中学の卒業式は、みぞれが降っていた。
すぐ傍まで近づいていると思っていた春は、気まぐれにもどこかへ行ってしまったようだ。三月だというのに、職員室の中ではガスストーブが赤々と燃えていた。
「本当に良かったのか?」
目の前の椅子にどかりと腰掛けた担任の小宮から、こう問われるのは何度目だろうか。繰り返し投げかけられる質問に対し、いつもと同じ答を返した。
「はい。卒業すればみんな進路は分かれますから」
「そうだか……」
四月からは皆それぞれの道を歩き始め、新しい世界が待っている。もちろん友達同士で同じ高校へ通う人たちもいるだろうが、ひとりで新しい環境に飛び込む者だっている。
たまたま聡の場合は、その場所が東京であるというだけの話だ。仲の良かった友人たちに進路を隠すことはしないが、都会の高校に進むということをクラスメイトに敢えて公表する必要はない。
別にクラス全員がそれぞれの進路を把握しているわけではないし、卒業までは一緒なのだからそれで良いと聡は考えていた。
明日、聡たち一家はこの町を離れる。
聡の父親の転勤が決まったのは、冬のはじめのことだった。詳しいことは分からないがどうやら栄転らしく、海に近い家が気に入っていた母でさえも手放しで喜んでいた。
タイミングが良いことに聡も三歳年下の弟もそれぞれ春には学校を卒業するので、父だけが一足先に東京での生活を始め、聡たちの卒業を待って家族全員が引っ越すことが決まっていた。
子供である聡に、当然のことながら拒否権は無かった。別にどうしても引っ越しが嫌というわけではない。父が出世することは息子として誇らしいし、離れて暮らしたいと思っているわけではない。
けれども、生まれてから十五年間生きてきたこの町にはそれなりに思い出があるし、思い入れもあった。
「なあ、筒井。またいつでも遊びに来いよ。もう高校生なんだから、その気になればひとりでもどこにだって行けるだろう?」
小宮の担当科目は体育で、世間が持つイメージを裏切らず彼も熱血だった。たまに暑苦しくて吹き出しそうになることはあったけれど、聡はこの教師のことが嫌いではなかった。
「はい」
「中学生と高校生、そして大人では行動範囲が違う。今は一生会えない気がしても、意外と世界は狭いぞ」
そう言うと、彼は白い歯を見せてにやりと笑った。
もう会えないと言葉にするよりも、卒業式という旅立ちの儀式に紛れて別れよう。
だから聡は近しい人間にしか引越して行くことを告げなかったのだが、変えようのない現実に対する少年のささやかな抵抗も、大人には見抜かれていたのだろうか。
「ありがとうございます」
「東京でも、これまで通り頑張れよ」
真っ直ぐに恩師の目を見つめて頭を垂れると、彼は気合いを入れるように聡の肩を叩いた。力のこもった激励は正直少し痛かったが、これで生まれ育った町に対する未練は断てるような気がした。
一礼して、聡は職員室をあとにする。古びた扉を開けた瞬間、こちらを見ていた瞳とぶつかった。
何故、彼女が此処にいるのだろうか……。
一瞬固まりかけた思考の片隅で、彼女の親友が職員室にいたことを思い出す。恐らく親友が出てきたと思ったのだろう。驚いた表情を見せる彼女をよそに、聡はひとり納得していた。
ガスストーブで暖められた職員室とは対照的に、薄暗い廊下には冷気が広がっていた。浅い呼吸でも、空気が微かに白く染まる。誰もいない廊下で予想外の人物と対峙し、聡は内心戸惑っていた。
「またね」
やがて口を開いたのは、果恵の方だった。
「うん、また」
もう二度と、会うことはないけれどと心の中で呟く。先程、意外と世界は狭いと小宮は言った。
もしそうだとして、友人とは努力次第で繋がり続けることはできたとしても、ただのクラスメイトである彼女に会うのは間違いなく今日が最後だろう。
