約一年ぶりに帰って来た街は、少しだけ変わっていたけれど、殆ど変わらないままだった。
駅の改札を出て十年間通い続けた道を歩くと、すぐに見慣れた建物が見えてくる。何とも言えない懐かしさを感じながら、エントランスドアの真上の碇をモチーフにしたロゴを眺める。
―― 帰港。
果恵の脳裏に、ふとそんな単語が浮かんできた。
「きゃー、果恵さんお帰りなさい!!」
「佐々木さん、お久しぶりです!」
遠慮がちにノックして事務所に入ると、懐かしい顔ぶれが果恵を迎えてくれた。嬉しさに思わず顔がほころび、手を振りながらかつて共に働いていた仲間のもとに駆け寄った。
「久しぶりだな。元気そうじゃないか?」
「ご無沙汰してます。今日は無理をお願いして、すみませんでした」
かつて小野が座っていた席でパソコンに何やらデータを入力していた飯塚が、わざわざ立ち上がって果恵を迎えてくれる。現在の職場の近くで購入した手土産を差し出しながら、かつての上司に頭を下げた。
「これくらい全然構わないよ。それより、頑張っているみたいだな」
そう言いながら少し眩しそうに果恵を見やると、飯塚はいつものように静かに微笑んだ。
季節は、瞬く間に巡ってゆく。
凍てつく寒さはじきに緩み、桜の花が咲いて散る。緑薫る季節はすぐに駆け抜け、じめじめと雨の日が続いたと思ったら、ついに蝉が鳴き始めた。
七月二週目の週末である今日から、月曜日の海の日までが連休となる。つい先日梅雨明けが発表され、いよいよ本格的に夏がやってきた。
世間が休む三連休は、ホテルにとって稼ぎ時だ。そんな忙しい時期に公休希望を出して、果恵はかつて働いていたホテル・ボヤージュを訪れていた。
連休のどこか一日が休みになることはあっても、カレンダー通りに三日間休むのは入社以来はじめてだった。
「果恵さん、水曜日に堤様がお見えになってご宿泊代は既にお支払い下さっています。その際にネームリストも頂いたので、今日の準備はばっちりですよ!」
「そっか。ありがとう」
果恵の隣に寄って来て報告する菜乃花は、表情や言葉の端々に自信が滲み出ていてこの一年で成長したことがうかがえる。
けれども、飯塚の手の中にある果恵の東京土産に興味津々の様子を見せるところが、憎めない可愛らしい後輩のままだった。
果恵がこの街に戻って来た理由のひとつは、親友である郁子の結婚式に参列する為だ。明日、郁子は中学時代のクラスメイトだった堤の妻となる。
ふたりが付き合っているのを果恵が知らされたのは、彼女が東京へ異動する直前に郁子と食事をした時だった。
春の終わりに果恵も含めて三人で飲みに行ったあとも郁子と堤は頻繁に会っていたそうで、夏前から正式に付き合い始めたらしい。
親友である果恵への報告までに少しタイムラグがあるのは、果恵にふたりは似合いだとからかわれながらまんまと付き合い始めたことが悔しかったからだそうだ。
順調に交際を進めていたふたりにそのうち結婚するのだろうなとは思っていたが、五月の終わりに電話をもらった時はあまりにも急で正直驚いた。
郁子は言葉を濁していたが、入院している堤の祖父の容体が思わしくなく、まだ動けるうちに式を挙げて孫の幸せな姿を見て欲しいという堤の願いがあったようだ。
「年が明けてからちらちらと結婚をほのめかす言葉も出ていたし、わたしもこの人と一緒になるんだろうなという漠然とした予感はあったからね。どうせするなら、早い方が良いと思ってさ。
わたしもあいつも七月生まれだから、夏の海が見えるところで式を挙げたいなって思ったの」
春頃から慌てて式場を探し始めたものの当然難航し、散々問い合わせた挙句、三連休の中日である明日が奇跡的にキャンセルで空いている式場を見つけたそうだ。
海沿いにある式場までは、ホテル・ボヤージュの最寄りの駅前からリムジンバスが出ている。
郁子と堤は遠方から参列する親族や友人の為に、立地の良いホテル・ボヤージュを予約して欲しいと果恵に依頼してきたのだった。
「高い料金で販売できる日なのに、すみません。友人もすごく感謝していました」
「十室くらい大したことないさ。この三連休は順調にADRもとれているしな」
