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03. 夏に吹く風


 昭雄と付き合い始めたのは、大学二年の夏だった。
 同じ学科に在籍し、たまたま履修する授業が重なった為に会話をする機会が増え、いつの間にか一緒に過ごすことが当たり前のようになっていた。そして四年の夏が来る前に、わたしたちは別れた。

 あの日、あの雨の日に、彼は別れ話をするつもりだったようだ。
 わたしが気づかなかっただけで、ずっと機会を探っていたのかもしれない。わたしが自分の就職活動に精一杯で彼のことが見えていなかった時に、色々と自分を頼ってきた後輩に心が動いたそうだ。二年に少し足りない期間を一緒に過ごしたけれど、別れは呆気ないくらいにあっさりとしたものだった。
 悔しくないと言えば、嘘になる。けれど、気持ちは意外なくらいにすっきりとしていた。忙しいふりをして目を逸らしていただけで、近い将来こういう日が来ることをわたしは何となく予感していたのかも知れない。



 やがてやって来た夏は、今年も容赦なく気温を上昇させている。わたしは相変わらずリクルートスーツに身を包み、就職活動を続けていた。あれから変わったことは、肩まであった髪がもう少し伸びたことと、気持ちに少しだけ余裕ができたことだ。もちろん内定がとれない焦りはあるけれど、自分で自分を追いつめる切羽詰まった感覚は、あの日の雨に流されてしまったようだ。
 頑なだったわたしの心を溶かしてくれた張本人とは、あれから何度か会った。いずれも、あの桜の木の下だ。忙しいのか気まぐれなのか、楓が現れるのは午前中だったり夕方だったりまちまちだ。もともとあの場所がお気に入りだったわたしはよく訪れていたのだが、この暑い最中にも、前にも増して足を運ぶようになっていた。

「あ、楓も来てたんだ」
 自動販売機でジュースを買っていつもの場所へ行くと、ベンチに腰かけて本を読む楓の姿があった。
「桜子さんは今日も面接?」
「ううん、今日は筆記だけ」
 彼は卒業後は大学院に進むらしく、就職活動をしていない代わりにいつもむさぼるように本を読んでいた。どんな研究をしているのかは、聞いたことがない。聞いてもわからないというのもあるが、何となく、楓自身のことは何も尋ねていない。
 わたしの気のせいかも知れないが、楓には自分のことは聞いて欲しくなさそうなバリアのようなものを感じるのだ。

 わたしはいつものように彼の隣に腰かけ、スーツのジャケットを脱いで鞄と一緒に傍らに置いた。そして、先程買ったカロリーゼロの炭酸飲料のプルトップを開ける。炎天下の中を歩いて来たので、すっかり喉が渇いている。ごくごくと勢いよく呷ると、喉の奥で炭酸が弾けた。
「こんなに暑いと、スーツ大変だね」
 喉の渇きも潤って、ようやくひと息ついたわたしに楓が言った。
「少しでも太陽の熱を吸収しないように明るめのグレーを選んだけど、まったく意味がないよ。行くまでに汗かいて、面接で冷や汗かいて、夏の就活はもう大変!」
 わたしが大袈裟に顔をしかめてそう言うと、楓は声を出して笑った。

「しかし、本当に暑いね。日差しはきついし、湿度は高いし、蝉は煩いし」
 けれども、そう言う楓はどこまでも涼しげな表情だ。
 灰色を塗り重ねたような重たい空が広がり、毎日うんざりするくらいじめじめと雨が降り続いて、永遠に梅雨が続くのではないかと思えたけれど。だけど唐突に夏はやってきた。ある朝いきなり蝉が鳴きはじめ、灰色の空は嘘のように鮮やかな青に塗りかえられ、どこかへ隠れていた太陽がじりじりと地面を焦がす。
「もう夏はやだ。暑いのやだよ」
 ぎらぎらと照りつける太陽をうんざりしながら眺めるわたしの口から零れたのは、やはり愚痴だった。
「桜子さん、梅雨にも文句言ってたよね」
「だって……。まだ日差しがきついのは我慢する。でも、この湿度が嫌なの」
 文句ばかりのわたしに楓は苦笑いを浮かべているけれど、わたしは気にせず続けた。
「まあ確かに、この暑さはさすがに辟易するけどね」
 高い位置で照りつける太陽を恨めしそうに見上げると、楓がひとつ溜息をつく。
「じゃあ、どうして楓はわざわざこんな暑いところで本読んでるの?」
 わたしはずっと感じていた疑問を口にした。

 楓は、少し変わっている。
 すぐ後ろに図書館があるのに、冷房が効いた屋内ではなく、決まってこのベンチで本を読んでいるのだ。
 ベンチの上には庇が出ているので直射日光を浴びることはないが、いくら日陰になっているとはいえ七月だから暑いものは暑い。

「桜子さんこそ、どうしてここに来るの?」
 けれども、逆に問い返されてしまった。そう言えば、わたしだって涼しい学食で休憩すれば良いのに、何故いつもわざわざこの場所に来るのだろう?
 この桜が好きだから。誰もいないから。静かだから。落ち着くから。
 どれも正解だけど、どれも一番の理由ではない。答を求めるようにそっと見上げると、桜の葉は前回訪れた時よりも更に緑が濃くなっている気がした。
 きっと、いつも違う景色を見せてくれるからだ。だからわたしは、入学後すぐにこの場所を見つけて以来、暑くても寒くても気づけば足を運んでいた。暑い寒いと文句を言いながらも、桜が蕾をつけ、花を咲かせ、葉をつけやがて散ってゆく姿を、季節の移ろいを、わたしはいつも眺めていたのだ。
 ちらりと楓を見やる。不意に、生温かい風が首筋を撫でる。
 ずっと停滞したままの熱せられた空気が動くことで、ほんの少しだけ涼を感じた。
「だから、外が良いんだよ」
 楓が、まるでひとり言のように呟く。
 “だから”が何を接続しているのか彼は説明しなかったけれど、きっとあの風を指しているのだろうと確信して、わたしは黙って頷いた。



2011/02/16

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