないと不安が膨らんでくる。まともに言葉を交わしたことがないどころか相手が自分を認識しているかすら定かではないのに、避けられているかもと思い悩むなんて自惚れもいいところだが、春菜はどうしても心の底に湧きあがる不安を拭いきれなかった。
 再び溜息を漏らすと、春菜は手元の文庫本に視線を戻した。けれども字面を滑るだけで内容はまったく頭に入らず、ついに諦めると、春菜は本を鞄にしまった。




「えー、みっちゃんの彼、年上なんだ!?」
 昼休みの教室で、春菜はクラスメイトの麻美と美智子と机を寄せて一緒に弁当を広げていた。今しがたぽろりと零した美智子の発言に、麻美が興奮を抑え切れないように大声をあげる。そのせいで周囲の視線を浴びた美智子がしーっと人さし指を立て、春菜はそんなふたりの様子を楽しそうに眺めながら母特製の卵焼きを口に運んだ。
 新しいクラスになって二週間が経ち、一緒に行動するグループはだいたい決まってきた。はじめは遠慮がちだった会話も、最近では随分と砕けたものになっている。
「ねえねえ、どっちが告白したの? どんなきっかけで付き合いはじめたの?」
 恋愛話が楽しくて仕方がないという表情で、麻美が美智子を質問攻めにする。
「部活の先輩で話が合って、割と仲が良くて。でも告白する気はなかったんだ。部活の時に喋ったり、たまに一緒に帰れるだけで満足だったの」
 続きを促すようにうんうんと相槌を打ちながら、麻美が身を乗り出して聞いている。美智子も恥ずかしそうではあるが、話を聞いてもらえるのが嬉しいようだ。
「彼の方が一年先輩で、先に卒業するのはもちろんわかっていて。わかっていたつもりだったけど、どこかでずっとこのままでいられる感覚でいたのね。夏に彼が引退して接点がなくなって、それまで当たり前だったことが、当たり前じゃないことにようやく気がついたんだ」
「それでそれで?」
「わたしが勇気出さなきゃ当たり前にはならないんだと思って、女は度胸だと、待ち伏せして告白しました!」
 照れ隠しにわざとおどけて胸を張った美智子に対し、麻美がきゃあと声を上げる。
「いいなあ。ねえ、春菜ちゃん?」
 うっとりとしながら同意を求める麻美が可愛くて、春菜は笑いながら頷いた。

「春菜ちゃんは、彼氏いないの?」
 聞き役に回っていた春菜に、麻美がそう尋ねてくる。
「いないよ」
「じゃあ、好きな人は?」
「いない」
 春菜は小さく笑って首を振った。毎朝同じ電車に乗り合わせるだけの、名前しか知らない人のことを好きだとは言えなかった。
「そっか。もしも好きな人ができたら教えてね」
「わたしもわたしも!」
 ふたりが顔を寄せてそう言うと、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。



 結局、その週は彼の姿を見ることはなかった。もう会えないのかな、そんな予感が頭を掠める。
 彼が来年卒業したら会えなくなることはわかっていた。だけど卒業までは、少なくとも今年いっぱいは同じ電車で見つめていられると思っていた。けれども、彼が絶対にあの電車に乗らなければならない理由はどこにもない。美智子の言うように、これまで当たり前だったことは決して当たり前ではないのだ。

「桜、満開だね」
 窓の外を眺めていた愛がのんびりと呟く。気象予報士が言ったとおり、今週一気に桜が咲き乱れた。
「わたしは高校入学まで染野線に乗ることが殆どなかったから、去年はじめてこの桜を見た時は感動したなあ」
 窓の外は、薄紅色の景色が途切れることなく続いている。愛の言葉に、春菜は黙って頷いた。
 進級してクラスは離れたけれど、帰りはたいがいふたり一緒だ。先にホームルームを終えた方が、相手の教室に迎えに行く。もっとも生徒会副会長の愛は行事の前になると遅くまで準備に追われるので、そんな時は一緒に帰れないのだけれど。

「そうだ、来週は一緒に帰れないや」
 不意に思い出したように、愛が言った。
「今月末、生徒会役員選挙があるじゃん。そろそろ準備しないとね」
「わたしにでもできそうな雑用があれば手伝うよ」
 一年の頃から生徒会に入っていた愛に頼まれて、春奈は何度か手伝ったことがある。人の前に立つポジションは自分に向いていないと思うし、荷が重い。だけど、コピーをとったりホッチキスで綴ったりする作業なら春菜にでもできる。むしろ、そういう地味な作業が嫌いではなかった。
「本当に? そんなこと言われたら、いっぱい頼っちゃうよ」
 そう言うと、愛は嬉しそうに笑った。
「今年からうちらが仕切らないといけないけど、やっぱり先輩がいなくなると思うと不安でさ」
「愛はすごいね」
 櫻塚高校では基本的に一、二年生が生徒会を運営する。三年生の役員は進級と同時に引退し、ゴールデンウィーク明けに行われる役員選挙で選ばれた一年生を新たに加えて、今後の主な学校行事を仕切ってゆくのだ。
 春菜の口から思わず零れた感嘆の溜息に、愛は不思議そうに目を瞬いた。
「何で? 生徒会でもないのに、面倒なこと手伝ってくれる春菜の方がすごいじゃん」
 物怖じすることなく人の前に立ち、リーダーシップを発揮してみんなを引っ張っていく愛の方がすごいに決まっているのに、そんなことを言う愛に思わず春菜は吹き出す。そんな春菜に対し、愛はますます不思議そうな表情を浮かべていた。