郁子から依頼を受けて飯塚に連絡したところ、彼は気安く了承してくれた。少し安くしてくれればと思っていたが果恵の想像よりも値引いてくれて、これには郁子と堤が恐縮していた。
予約が少なければ正規料金よりも大幅に割引いて稼働率のアップを図るが、三連休は間違いなく満室になるのでいかに正規料金に近い価格で全室売り切るかが勝負だ。
それなのにかなり安い料金で予約を受けてくれて、果恵は改めて飯塚に頭を下げた。
「うわー、美味しそう!」
いつの間にか土産の包みを開いていた菜乃花が隣で歓声をあげる。呆気にとられたままその様子を眺めていた果恵と飯塚は、やがて目が合うと、食い意地の張った無邪気な後輩の姿に吹き出した。
果恵が買ってきたクッキーの詰め合わせは、どうやら彼女のお気に召したようだ。
「このお店、前にテレビで取り上げられてましたよ。通販でしか手に入らないと思っていたから嬉しい」
「本当だ、美味しそう。ラッピングも可愛いね」
そう言いながら、菜乃花の歓声につられていそいそと寄って来た由美がチョコクッキーに手を伸ばした。
「明日も良いお天気だそうですよ。海が見えるチャペルでの結婚式なんてロマンチック!」
「わたしの友達も昔あそこで挙式したんだけど、かなり良かったよ。写真いっぱい撮ってあげな」
菜乃花と由美が、クッキーを食べながら楽しそうに話かけてくる。
かつての職場は一年前と殆ど変わらず、少し知らない顔もいるが大半が見知った顔ぶれだ。果恵はの胸には懐かしさが広がり、ほっと温かくなるのを感じていた。
「ところで、果恵さんはどうなんですか?」
「へ?」
今は菜乃花の席となっているかつての自分の席をそっと撫でながら果恵が感慨に浸っていると、唐突に後輩が水を向けてきた。一瞬意味が分からず、間抜けな声で聞き返す。
「果恵さんたちは、結婚されないんですか?」
クッキーを食べ終えた菜乃花が、若干身を乗り出し気味にもう一度尋ねてくる。今度の質問内容は充分すぎるくらい理解できて、思わず果恵は頬を染めた。
年明けに約束どおり菜乃花は東京へ遊びに来たのだが、その打ち合わせの電話で聡と付き合い始めたことを報告すると、由美も一緒に行くと言い出した。
ふたりは聡に会いたいと言っていたが、幸いにもふたりの上京を知ったマネージャーの小野が食事に誘ってくれたので聡の出番はなかった。
強力なタッグを組んだふたりには付き合い出した経緯を聞かれ、散々からかわれ、そして目いっぱい祝福されたのだった。
「えっと……」
「え、何その反応!?」
「果恵さん、そうなんですか!?」
果恵は何も答えていないのに、菜乃花と由美が勝手にテンションを上げてくる。きらきらと目を輝かせながら見つめてくる期待に満ちた視線に耐えかねて、果恵は俯き気味に答えた。
「……この前、プロポーズされた」
果恵がそう答えるや否や、目の前のふたりが絶叫する。
「きゃー、果恵さんおめでとうございます!!!」
「果恵、良かったじゃん!」
思わず胴上げされるのではと身構えてしまうくらいにふたりの喜びようは凄まじく、何事かと同僚たちが呆れたような視線を向けてきた。
「わたし、果恵さんのウエディングドレス姿見たいです!」
鼻息荒く宣言する菜乃花に、果恵は思わず吹き出す。
「本当につい最近のことだから、まだ何も決まっていないの。時期も決めてないし、たぶん東京で挙げることになるけどそれでも良かったら来てね」
「ははん、なるほど。今頃インテリ眼鏡くんは、めちゃくちゃ緊張しているわけね」
照れながら答える果恵の言葉に、菜乃花は何が何でも参列しますと宣言する。その隣で、由美が訳知り顔でにやりと笑った。
「たぶん」
果恵が苦笑しながら由美の言葉を肯定すると、彼女はやっぱりねと言いながら頷く。菜乃花は意味が分からないという表情で、果恵と由美の顔を交互に眺めていた。
果恵がこの街に戻って来たもうひとつの理由は、両親に聡を紹介する為だ。
これからふたりが生まれ育った海辺の町に帰り、果恵の実家を訪れる予定になっている。会わせたい人がいるということは事前に伝えており、今頃両親はそわそわとふたりの帰りを待っていることだろう。
