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02. 癒しの雨


 六月の空気はじっとりと重い。
 灰色のスーツを身に纏ったわたしは灰色の空を見上げ、今日何度目かの溜息をついた。マスコミは毎日のように景気の悪さを報じ、就職内定率の低下を憂いている。けれど、そんな状況が好転する気配はまったくない。新卒採用を見送る企業も多く、採用したとしても若干名だ。そこへ学生たちが大挙して押し寄せるのだから、内定を貰えることの方が奇跡に思える。
 とりあえず安心したいという思いから内定を求め、わたしは手当たり次第に企業にエントリーしていた。

 大きなビルから外へ出ると、重く垂れこめた雲はまだ大粒の雨を降らせ続けている。透明のビニール傘を開くと、わたしは地下鉄の駅に向かって歩き出した。
 先程受けた二次面接では、かなりアピールできたと思う。面接官の反応も良く、色々突っ込んで質問してもらえた。けれど、これまでも手ごたえを感じては落ちることを繰り返しているのだ。期待すれば落ちた時のショックが倍増するので、わたしはとりあえず明日受ける別の企業の面接に気持ちを切り替えようと試みた。

 たっぷりと湿気を含んだ空気は重く、スーツまで湿っているような気がする。梅雨は嫌いだと、わたしは心の中で悪態をついた。じっとりとした蒸し暑さが体に纏わりついて、とにかく不快なのだ。
 早く梅雨が終わって、夏が過ぎて、秋になればいいのに。何もかもが鮮やかに染まる、秋になればいいのに。
 苛々を吹き飛ばすように雨の中を速足で歩きながら、ふとわたしはひとりの人物を思い出した。
 ――水森楓。
 春のわたしとは反対の、秋の人。

 はじめて出会ったあの日以来、一度もキャンパス内で楓の姿を見ることはなかった。
 殆どの学生は三年までに必要な単位を稼いでおり、四年生になると数える程しか授業を受けることはない。わたしも必須単位は既に取っているので、気分転換に興味のある講義を数コマと、あとはゼミを履修しているだけだ。と言いつつも、就職活動に追われてそれすらも殆ど受講できていないのだけれど……。
 彼が就活中なのかは不明だが、四年生は大学に来ることが少なく、楓だけでなく他の友達ともここ数日会うことができないでいた。
 きっともう、顔を合わせることはないだろう。偶然出会って、僅かな時間に言葉を交わしただけの人。現に今日まで忙しい日々に追い立てられ、その存在を忘れていたのだから。


 不意に、鞄の中で携帯が震える。歩道の端に寄り、わたしは携帯を取り出した。
「もしもし」
『俺。さっきからずっと電話してたんだけど』
 携帯電話の向こうから、不機嫌な声が聞こえた。
「ごめん。面接中で、今終わったとこ」
 会社を出てすぐに切っていた携帯の電源をオンにしたのだが、先日受けた企業からの連絡はなく、着信履歴は広田昭雄のものばかりだった。家に帰ってからかけ直そうと思ってそのままにしていたのだが、待ちくたびれたのか、彼はご機嫌斜めのようだ。

『で、今度こそ決まりそうか?』
「そんなの、面接官に聞いてよ!」
 彼の無神経な言葉に、思わず尖った声が出た。
 同級生の昭雄は、早々に内定を貰っていた。短い期間とはいえ自らも就職活動を行っていたのだから、この超氷河期の厳しさを知ってはいるものの、なかなか内定をとれないわたしの不安や苛立ちを本当には理解できていない。彼に悪気がないのはわかっているのだが、わたしの精神状態もあまり良くないので、どうしても過剰に反応してしまうのだ。

『何だよ、その言い方』
「……ごめん」
 電話の向こう側で、わざとらしく溜息を吐く音が聞こえる。
『あのさ、今晩会えないか』
 苛立ちを抑えるように、作ったような穏やかな声で昭雄が言った。
「ごめん、明日も面接なの。朝早いから、次の日曜じゃダメかな?」
 わたしの口から出たのは、予想以上に疲れた声だった。
『そうか。日曜は俺がバイトだから無理だわ。じゃあ、また連絡する』
「ごめん」
 もう一度謝ると、ぷつんと電話が切れた。ツーツーと漏れる電子音を、わたしはぼんやりと聞いていた。



 湿気がむっとこもっているであろう自分の狭い部屋へ帰る気がせず、特に用事はなかったけれど、気づけばわたしは大学の門をくぐっていた。とりあえず就職課に顔を出そうと向かっている途中で、ボールペンのインクが切れていたことを思い出し、まずは大学生協に寄ることにする。  薄暗い外とは対照的に蛍光灯が明るく照らしている店内には、複数の学生がいた。自動ドアが開く寸前、無意識に視線を動かしたその瞬間、ガラスの向こう側に見慣れた横顔が目についた。
 思わず足が止まる。状況を理解するのに数秒を要し、やがて我に返ると、気づかれないように自動ドアからそっと離れた。 そして反射的に身を翻し校舎の外へ出ると、わたしは雨の中、かつかつとヒールの音をたてて小走りで図書館の方へ向かっていた。

 自動ドアの向こうに見えたのは、昭雄の笑顔だった。傍らには小柄な女性がいて、彼の腕に触れながら何やら楽しそうに話している。
 わたしは、彼女を知っていた。肩までのふわふわの髪にくりくりとした猫のような瞳のあの子は、彼のサークルの後輩だ。昭雄とふたりで学食にいた時に、何度か会ったことがある。一度昭雄から軽く紹介されたが、愛想良く笑う彼女は同性のわたしから見てもとても好印象だった。だから昭雄の彼女として、嫉妬じみた視線を投げかけられて不快に感じた記憶もない。だけどそれは、わたしが鈍感だっただけなのか、それともわたしが就活に忙殺されている間に何かが変わってしまったのか……。