「そう言えばこの前、夕子先輩のところに去年のデータをもらいに行った時に聞いたんだけどね。三年になったら補習だらけらしいよ」
 夕子先輩とは、去年、生徒会の副会長を務めていた先輩だ。手伝いに行った時に春菜も何度か言葉を交わしたことがあるが、穏やかだけどどこか凛とした雰囲気に密かに憧れていた。
「放課後は週三回、受験対策の補習があって、国公立クラスは早朝にゼロ時間目とかあるらしいよ」
 うわあと思わず悲鳴が漏れる。一日六時間の授業でも辛いのに、その上補習だなんて想像しただけでうんざりする。来年は自分たちも灰色の受験生かと、ふたりは顔を見合わせて溜息をついた。

 ふと晋平のことが脳裏に浮かぶ。彼は受験生だ。しかも、このあたり屈指の進学校に通っている。彼も朝から補習があるのだろうか。それとも早めに登校して、自習しているのかも知れない。いずれにせよ、春菜には知る術がなかった。同じ学校でも他学年のことはわからないのに、ましてや他の学校の情報などわかる筈もないのだ。彼が今まで以上に遠い人に感じられて、春菜はずんと落ち込んだ。
「まあ、うちらはまだ二年生になったばかりだし、七月には修学旅行もあるし、ひとまず高校生活を謳歌しましょー」
 受験のことを考えて春菜が沈んだと思ったのか、愛が明るい口調でとりなす。
「そうだね。わたし北海道はじめてだから、すっごい楽しみ」
 そう言いながらふたりで高校生活最大のイベントに思いを馳せていると、列車は愛の降車駅である桜中央駅に到着した。

「じゃあね、バイバイ」
「うん、また来週」
 閉まったドア越しに春菜は手を振る。笑って手を振り返す愛が、不意に驚いた表情を見せた。そうして春菜に何かを告げようとしている。けれども結局彼女の伝えたいことが何だったのかわからないままに列車は走り出し、ついに視界から消えてしまった。
 どうしたのだろうと春菜が小さくひとりごちると、手にしていた学生鞄の中から振動が伝わってきた。ごそごそと携帯電話を取り出して見ると、愛からのメールだった。
“隣の車両へ移動するべし。進行方向へ!”
 さっぱり意図がわからなかったけれど、有無を言わせない強さを感じて、とりあえず春菜は揺れる車内をゆっくりと移動した。

「あっ」
 隣の車両の扉を開けた瞬間、春菜は思わず息をのんだ。一番手前の扉にもたれかかって参考書を読んでいるのは、紛れもなく彼だった。朝は同じ電車になるけれど、帰りが一緒になったことは数える程しかない。彼女の気配を察知したのだろうか、彼がおもむろに視線を上げた。
 どうしよう。隠れられる場所などないのに、咄嗟に春菜は身を隠す場所を探していた。病欠の線は消えたが、彼が朝の電車を変えた理由はまだわからない。補習があったのかも知れないけれど、春菜の気持ちに気づいて避けている可能性だって残っているのだ。逃げたいのに足は根が生えたように動かなくて、思い切り視線がぶつかった。

「あれ?」
 彼の口が小さく開く。その表情で、彼が春菜のことを覚えていてくれたことがわかった。こんな時にどんな反応をしたら良いのかまったくわからなくて、とりあえず小さく会釈しようとしたその瞬間、一秒早く彼が微笑して軽く頭を下げた。慌てて春菜も、ぶんと頭を下げる。心臓が、どきどきと早鐘を打っている。
 とてもじゃないけれど彼の視界にとどまる勇気はなくて、震える足で彼の脇を通り過ぎると、三つ先の扉の前まで歩いた。ほっと息を吐く。そしてようやく、この車両に足を踏み入れてからまともに呼吸をしていなかったことに気づく。ちらりと振り返ると、彼は何事もなかったかのように参考書に視線を落としていた。
 避けられているのではなかった。彼の微笑を思い出すと、春菜は安堵で力が抜けそうになった。



2011/04/20

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