「じゃあ、早く帰らないと」
由美にそう促される。もっと皆とゆっくり話したかったけれど、三連休の初日はバタバタと忙しい。そろそろ出なければ邪魔になるなと果恵も思っていたところだったので、素直に頷き席を立った。
「果恵さん」
その時、不意に菜乃花に名前を呼ばれた。
「果恵さん、結婚されたらお仕事はどうするんですか?」
真っ直ぐ見つめてくる視線を受け止めながら、果恵は柔らかく微笑んだ。
「当分は続けるつもり」
「良かった。離れていても、果恵さんが同じ会社にいるというだけで心強いですから」
菜乃花の言葉は予想外で、不覚にも胸が熱くなった。
ホテルの仕事は好きだ。けれども一方で、ホテルの仕事は辛いとも思う。
聡と付き合い始めて悩んだのは、やはり休みが合わないことだった。
カレンダー通りに休む聡に対し、果恵は勤務時間も公休も不規則だ。彼と休みの合う仕事を探した方が良いのかと思いつつ、落ち込んだり浮上したりを繰り返しながら積み上げてきたキャリアには未練があった。
一生分の決意でもって東京に異動したのに、すぐに辞めるのは悔しいし小野にも申し訳ない。それよりも何よりも、これまで何度も辛い辞めたいと思ったけれど、果恵は結局この仕事が好きだった。
「がむしゃらにキャリアアップを目指しているわけじゃなし、ずっと続けると決めたわけでもないよ。ただ、今目の前のことを頑張ろうと思っているだけ。
結婚したら家庭との両立は大変だろうし、子供ができたら家にいたいと思うかも知れない。
でも、困ったことがあればその時に立ち止まってふたりで最善の方法を話し合えば良いと気づいたから。だから、今はとりあえず任されている仕事を頑張りたいと思っているの」
果恵がそう説明すると、菜乃花と由美はにやにやと笑いながら果恵を見つめていた。
「由美さん、わたし何だかおなかがいっぱいになってきました」
「わたしもだよ、菜乃花」
そう言って、ごちそうさまでしたとふたり揃って頭を下げてくる。
「まさか、果恵にのろけられる日が来るとはねえ……」
わざとらしく溜息をつく由美に、果恵は一気に赤面した。
「ちょっと、やめて下さいよ。別にこれはのろけなんかじゃないです」
「だって、インテリ眼鏡くんに言われたんでしょ? これからはふたりで一緒に考えようって」
「きゃー! もう、彼氏いないわたしはかなりのダメージなんですけど」
物まねのつもりか、由美が声のトーンを落とす。確かに聡に言われた台詞で、果恵は恥ずかしさのあまり耳の先まで赤く染めた。
狼狽する果恵の視界には、マネージャー席に座った飯塚が肩を震わせながら笑いをこらえている姿が入って、よりいたたまれない気持ちになった。
「良かったな、佐々木。東京に行って春が来たようで」
彼氏いない歴何年だといつもからかっていた先輩が、そう言いながらぽんと果恵の肩を叩いてくる。感慨深げなその台詞に、事務所の中がどっと沸いた。
「もう帰る!」
「ダーリンが待ってるものね。てゆか、インテリ眼鏡くんも一緒に来たら良かったのに」
拗ねたように果恵が宣言すると、由美が追い打ちをかけてきた。
「絶対嫌です!!」
果恵が古巣に挨拶に行っている間、聡は駅前のカフェで時間を潰している筈だ。すっかり赤くなった顔をぱたぱたと手で煽ぎ、息を整えて頭を下げた。
「じゃあ、また」
久々の再会は、菜乃花と由美の手荒い祝福のおかげでひっちゃかめっちゃかになってしまった。
「そのうちまた菜乃花と休みを合わせて東京行くから、プロポーズ話聞かせなよ」
「わたしも聞きたいです」
この調子なら本当に夏の繁忙期が終わったら東京にやって来るかも知れない。それまでにポーカーフェイスを身につけておかなければと密かに誓いながら、果恵は他のスタッフにお邪魔しましたと頭を下げた。
恐らくこの春に入社したであろう果恵と面識のないスタッフは、この騒ぎにさぞ呆れていることだろう。
「果恵」
事務所のドアノブに手をかけた果恵に、由美が声をかける。
「またいつでも遊びに来なよ」
「そうですよ。ボヤージュはいつでも果恵さんを大歓迎しますから」
駅前のカフェの窓際の席には、愛しい人の姿があった。
