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図鑑



未来は灰色の空の向こう 1


 ――高校時代とは、無敵である。

 大真面目にそんなことを信じていたのは、四年前の自分だ。高山洋司は母校の正門の前に立つと、青臭い高校生だった自分に苦笑を漏らした。
(どこが無敵なんだか……)
 六月の空には、今にも雨を降らせそうな灰色の雲が低く垂れこめている。そんな鬱陶しい空模様はお構いなしに、スーツ姿の洋司の脇を楽しそうに談笑しながら何人もの生徒たちがすり抜けて行く。後輩たちの姿を眺めながらネクタイに手をやり整えると、洋司はかつての学び舎の中へと大股で歩いて行った。


「朝礼でも校長先生からお話があったが、今日から二週間、教育実習の先生が授業をされる。皆しっかり先生の話を聞くように」
 一限目の授業開始を知らせるチャイムが鳴り終わった時、洋司は三年生の教室にいた。指導教諭である紺野が生徒たちに洋司を紹介すると、好奇心に満ちた目が一斉に向けられる。洋司は緊張を吐き出すようにそっと深呼吸すると、紺野に促されてゆっくりと教卓の前に立った。

「お疲れー。どうだった?」
 昼休みに入ると、後ろの席から佐藤がそう声をかけてきた。今年の教育実習生は総勢十八名で、実習中は視聴覚室が控室として割り当てられている。
「やっぱ緊張するな。塾講のバイトで慣れているつもりだったけど、何だか全然違う」
「だな。あれは絶対、自分の学生時代を知ってる先生が、後ろからじっと見てるというプレッシャーが大きいと思うぞ」
 佐藤の言葉に、洋司は確かになと大きく頷いた。
「でも、紺野先生だったら若いし、色々相談とかしやすそうで良かったじゃん」
「ああ。俺たちが三年の年に新卒で赴任して来たから、当時は先生と言うよりも兄貴みたいな感じだったな」
「まったく羨ましいぜ。俺の担当なんか長谷ゴンだぞ、鬼の長谷ゴン」
 頭を抱える佐藤に、洋司は心から同情した。生活指導の長谷川は、当時から熱血鬼教師として生徒から怖れられてきたのだ。
「俺、一年の時に遅刻しそうになったことがあってさ。東館の裏の塀をこっそり乗り越えようとしたのをたまたま長谷ゴンに見つかって、死ぬ程怒られたんだ。以来ずっと、それがトラウマでさ」
 情けない声を出す佐藤に頑張れと適当な励ましの言葉を返し、洋司はパンの袋を開ける。人ごとだと思いやがってと、佐藤は恨めしそうに洋司を睨んだ。

 昼休みを迎え、教生たちの間に漂っていた緊張感も少し和らいできたような気がする。パンをかじりながら、洋司はちらりと室内を見回した。本館の一階に食堂があるが、殆どの教生は控室である視聴覚室で弁当やパンを食べている。次の授業の準備時間が惜しいのだ。
 授業を受け持つ以上、当然その準備は欠かせない。実習生だからと言って、中途半端な授業で生徒に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。また、授業がなくてもフリーという訳ではなく、他の先生や教生の授業を見学して勉強しなければならないし、それらを含む実習内容を毎日レポートにして最終的には大学へ提出しなければならない。

「それにしても、三年経つとみんな変わるもんだな」
 缶コーヒーを飲みながら、感慨深そうに佐藤が呟いた。
「そうだな。俺、最初話しかけられた時、佐藤のことわからなかったもん」
 しれっと言い放った洋司に、佐藤が失礼な奴だとふてくされた。佐藤は一年で同じクラスだったが、特別に仲が良いわけではなかった。大勢いるクラスメイトのうちのひとり、互いにそんな存在だ。
「まあ、俺らあんまり一緒につるまなかったもんな。二年でクラスが離れてからは全然話すこともなかったし」
 この中には同じクラスにならなかった人が殆どだし、浪人した先輩も混ざっている。それでも教免を取りたいという目的は皆同じで、ここで学んだという共有する思い出もある。たとえ喋ったことがなくても、洋司はここにいる面々に不思議と親近感をおぼえていた。

「そう言えば、この中に高山の三年の時のクラスメイトはいないのか?」
 パンをかじりながら教科書を捲っていた洋司に、佐藤がそう問いかけてくる。
「あ、えっと……」
「おまえ何組だったっけ?」
「五組だ」
 そう答えると、洋司は窓際の席をちらりと見た。
「米山と、同じクラスだったよ」

 米山貴子は、窓際の席で他の女子と机を並べて弁当を食べていた。その様子は、三年前と少しも変わっていない。当時は肩の上の長さだった髪を、肩甲骨のあたりまで伸ばして少し大人っぽくなってはいるが、明るい表情や雰囲気は当時のままだ。
 だから洋司は、あの頃と同じように話しかければ、あの頃と同じように他愛のない話で盛り上がれるのではないだろうかと期待したのだ。けれども実際は、一言挨拶を交わしただけだった。
「久しぶり」
 約三年ぶりの再会を果たし、口から出た言葉はたったそれだけだった。