―― この一年、ずっと君のことを見つめていたよ。
不意に感傷的な気持ちが込み上げてくる。
言える筈のない言葉を飲み込むと、聡は穏やかに微笑んだ。友人を待つ果恵を残し、やがてゆっくりと昇降口に向かう。
そして翌日東京へと越して行った聡が、母校を、生まれ育った海辺の小さな町を、再び訪れることはなかった。
* * * * * * * * *
目覚める前のまどろみを妨げたのは、無機質な電子音だった。
一瞬、仕事に行く準備をしなければと焦ったものの、その音はアラームに設定しているものとは違う。徐々に覚醒してきた頭で電話だと理解した聡は、枕元にあるスマートフォンに手を伸ばした。
「もしもし?」
「あら、寝てたの? いくら日曜日だからと言って、いつまでもだらだらしていたらダメよ」
聡の声が寝起きのそれだったのだろう。第一声から説教だ。ベッドの上でのそりと起き上った聡は、寝ぐせのついた頭を掻きながら口を挟むこともできず黙って聞いていた。
電話の主は母親で、三十歳を過ぎたというのにいつまでも頭が上がらない。
「で、何の用?」
ひとしきり言いたいことを並べ終えた母に、すかさず聡が問いかける。タイミングを逃せば、話好きの母に会話の主導権を握られたまま延々と続く可能性があるのだ。
「もう、お兄ちゃんは相変わらず素っ気ないわね」
筒井家では母と弟がおしゃべりで、父と兄である聡は聞き役に回ることが多い。
「何かあったの?」
「実はね、学が結婚するって言うの」
聞いてる、と聡は小さく呟いた。学とは聡の三歳年下の弟だ。長年付き合っていた彼女とようやく結婚を決めたと本人から電話があったのは、昨日の夜のことだ。
「それでね、そのお嬢さんが来週の日曜日に挨拶に見えるのよ。予定がないなら、聡も同席してもらえるかしら」
「父さんと母さんだけの方が良いんじゃないのか? 人数が増えると、彼女が緊張するだろう」
「緊張は一度に済ませたいという、先方のご希望よ」
そういうことなら異論はない。恋人の家族に結婚の挨拶に行く緊張感は聡も経験済みだし、彼女の希望は理解できた。
「分かった。じゃあ、予定を空けておくよ」
社会人になったら三年以内に家を出ろ。それが筒井家の家訓だ。良い意味で両親はドライで、親の責任は大学を卒業させるまでだと思っている節がある。
だからいつまでも息子たちが実家で暮らすことを良しとせず、就職すると早々に自立を促されてきた。お父さんとお母さんで新婚生活をやり直すから、お邪魔虫は早く出て行ってね。
それが、いつまでも夫婦仲の良い母の口癖だった。
「学の彼女、年上なんですって」
「ふたつ上、俺よりもひとつ下だろう?」
「あら、知ってたの?」
両親の希望通り、息子たちは就職するとさして多くない給料をやりくりし、やがてそれぞれがひとり暮らしを始めた。
子供の頃から兄弟仲は悪くなかったと思うが、離れて暮らすようになってからはたまに外で飲むようになった。筒井家は酒に強い家系で、弟もまた酒豪だ。聡が結婚を決めた時、弟も結婚を考えていると言っていた。
兄貴も覚悟を決めたことだし、俺もそろそろプロポーズしようかな。酒を酌み交わしながらそう語っていたのは、もう二年以上前のことだ。
その後も順調に付き合いを続けていた弟が、あの時の言葉とは裏腹になかなか結婚しようとしないのは、破局した兄への配慮だろう。聡はずっと、それが気がかりだった。
一度だけそれとなく、自分に気兼ねせずに先に行けよと言ったことがある。その時は分かっているよと笑っていたが、ようやく決意してくれて、ずっと罪悪感を感じていた聡の心は少しだけ軽くなった。
「そう言えば、堤も来月結婚するよ」
「あらまあ、来月!? そんな大切なこと、どうしてお母さんに教えてくれないのよ」