 気づけばわたしは、あの桜の木の下に立っていた。
 面接が終わった頃は大粒だった雨も、今は霧雨に変わっている。わたしは傘もささずに、まるで全身で雨を受けるかのように灰色の空に向かって枝を伸ばす桜の木を見上げた。恋人が笑うのを見たのはいつ以来だったかと、わたしは昭雄が後輩に向けた笑顔を思い出しながら、ぼんやりとそう思った。




「桜子、さん?」
 不意に、背後から名前を呼ばれた。遠慮がちにかけられたその声に、一瞬びくりと肩を震わせて振り向くと、春に一度だけ言葉を交わしたその人物が立っていた。
「かえ、で…?」
 図書館で借りたのだろう。分厚い本を二冊抱えた楓が、少し驚いたようにこちらを見ていた。
「久しぶりだね」
 そう言いながら、頑張って口角を上げようと試みる。けれど、昼間にふと思い浮かべていた人物に会えて嬉しい筈なのに、わたしは上手く笑えなかった。
「本当だね。桜子さんは、元気だった?」
「うん、元気だったよ。それより、名前呼び捨てで良いと言ったのに」
「何となく、桜子さんの方が呼びやすい」
 そう言った楓の声はとても優しくて、わたしもそう呼ばれる方が嬉しい気がした。

 わたしはそのままベンチにすとんと腰かけた。屋根があるので濡れてはいないが、木製のベンチは湿気を含んで少し湿っている気がする。 楓も、わたしの隣に腰を下ろした。
 わたしは、ただ黙っていた。座った途端に、疲労感が沸き上がってくる。むかついて、悔しくて、哀しくて、切なくて……。
 色んな負の感情がどろどろと混ざり合って、心も体も鉛のように重い。ぷつりと気持ちの糸が切れてしまいそうだった。
 どうでもいい。昭雄の裏切りも内定が取れないことも、色んな事がもうどうでもよく思えてきた。

「面接だったの?」
 どのくらい沈黙が続いただろうか。不意に、楓が口を開いた。グレーのリクルートスーツに身を包んだわたしは、どこからどう見ても就職活動中だ。
「うん。今日は二次面接だった」
「そっか」
 わたしの疲れ果てた情けない顔に気づいている筈なのに、彼はひとつ相槌だけをうつ。
「何だかもう、疲れたな……」
 思わず弱音が零れた。
「うん」
 けれどもやはり彼は、小さく頷くだけだった。励ましもしない、慰めもしない。
 きっと今励まされても、頑張ってるじゃないと反発しそうだった。慰められても、あなたに何がわかるのと言い返してしまいそうだった。そんな自覚があるくらい、わたしの心はささくれ立っていた。
 だから、無責任な言葉をかけない彼の真面目さが嬉しい筈なのに、それでも優しい言葉を欲しがるわたしは相当に弱っていた。

「梅雨なんか嫌い」
 だからわたしは、尚も愚痴を吐いた。
「どうして?」
 わたしのひとりごとのような呟きに、彼はようやく反応した。
「雨ばかりで憂鬱になるし、蒸し暑いとべたべたして不快だし、湿度が高くて髪の毛はまとまらないし」
 わたしはぽつりぽつりと、梅雨が嫌いな理由を挙げ連ねてゆく。
「雨の日は電車が混むし、バスのダイヤは乱れるし、満員の車内で濡れた傘が邪魔だし、歩くと水溜りが跳ねてパンストがすぐに汚れるし」
 本当は、ただネガティブな言葉を吐きたかっただけなのだ。 負の感情が渦巻いていて、たぶん誰かを、昭雄を、徹底的に責めて罵って喚いて、泣き叫んでやりたかった。
 けれどもそれはあまりにも惨めでみっともなくて、だからわたしは、代わりに梅雨の嫌なところを挙げていったのだ。

「でもさ、変化がある方が退屈しないでいいよ」
 やがて楓は、穏やかに言った。
「変化なんていらないよ。快適ならば、ずっとそれでいい」
 わたしは即座に否定した。感動や興奮が大きく心を動かすことはなくとも、穏やかな幸せを感じられるならそれでいい。憂鬱な梅雨も、激しい夏の暑さも、厳しい冬の寒さもいらない。柔らかな春や穏やかな秋が続いた方が、ずっと良いに決まっているのだ。
「毎日が同じなら、大切なことをきっと忘れてしまうんだよ」
「忘れる?」
「夏があるから秋の涼しさがより爽やかで、冬があるから春が何よりも待ち遠しいんだ」
 わたしは、黙って楓を見つめていた。綺麗事だと思った。無性に苛々して、言い負かしてやりたい衝動にかられる。わたしは、彼を否定する言葉を探していた。

「それにね、たまには泣かないとダメなんだよ」
 予想もしない言葉に、一瞬、虚を突かれる。真意を探るようなわたしの目を見つめ返しながら微笑むと、楓は優しく言った。
「いつも良い天気ばかりを求めるのは大変だろう? たまには雨が降ったって、風が吹いたって、少しくらいなら荒れてもいいんじゃない?」
「……」
 不覚にも、涙が零れそうになった。さっきまでの意地悪な気持ちが、嘘のように消え去っていた。
「うん……」
 わたしは、ただ頷くことしかできなかった。
 ずっと不快でしかなかった雨が、今は心を潤す優しい雨になっていた。



2011/02/11

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