「口癖なんだと思うけど、説明する時に“たぶん”とか“思う”とかいう曖昧な表現が多すぎるな」
「はい」
「わからない質問があれば正直に、わからないから次回までに調べておくと言え。適当な答は絶対にするなよ。生徒が混乱するからな」
「はい」
 生徒たちが下校した放課後の教室で、洋司は紺野から授業の問題点を指摘されていた。準備はしていたつもりだけれどなかなか思うようにいかなくて、色々と思い知らされる初教壇だった。
「そんなにへこむなよ。初日としては上出来だ」
 盛大に溜息をついた洋司の頭を、紺野が元気づけるように丸めたプリントでぽかりと叩いた。
「へこみますよ。もう少し上手くやれる自信はあったんですけどね」
「無敵だった高山の、初の挫折か?」
 からかうように、紺野がにやりと笑った。

「亘ちゃん、まだ覚えてたの!?」
 うなだれていた洋司が、紺野の言葉にがたんと派手な音をたてて立ち上がった。その瞬間、学生時代の癖で名前呼びしていたことに気づき、慌てて訂正する。
「……じゃなくて、紺野先生」
「指導教諭をちゃん呼びとは、おまえ良い度胸だな」
「や、本当にスミマセン」
 縮こまるように立っている洋司を見上げると、紺野は声をあげて笑った。

「高校時代とは、無敵である」
 まるで四年前を懐かしむように、紺野が洋司を見上げながら呟いた。そこには、もはやからかいの色は含まれていない。
「若いなと思ったよ、はじめて高山の書いた文章を読んだ時」
「実際、若かったですから」
 二十二歳の洋司が、高校時代の自分を自嘲気味に笑った。

 高校三年のはじめての現国の授業で、新任の紺野が洋司たちに課したのは、高校時代とは何かを四百字で書くことだった。洋司は迷いなく、“無敵”だと書いた。
 もちろん、少しウケを狙ったところはある。けれど、半分以上は本気だった。二年の終わり頃から徐々に成績は上がり、学年で一桁の順位をキープできるようになっていた。気のおけない連中と馬鹿なことを言いながら過ごす学校生活は、なかなかに充実していた。そして何より、気になる女の子とは異性で一番仲の良い友達というポジションを勝ち取っていたのだ。
 あの頃の洋司は毎日が楽しくて、高校生活は無敵であると何の疑問も抱かずに信じていた。

「俺は、眩しかったよ。何か色々、勇気づけられた」
 何と答えて良いのかわからず洋司が黙っていると、紺野はゆっくりと立ち上がった。そして教科書とプリントを抱えて扉を開けると、ふと思い出したように振り返る。
「あ、そうだ。今度時間が空いたら授業見に行くと、米山に言っといて」
「え?」
「教え子が教生として戻って来るのは嬉しいし、たとえ教科が違っても気になるものなんだよ」
 戸締りよろしくと言って鍵を投げて寄越すと、紺野は職員室に戻って行った。洋司が三年の時に新卒として赴任して来た紺野にとって、洋司たちは初めて教生として戻って来た教え子となる。しかも当時紺野が受け持ったのは二年生が中心で、教生の中で紺野の授業を受けたのは洋司と貴子だけなのだ。
 廊下に出ると、じっとりとした湿気が纏わりついてくる。窓の外を見ると、空を占領した灰色の雲から細い糸のような雨が降っていた。

 視聴覚室に戻ると、殆どの教生はまだ残っていた。洋司は抱えていた教科書とノートを自分の席に置くと、一瞬躊躇ったあと、窓際の席に向かった。貴子はストレートの黒髪をひとつにまとめ、電子辞書を打ちながらルーズリーフに何やら細かく書き込んでいる。
「あのさ……」
 周りの邪魔にならないように、遠慮がちにトーンを落として声をかける。振り返った貴子は声の主が洋司だとわかると、少し驚いたような表情を見せた。
「ごめん邪魔して。亘ちゃんからの伝言で、今度空いてる時間に授業見に行きたいってさ」
「わたしの?」
 大きな目をより大きく開いて尋ねたあと、貴子は嬉しそうに笑った。
「亘ちゃん、気にかけてくれてるんだね。嬉しいけど、でも緊張するなあ。しっかり準備しないと」

 目の前の笑顔に、洋司は戸惑っていた。自分に笑顔を向けてくれたことに安堵したけれど、それはどこか他人行儀で落胆もしていた。
「そうだ、高山くんの授業、今度見学させてね」
「ああ、俺も見学させてよ」
 三年ぶりに、正確には三年半ぶりに交わした会話はどこかよそよそしく、洋司は目の間の貴子に見えない壁を感じていた。



2011/06/10

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