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ぎ出すカエル



 番外編  カエルと帰る 1


 筒井聡は昔から青が好きだ。抜けるような空の青も好きだけれど、それよりも深く澄んだ海の青。
 中学を卒業するまで住んでいたあの小さな町の、穏やかな海の色が何よりも好きだった。



 聡が勤める住吉メディカルは、オフィス街の一角に本社ビルを構えている。
「で、準備は進んでるの?」
 昼休みの社員食堂では、午前中の業務から解放された従業員たちがリラックスした表情で食事をとっていた。 ひとり黙々と日替わりランチを食べている聡の耳には、後ろのテーブルに座っている女子社員たちの弾んだ会話が否が応でも入ってくる。
「うん、先週末にやっと新居を決めてきた。散々迷ったけど、やっぱり一番最初に見た南町の方で」
「なんだ、何十件も回って結局最初に見た家に戻ったの?」
「彼は駅が近い方が良いみたいだったけど、キッチンが広くて収納も充実していたから、結局わたしが希望を押し通しちゃった」
 本社は多くの従業員を抱えており、聡が仕事上で関わるのはほんの一部の人間だ。後ろの席で楽しそうに会話を繰り広げているのは、聡の知らない顔だった。
「うわあ、結婚後のパワーバランスが既に確定しているわね」
「憧れの新婚生活だよ。結婚式と新居には、できるだけ妥協したくないじゃん」
 間もなく結婚を控え、準備に奔走しているのだろう。可愛い家具や食器も探さなければと張り切る彼女はきっと忙しい筈なのに、その声からは幸せなオーラが漂っている。 やはり女性は新婚生活に対するこだわりや憧れが強いのだろうか。聞き役に回っていた女子社員も彼女の言葉に同意しながら、おすすめの雑貨店の名前を挙げていた。

 どこか気持ちが憂鬱なのは、青が足りないせいだろう。箸を置いて溜息をひとつつくと、聡は窓の外に広がる景色を見やった。そこには鉛色の雲が重く垂れこめており、もう一週間以上晴れた空を見ていない。
「陰気臭い顔してるなあ。そんなに今日の日替わりはまずかったのか?」
 頭上から声をかけられたと思ったら、先程空いたばかりの隣の席にラーメンとチャーハンがのったトレーが乱暴に置かれた。
「神埼?」
「よう、久しぶり」
 どかりと隣に腰を下ろしたのは、聡と同期入社の神埼だった。
「どうした、出張か?」
「月例会議だ。いつもは所長が出席しているんだが、大口の契約が決まりそうでさ。そっちが優先だから今月は俺が代理出席」
 住吉メディカルは全国に支店を持っているが、その支店長らを月に一度本社に集め、業績報告の為の会議を開いている。 聡は直接関わりが無いので失念していたが、神埼の言葉に、今日が第一月曜だということを思い出した。
「本社会議に出席とは大したものだな、神埼副支店長は」
 神埼とは十年前の入社式でたまたま隣の席になり、三日間の基本研修の間は何かと一緒に行動することが多かった。 その後それぞれの配属先が決まり、総務部に配属となった聡と営業部所属になった神埼との仕事上の接点は、さほど多くはなかった。 それでも慣れない環境でくじけそうになった時、同期の存在は大きい。業務内容は違えど新入社員が壁にぶちあたるタイミングは不思議と重なっていて、忘れた頃に連絡をとり合い飲みに行った。
「いやいや、そんなことあるよ」
 謙遜する素振りを見せて、神埼は大いに胸を張った。一見軽そうに見えるこの男はかなりの負けず嫌いで、人が知らぬところで相当な努力を積んでいる。 営業成績は年々上昇し、彼の評判はやがて他部署の聡の耳にも入ってくるようになった。
 新支店を立ち上げることが決まったのはそんな時だ。東京から地方への異動は一見左遷のようだが、副支店長の肩書を持っての新規立ち上げだと状況は違う。 恐らく今回の異動は出世レースにのる為のステップで、数年後本社に戻れば課長の椅子が待っているだろうと誰もが予想していた。