東京での生活にもすっかり慣れた大学生の聡が、中学時代のクラスメイトである堤に再会したのは、引越業者のアルバイトで同じ家に派遣された時のことだった。
中学の頃は深く話したことはなかったが、昔を知る存在はどこか気恥かしくて懐かしく、短期のアルバイト期間を終えても頻繁に会うようになっていた。
ひとり暮らしをしている彼はまともな食事をとっておらず、一度家に連れて帰ったら、口の上手い彼のことをすっかり母は気に入ってしまったのだ。
「来月の連休に式を挙げるらしい。招待してもらったから、お祝いに行ってくる」
「どんなお嫁さんをもらうのかしら?」
「彼女も俺たちのクラスメイトだよ」
弟の結婚話よりも喜んでいるのではないかというくらい、母はうきうきと声を弾ませ尋ねてきた。けれども同級生という答えは予想外だったようで、興奮気味に更に声のトーンを上げてくる。
「じゃあ、聡は知っているのね。お母さんも知っている子かしら?」
「たぶん母さんは知らないと思うよ」
あまり男子と関わらず、クラスの中でも比較的大人しかった果恵たちのグループだが、その中で郁子だけは性別を問わず誰にでも砕けていた。それでも聡とは関わりはなく、小学校も違うので母も彼女のことは知らないだろう。
けれども‘たぶん’と答えたのは、母親同士のネットワークが予想外のところで繋がっていることがあるからだ。
「名前は何て言うの?」
「柴田郁子さん」
「うーん、知らないなあ。あとでお兄ちゃんの卒業アルバム出して確認するわ」
そこまでするかと思いながら、聡は思わず吹き出した。
それから他愛のない話をして、来週遅れないようにねと何度も念を押されて電話は切れた。通話を終えたスマートフォンをベッドの上に放ると、聡は立ち上がって伸びをした。
日曜日の街は、梅雨空にも関わらず人が溢れていた。
母からの電話があったのは正午前で、さすがにそれから二度寝するわけにもいかず、軽く食事をとった聡は外に出た。マンションのエントランス付近には白い花が咲いていて、甘ったるい匂いを放っている。
雨は先程上がったようで、傘を片手に聡は駅へと向かった。
電車を降りた聡が向かったのは、広大な売り場面積を誇る駅前の書店だった。確か先日、聡の好きな作家の新刊が出た筈だ。
小説と経済書のコーナーで時間をかけてじっくり本を選ぶと、最後に雑誌コーナーに立ち寄って店を出た。
今頃母は、聡の卒業アルバムを開いているのだろうか。駅から少し離れたコーヒーショップで、アイスコーヒーを飲みながら聡はぼんやりと思った。
母のことだから、本当にクローゼットの奥からアルバムを引っ張り出して、堤の妻となる郁子の顔を確認しているかも知れない。だとすれば、その隣で微笑んでいる少女時代の果恵も母の視界に入るだろうか。
結局母は先程の電話で、聡に対しては何も言わなかった。
聡が二十代の頃は、早く結婚しなさいよとか早く孫を抱っこしたいわねとか、冗談とも本気ともつかない発言を繰り返していた。
そして聡が婚約したときは心から喜び、自分が結婚する気なのではと周りが揶揄するくらいのはしゃぎようだった。
けれども今は、彼女くらいいないのとかずっとひとりでいるつもりなのとか、これまで実家に帰るたびに言われてきた軽口の類は一切言われなくなってしまったのだ。
自分にも彼女ができたんだ。そう告げることができたなら、どれ程母は喜ぶだろうか。堤の奥さんの親友なんだ。そう言えば、通話状態のまま卒業アルバムを引っ張り出してきたかもしれない。
けれども聡は、果恵の存在を家族に告げることはできなかった。一緒になれる確証もないのに、あの時のように彼らをぬか喜びさせるわけにはいかない。
周囲がどんどんと大きな決断を下してゆく中で、聡は果恵との今後の関係を一歩進める勇気を、未だ持ち合わせていなかった。