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04. 無自覚な距離


 窓の外には呆れるくらいの青い空が広がり、蝉が狂ったように鳴いている。
 毎日飽きることなく太陽が照りつけ、猛暑日は何日続いているのだろうか。テレビで気象予報士が決まり文句のように今日も猛暑日でしたと伝えているが、数えるとうんざりするので日数は記憶していない。
 夏だった。清々しいくらい真夏だった。



 わたしは冷房の効いた図書館で、きょろきょろと人を探していた。
 カウンターを通り過ぎて書架を抜け、自習用の机が配されている奥のスペースへと向かう。大きな窓の向こう側には、濃い緑の葉をつけた桜の木が立っていた。窓ガラスは厚い筈なのに、微かに蝉の声が聞こえる。
 今日もあの桜の下で、彼は涼しげな顔をして本を読んでいるのだろうか。そう思いながらわたしが窓に近寄ろうとした瞬間、背後から聞き慣れた声で名前を呼ばれた。
「久しぶりだね、サク。元気だった?」
「何とか生きてたよ。亜矢は?」
「わたしもかろうじて生きてた」
 ふたり顔を見合わせて笑う。親友の渡部亜矢に会うのは、一ヶ月ぶりのことだった。メールのやりとりはしているものの、互いに就職活動やバイトで忙しくなかなか会えない。話したいことがたくさんあって、とりあえず学食へ移動しようと亜矢が提案した。

「亜矢は学校に来たの、久しぶりなんじゃない?」
 学内に三ヶ所ある食堂も、夏休みは一ヶ所しかオープンしていない。そこすらも、普段の喧騒が嘘のように学生はまばらだ。飲み物を注文したわたしたちは、窓際の席を陣取った。
「うん、ちょっと学生課に用事があってね。ついでに図書館で卒論の資料集めてた。サクも来てるかなと思ってメールしたんだけど、ちょうど登校してて良かったよ」
 亜矢はグラスの半分くらいまで一気にオレンジジュースを飲むと、ほっとひと息ついて笑った。
「家のパソコンが壊れちゃってさ、最近は毎日学校にメールチェックしに来てるの」
「え、マジで? 就活中にパソコン壊れたら致命的じゃない」
「そうだよ。大学の近くにアパートを借りていて、本当に良かったわ」
「確かに。大学遠かったら交通費も馬鹿にならないし、かと言ってネカフェもお金かかるしね」

 ひとり暮らしを始める際に、父が使っていたパソコンを実家から持って来たのだが、寿命なのか去年から動作が鈍くなっていた。初期化してもあまり効果はなく、ついに先日起動しなくなってしまったのだ。
 卒論のデータなどはすべてバックアップをとっていたから問題はない。けれど、企業を探すのもエントリーするのも結果の連絡を受けるのも、就職活動はすべてパソコンに頼っているので、亜矢の言う通りパソコンが使えなければ致命的だ。修理を依頼してみたものの費用は買い替えとあまり変わらず、結局諦めた。毎月仕送りをしてくれている実家にこれ以上の負担は頼みづらく、就活の為にバイトの日数を減らしているので自力で購入することも難しい。仕方なく自転車で十五分の道程を、毎日汗をかきながら大学のコンピュータールームに通っていた。
 もっともわたしは、亜矢が同情してくれる程は、ここへ来ることを大変だとは思っていなかったのだけれど。

 それからわたしたちは、互いの就活の状況を報告し合った。
 自分がやらかした失敗談やら、どこの会社の筆記試験は難問だったとか圧迫面接だったとか、グループ面接で一緒になった他大学の学生の話とか。わたしたちは色んなことを思いつくまま話して、辛いことをすべて笑いに変えていった。同じ境遇にいる人と自分が抱える感情を共有できることが、単純に嬉しかった。
 どれくらい語り合っていただろうか。やがて喋り疲れて、わたしは残り僅かになってしまったアイスティーを口にする。氷が溶けかかって、すっかり水っぽくなっていた。
「何だか少し、安心した」
 ふたりの間に沈黙が流れたあと、呟くように亜矢が言った。ストロー咥えたまま、わたしは何のことだろうと彼女を見やった。

「ちょっと、そんなきょとんとした顔しないでよ」
 わたしの表情を見て、亜矢は脱力したように溜息をついた。
「まだ落ち込んでいたらどうしようとか、どうやって励まそうとか、ちょっと色々考えていたのに」
 ぶちぶちと悪態をつく亜矢に、わたしの心はじんわりと温かくなった。
「ああ、あのことか」
「あのことかって、あんたね。もう、心配して損した!」
「いやん、怒らないで。亜矢ちゃんが慰めてくれたから吹っ切れたんじゃない」
 昭雄の心移りを知ったあの雨の日、楓のおかげでわたしの気持ちは落ち着いていた。落ち着いてはいたけれど、やはり裏切られたという気持ちは消えないし、哀しいとか憎いとかいう気持ちもある。
 それを全部受け止めてくれたのが、亜矢だった。メールを送ったらすぐに行くからと返信があり、一時間後にはお泊まりセットを持ってうちの狭い部屋に来てくれたのだ。
 最後にきちんと昭雄と向き合えたのは、最後まで冷静でいられたのは、楓と亜矢のおかげだとわたしは心の中で感謝している。