「どうだ、そっちは?」
「新規開拓はさすがに大変だな。だけど一年が経ったし、そろそろ軌道にのりそうだ」
「みんなはどうしてる? 元気にしているのか?」
「ああ、よくやってくれているよ。営業の方はまだまだ一人前まで時間がかかるが、事務はかなり優秀だ。良い子を採用してくれたって、所長がいつもおまえに感謝しているぞ」
 ラーメンをすすりながらにやりと笑った神崎の言葉に、聡は安堵した。
 一年前、同期が副支店長として就任することになった新支店の、オープンに関する手続きの一切を任されたのが聡だった。 引継ぎが忙しくなかなか現地に来られない神埼や支店長に代わり、現地スタッフの面接も聡が行った。 自分が採用した社員たちがすぐに辞めていたり使えなかったりするのはやはり責任を感じてしまうので、彼らを評価してもらえることは何よりも嬉しかった。
「そうだ、来月そっちに行くことになったんだ。三連休中だから、事務所は休みだと思うけど」
「へえ、何かあるのか?」
「中学時代の連れが結婚するんだ」

 中学時代のクラスメイトである堤から、結婚するという電話があったのは先月のことだ。 遅まきながら自分の婚約が破棄になったことを堤に詫びに行った際、同じく元クラスメイトである郁子と付き合っていることを聞かされた時は正直驚いた。 そして、付き合い始めて一年も経たないうちに結婚を決めたことに、聡は更に驚愕したのだった。
「時間があるなら飲みに行きたいけど、同級生の結婚式なら同窓会みたいになるんだろうな。まあ、帰り際でも良いから連絡くれよ」
「ああ、予定が決まったらまた連絡する」
 そう言うと、聡は腕時計に視線を落とした。そろそろ昼休みも終わりだ。
「じゃあ、俺はそろそろ戻る。おまえのこの後の予定はどうなっているんだ?」
「午前中の会議が押したから、昼休みはあと三十分残っている。一時半から会議再開で、五時に終わったらすぐに向こうに戻るつもりだ」
「泊まっていかないのか?」
「明日の朝イチでアポが入っているから、今日中に帰らなければならないんだ」
 相変わらず忙しそうだ。大変だろうにどこか生き生きとしている同期が眩しくて、聡は小さく笑った。
「まあ、体を壊さない程度に頑張れよ。もう若くないんだからな」
「その台詞、そっくりそのまま返してやるわ!」
 神埼が渋い顔で噛みついてくるのをいなしながら、聡はトレーを持って立ち上がった。

「筒井」
 じゃあなと言って立ち去ろうとした聡の背中に向かって、思い出したように神崎が声をかけてきた。
「何だ?」
「おまえの結婚式には絶対に出席してやるから、早めに知らせろよ。何ならスピーチもしてやるから」
 振り返った聡に、神崎がにやにやと笑って言い放つ。不意打ちの発言に精一杯動揺した聡は、思わずトレーを取り落としそうになった。
「な、何言ってるんだよ!」
「だって同級生の結婚式なら、当然おまえの彼女だって面識あるんだろう? 共通の知り合いが結婚するなら、おまえらもそんな雰囲気になるんじゃないのか?」
 知り合いどころか、新婦は聡の恋人である果恵の親友だ。さすがに意識しないと言えば嘘になるが、聡たちは付き合い始めてまだ半年なのだ。
「そんなことはないさ。俺たちは付き合ってまだ半年しか経っていないし」
「確かにそうかも知れないけど、ずっと知り合いだったんだからそこはあまり関係ないだろう?」
 あっさりと言い放つ神崎に、聡は苦笑いを浮かべた。果恵とは一年間同じ教室で学んだというだけで、それ以外の関わりは一切無い。 新支店立ち上げに関わる出張で偶然再会したものの、月に数回会うだけで、まともに話したのは一度食事をした時くらいだ。そんな関係は、知り合いとも呼べないだろう。
「結婚は良いぞ」
「はあ? おまえ独身だろう」
「結婚は良いに決まっている。俺だってすぐにでもしたいけど、何故か相手がいないんだ。おまえは相手がいるんだから、さっさと覚悟決めろよ」
 何やらよく分からない論理に、聡は呆れたように溜息を吐いた。昔から神崎はこうやって同期たちを言いくるめてしまうのだ。
「そうだ、来月は彼女も一緒に来るのか? それなら俺に紹介してくれよな」
「絶対嫌だ」
 きっぱりと言い放つと、今度こそトレーを持って返却口に向かう。これ以上、神崎のおもちゃになるのはまっぴらごめんだ。
「連絡待ってるからな」
 気持ち悪い笑顔を浮かべながらひらひらと手を振ってくる同期を無視し、聡は足早にエレベーターホールへと向かった。