眼鏡のその人は真剣な表情でスマートフォンを操作しながら、何かを検索しているようだ。気づいてくれるだろうか。小走りでやって来た果恵は立ち止まると、ガラス越しに聡の姿を眺めた。
足を止めた果恵の姿が視界に入ったのか彼女の視線を感じたからか、ふと聡が顔を上げた。少し驚いた表情を見せ、すぐに穏やかに微笑む。その瞬間、果恵の心臓がとくりと跳ねた。
眼鏡越しに優しい笑みを向けられると、未だにどきどきしてしまうのだから始末が悪い。
「早かったね」
「うん。今日は忙しい日だから、あまり長居すると悪いし」
やがて店の外に出て来た聡が、そう尋ねてくる。彼に預けていたキャリーケースを受け取りながら果恵が説明すると、もう少しゆっくりできれば良かったのにねと優しい言葉をかけてくれた。
確かにもっと色々と話がしたかったし、今日が公休のスタッフもいたので皆に会いたかった。けれども、果恵が様々な経験を積んだ大切な場所は今も温かく迎えてくれて、きっと今後も受け入れてくれるのだろう。
今回はそれを感じられたから、果恵は満足だった。
「ごめんね待たせて。それより、真剣に何読んでいたの?」
駅へ向かいながら果恵が尋ねると、聡は一瞬ぎくりとした表情を見せた。
「別に。色んなネットニュースを適当に流し読みしてただけ」
「そう? やけに深刻そうな表情に見えたから」
ひとりでいる時ににこにこしていたらそれはそれで少し怪しい。けれども先程の聡はいつもより真剣な気がして、果恵は少し心配そうに尋ねた。
そんな果恵に対し聡は観念したようにひとつ溜息をつくと、ポケットからスマートフォンを取り出してロックを解除すると彼女に差し出した。
「切符買って来るから、ここで待っていて」
そう言いながら、雑踏の中を歩いて行く。押しつけられた画面を見ると、先程聡が読んでいたであろう記事が表示されていた。それは、彼女の親へ結婚の挨拶へ行く際のマニュアルだった。
いつも冷静でスマートに行動する聡だが、あんな真剣な表情でこの記事を熟読していたのか。嬉しさと愛おしさが混ざり合った気持ちが、果恵の胸に沁み渡った。
「何笑ってるんだよ」
「笑ってないよ」
切符を差し出してきた聡が拗ねたように呟く。果恵は否定しながらスマートフォンを彼に返した。
「幸せだなあって、しみじみ実感していただけだよ。そしてあと数時間したら、わたしの家族も、わたしがどれだけ幸せか知ることになるんだね」
「え?」
順番に改札をくぐりながら果恵が言うと、少し不思議そうな顔で聡が聞き返してきた。
「マニュアルなんか必要ないよ。いつものままでいてくれたら、それだけで両親は信頼してくれる。そしてわたしのこの締まりない顔を見たら、もうそれだけで今どれだけ幸せなのか分かってくれると思うよ」
そう果恵が笑うと、聡の表情が少しだけ緩んだ。深刻そうな表情は、きっと緊張からきているのだろう。
「でもやっぱり、少しでも果恵のご両親に良く思われたいだろう?」
結婚どころか彼氏の陰も見えなかった娘の報告に、両親は浮かれきっている。
彼らには反対する理由が全く無いので、結婚の許しを得るというよりも報告に近いのだが、すでに許されているのならより好印象を抱いて欲しいと聡は言う。
ああ、やっぱりこの人と一緒になれる自分は幸せ者だ。果恵は心の内でそう呟いて、そっと彼の左手に指を絡ませた。
想いを告げて約半年。最初は手が触れるだけでどきどきしていたが、今はそれよりも安らぎを感じるようになった。
自分の右手が彼の左手に包まれると、すっかりその温度や感触を覚えていて、此処が定位置であることにくすぐったいような喜びを感じるのだ。
これからも、大海原で小さなカエルは波にのまれるかもしれない。溺れかけるかもしれない。けれども隣には、共に泳ぎ共に励まし合える存在がある。だからこの先も、カエルは懸命に泳ぎ続けるだろう。
「行こう」
「うん」
繋いだ手にぎゅっと力を込めると、聡は眼鏡の奥から穏やかに微笑んで果恵を見つめてきた。果恵も笑みを返すと、温かいその手を握り返す。
やがてふたりはホームへ繋がる階段を下り、海へと向かう青色の列車に乗り込んだ。
< 完 >