「ねえ、亜矢」
 僅かな沈黙のあと、わたしは未だむくれている友人の名を呼んだ。迷った末に、ずっと心の中で感じていたことを口にする。
「わたしね、今思えば昭雄とちゃんと恋愛してなかったんだと思う」
 唐突なわたしの告白に、少し驚いたように亜矢が見つめ返してきた。
「恋を、してみたかっただけなんだと思う。そこに気の合う昭雄が現れて、恋だと勘違いしてしまったんじゃないかと思うの」
 確かに別れた直後は傷ついていたけれど、あれから自分が案外平然と立ち直ったことに気づいた。そして、きっと自分は昭雄に恋してなかったんだと思い至る。要するに、付き合うということに憧れがあっただけなのだ。
 手を繋いでデートすることに憧れがあったし、キスをするとか、その先の行為にも人並みに興味はあった。いやもしかすると、周りの友達にどんどん彼氏ができて幸せそうで、ひとり取り残されたくなかったのかも知れない。
 この人以外にわたしを好きになってくれる人は現れない。そんな予感がして、差し出された手をとったのだ。キスやセックスに対して特に嫌悪感はなかったけれど、のめり込むような昂揚感もなかった。一緒にいると楽しくて、抱きしめられると嬉しかったけれど、ただそれだけだった。
 わたしのそんな冷めた部分を、昭雄は感じ取っていたのかも知れない。だからこの別れは、きっとわたしが招いたものなのだ。

「ふられた女の、負け惜しみだと思う?」
「ふたりにしかわからないこともあるからね」
 窺うように見つめるわたしを、亜矢は冷静に突き放した。
「でもね、理屈じゃないと思うよ。付き合っている時に好きだと感じていたなら、それは確かに恋だったんだと思う。恋愛できないとか冷めているとか、サクは色々と考え過ぎなんだよ」
 三年半の付き合いで、わたしの性格を読み切った亜矢がぴしりと言い放つ。
「そうかな。……そうだね」
 幸せな時間は確かに存在していたのだから、敢えて否定する必要はない。亜矢の言葉で少し気が楽になったわたしは、やがてそう思い直した。

 それからわたしたちは何となく黙り込み、ぼんやりと外を眺めていた。太陽は真上からぎらぎらと照りつけ、校舎や木々から伸びる影は濃く短い。光と影のコントラストが鮮やかで、それがいっそう日差しの強さを物語っていた。
 暑そうだなあと帰り道を想像してうんざりしていると、学食の脇を抜けて図書館へ向かう人物の姿が目に留まった。
「あ……」
 思わず、声が漏れる。すると、まるでわたしの声が聞こえたかのように、その人物が何気なくこちらへ視線を動かした。ガラス越しに、目と目が合う。遠慮がちに手を振ると、彼は微笑んで図書館の方へと去って行った。

「今の、誰?」
 そう問われて恐る恐る亜矢を見やると、興味津々の顔がこちらに向けられていた。食い入るような眼に、わたしは思わず後ろへ身じろいだ。
「何のことかな」
「とぼけるな! 今の誰?」
 へらっと笑って誤魔化すと、もう一度同じ質問をされた。
「えっと、水森楓くん?」
「何で疑問形なの?」
「何となく」
「同い年? それとも後輩?」
「同級生」
「うちらと同じ学科じゃないよね? 何学科?」
「たぶん、国文」
「たぶんって何?」
「わたしの予想」
「もう、予想って何なのよ!?」
 矢継ぎ早に質問していた亜矢だったが、わたしの曖昧な答に呆れたように頭を抱えた。

「だって、名前くらいしか知らないんだもん」
「そんなわけないでしょう。手を振るくらいに親しげだったじゃん」
 結局わたしは亜矢の誘導尋問により、春の出会いからのことを話していた。もっとも、いつも他愛のない話をしていただけで、大した情報もないのだけれど。
「それだけ何度も会っていて、知ってる情報は名前だけって。メアドくらい交換したらいいじゃん。恋を忘れるには次の恋だよ!」
「もう、そんなんじゃないよ」
 力説する亜矢に、わたしは苦笑いを浮かべた。
「サクは奥手だからなあ。」
 自分ではそんなつもりはないのだけれど、友人たち曰く、わたしには壁があるらしい。恐らく人との距離の取り方が普通よりも広く、他人に踏み込まない代わりに自分のテリトリーにもなかなか招き入れないというのが亜矢の所見だ。
 けれど、楓は違った。彼が纏う雰囲気がとても居心地が良く、自分の隣に彼がいることはとても自然なことに感じられた。
 ただし、彼とはこれ以上親しくなることはないだろうと思う。何となくだけれど、楓がわたしとの距離を一定に保ちたがっているように感じられるのだ。

「なるほどね。毎日暑い中を登校しないといけないわりに、あまり面倒じゃなさそうなのはそんな理由があったからか」
 ひとりごとのように、けれど完全にひとりごとではない声のボリュームで亜矢が言った。
「だから違うって」
「はいはい」
 うんざりしたように否定したわたしに、にやにや笑いながら亜矢は適当な相槌を返す。

「失恋を引きずらなかったのはそれが恋ではなかったわけじゃなく、新しい恋が既に始まっていたからなんだね」
 今度はひとりごとの声のボリュームで小さく呟いた亜矢の台詞は、わたしの耳には届いていなかった。



2011/02/21

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