 平日の夜の街は、雨のせいか少しだけ景色が滲んで見える。朝から細い糸のような雨が降り続き、空気はしっとりと湿っていた。
「ごめん、遅れた」
 こちらに向かって小さく手を振っている果恵を見つけると、聡は小走りで駆け寄った。
「大丈夫だよ。わたしもさっき着いたところだから」
 そう言って微笑むと、果恵は行こうかと聡を促した。
 今日は果恵の公休日だ。サービス業の彼女は休みが不規則で、休日がカレンダー通りの聡とはなかなか休みが合わない。 更にふたりとも残業が多く、お互い仕事の日に会うことは難しいのだが、片方が休みの日はできるだけ早く業務を切り上げて一緒に食事をとるようにしていた。 たまに果恵のシフト希望が通ってふたりの休みが重なることがあるが、一緒にいられる時間が限られているからこそ、ふたりで過ごす時間は貴重だった。

 駅から少し離れた住宅街の一角に構えるスペイン料理の店は、雨のせいか客足が鈍いようだ。果恵が同僚に教えてもらったというこのレストランは少し不便な立地にも関わらず、いつも混み合っているらしい。 満席であることも考慮してあらかじめ予約を入れていたのだが、今日は店内が空いているので落ち着いて食事が楽しめそうだった。
「そうだ、郁と堤くんの結婚式なんだけど、わたしも三連休とれるかも知れないの」
 ワインで乾杯をすると、嬉しそうに果恵が切り出した。世間が休む三連休が果恵たちにとっては稼ぎ時なので、彼女は最悪結婚式の当日だけしか休みがとれないことも覚悟していたのだ。
「できれば二日休めたらなあと思って希望を出したんだけど、せっかくだから実家でゆっくりできるようにシフトを組んでくれるって」
「へえ、良かったな」
「まだ確定ではないけど、他に公休希望を出している人がいないからたぶん大丈夫だろうって」
 この正月は、職場でインフルエンザが流行ったとかで結局果恵は実家に帰っていない。 年が明けてからは少し忙しさが落ち着いたようだが、まとめての休みはなかなかとりにくいようで、実家でゆっくりできれば彼女の家族も喜ぶだろう。
「そうだ、筒井くんは宿泊先どうする? 実は郁たちに、遠方から参列する方たちの宿泊先の手配を頼まれているの。 さすがにわたしは実家に顔を出さないといけないから向こうに泊るけど、筒井くんもボヤージュに泊まるなら一緒に部屋を押さえておくよ」
「じゃあ頼むよ」
「了解です。でも、ちらちら視線を感じたらごめんね」
 果恵は少し困ったように苦笑いを浮かべた。そう言えば、果恵が可愛がっている後輩には出張で利用した際に何度か対応してもらったので、聡の顔と名前を覚えられているのだ。 聡が宿泊することが分かれば、果恵のかつての同僚たちは自分に興味を向けるかも知れないだろうなと納得した。
「大丈夫。しっかり品定めされて来るよ」
 聡がそう答えると、思わず吹き出した果恵は声をあげて笑った。それは、かつて聡がホテル・ボヤージュを利用した際に、フロントに立っていた果恵が見せていた完璧な笑顔ではない。 楽しそうなその笑顔に、聡は昼間から憂鬱だった気持ちが晴れるような気がしていた。

 店を出ると、雨は上がっていた。閉じた傘を手に、駅に向かってふたりはゆっくりと歩き出した。
「美味しかったね」
「うん。今度また来よう」
「次は別のメニューを注文しなきゃ」
 頼んだ料理は、どれも旨かった。生ハムとチーズは塩味が絶妙で、魚介のマリネはさっぱりとして止められない。 じっくりと煮込んだ仔牛の肉は濃厚なソースと一緒に口の中でとろけるようで、色んな味を楽しみたいと注文したタパスも全て当たりだった。
「明日、教えてくれた子に美味しかったよって報告しなきゃ」
 ご機嫌な果恵は、少しふわふわと揺れている。彼女はあまり酒に強くなく、本人もそれは自覚しているので適度な量で控えるのだが、今日はいつもより飲んでいたかも知れない。 確かに料理だけでなく、スペイン産のワインも旨かった。
「うん。良い店を紹介してくれてありがとうって言っといて」
 そう言いながら果恵の右手にそっと触れる。小さく頷きながら、果恵の指が聡の左手に絡まった。雨が上がって良かった。自分の左手の中に収まった温もりを感じながら、聡は密かにそう思った。 傘をさしていると手を繋ぐのは難しい。そしてその発想に、自分も少し酔っているのかと密かに苦笑した。

「そう言えば、郁ってば堤くんと喧嘩したんだって」
 雨上がりの夜道は、車の通りも少なく静かだ。いつもよりゆっくりと歩く聡の隣で、果恵がいつもよりゆっくりとした口調で話しかけてくる。 彼女は常にしっかり者の雰囲気を漂わせているのだが、アルコールが入るとその空気が緩むのが何とも微笑ましかった。
「何で? 堤が何かやらかしたのか?」
「それは堤くんに対して失礼だよ」
 親友である筈なのに堤に原因があると決めつけた聡に対し、果恵はお調子者の新郎をフォローした。そもそも彼女がのんびり話題にしている時点で、どうせ犬も食わない理由なのだろう。
「この前ふたりで家具を見に行ったんだって。そこでソファを選んでいる時に、郁はゆっくり寛ぎたいから大きめにしたいと提案したのに、堤くんは郁と密着したいから小さいのを買おうとするって怒っているの」
「うわあ、下らねえ……」
 どれだけ腹を減らした犬でも食わないであろう内容に、聡はずるりと脱力する。
「職場で休憩中にメールを読んだんだけど、ひとりで声に出して笑っちゃった」
「結局どうしたんだろう? 柴田さんの方が強そうだけど、最終的には彼女の方が折れそうな気がするな」
 聡がそう呟くと、隣で果恵が驚いたように見上げてきた。
「すごい、どうして分かるの? 結局、堤くんが選んだ方を買ったんだって」
「何となく。中学の時も、柴田さんは意見は言うけど皆に合わせることが多かったような気がしたから」
「旦那さまに合わせたんだねって聞いたら、色はそっちの方が良かったからだって返ってきたけどね」
 可愛いよねと、果恵がくすくす笑っている。自分に正直すぎる堤と一緒になれるのは、郁子みたいに上手く操縦できる女性なのだろう。
「お似合いだな」
 からかい気味にそう言うと、果恵がそうだねと同意した。

「ところで、やっぱり筒井くんの記憶力はすごいね」
「記憶力?」
 唐突に、そう果恵が切り出した。脈絡のない話題に何のことか分からなくて、聡は彼女の目をまじまじと見つめ返した。
「郁の性格もしっかり覚えているんだもん。さすがだよね」
 中学時代の成績が良かったイメージが強いのか、今も果恵は聡に対してたまに尊敬の念を示してくる。
「それは……」
 否定しようとしたけれど、聡はそのまま言葉を飲み込んだ。代わりに、繋いだ手に力を込める。
 いつの間にか、閑静な住宅街を抜けて大通りに出ていた。離れ難いなと、心の内でそう思う。同じ気持ちでいてくれるのか、心なしか果恵の歩調が更に緩やかになり、それが聡の心を温かく満たしてくれた。

「じゃあ、またね」
 けれども、当然駅には到着してしまう。改札をくぐりホームへ向かう階段の手前で立ち止まると、少しだけ名残惜しそうに果恵が言った。
「送るよ」
「大丈夫。着いたらちゃんとメールするから」
 ふたりの家の方向は真反対で、それでも送ると聡が言うと果恵はきっぱりと断ってきた。もう少し一緒にいたいけれど、明日も仕事で、果恵に至っては早番だから今から帰っても遅いくらいだろう。 聡だって明日は重要な会議があるので、あまり寝不足で臨むわけにはいかない。
「じゃあ、気をつけて」
「うん。おやすみなさい」
 手と手が離れ、一瞬見つめ合うと、やがて果恵は思い切ったように歩き出す。雑踏の中に紛れてゆく恋人の後ろ姿を見送ると、聡もホームに向かって歩き出した。

 


2013/09/26 


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