果恵が住んでいるのは、聡が通勤で使っている路線とは別の沿線になる。
同僚と別れた聡は電車を乗り継ぎ、駅から十五分の道のりを歩いていた。何の変哲もない街並みはそれでも聡には見慣れたものであって、それは彼が何度もこの道を通っていることを物語っていた。
「お疲れさま」
インターホンを鳴らすと、すぐに果恵が出迎えてくれた。いつも部屋着にしている、ゆったりとした涼しげなマキシワンピースを身に着けている。
「お腹空いてない?」
「大丈夫、結構食べたから」
「じゃあ、何か飲む?」
アイスコーヒーが飲みたいと言うと、果恵は少し待ってねと告げてキッチンに向かった。
「ごめんな、突然」
本当は、今日は会う予定ではなかった。果恵は休みだったのだが、聡の職場の先輩が退職することになり、今日はその送別会が行われていたのだ。
「ううん。意外と早く終わったんだね」
果恵はそう尋ねながら、聡の目の前にアイスコーヒーの入ったグラスを置いた。彼のものには砂糖もミルクも入っておらず、自分の分はミルクたっぷりのカフェオレだ。
「主役が酔っ払ってしまったから、一次会で強制終了」
もともと酒には強かった筈なのだが、色んな人に注いでもらっているうちに酔いが回ったらしい。
普段酔うことがないので周りも気にせずどんどん酒をすすめていたのだが、引継ぎや何やで残業が続いていたのも影響したのか、気づけばトイレに引きこもっていた。
「ええっ、大丈夫なの!?」
「帰る頃にはだいぶ顔色も戻っていたし、同じ方向の後輩がタクシーで送って行ったからたぶん大丈夫」
なら良かったと、果恵は安心したように小さく息を吐いた。
「今日は会えないと思っていたから、メールもらった時にはびっくりした」
カフェオレを飲みながら、そう果恵が呟いた。週末は果恵が遅番だったので会うことができず、今日は聡に予定が入っていたので次の日曜日まで会えない筈だった。
「実は、今度の日曜日に急用が入ってしまってさ。だから今日会いに来たんだ」
「急用?」
聡の急な予定変更を、もちろん果恵は咎めるようなことはしない。けれども、少しだけ残念そうに表情が翳ると申し訳ない気持ちになる。
「弟が結婚することになってさ。相手の人が挨拶に来るらしく、俺にも同席して欲しいって母親から電話があったんだ」
「ええ、そうなんだ。おめでとう!」
聡が理由を説明して詫びると、果恵の表情が嬉しそうに一変する。何だかおめでたい話題が続くねと、幸せそうに笑っていた。
笑顔の彼女は、何を考えているのだろう?
彼女の表情を盗み見しながら、聡は考える。親友が結婚を控え、彼の弟も結婚すると聞いた今、彼女は何を感じているのだろうか。
果恵が結婚についてどう思っているのかは分からないが、年齢的に結婚している友人も多いだろうし、全く意識していないわけではないだろう。
けれども彼女はキャリアアップの為に東京まで転勤しており、結婚願望が全く無い可能性も高かった。
「その次の土曜日は大丈夫だよね? 久しぶりに週末の休みがとれたから、すごく楽しみにしてるんだ」
弾んだ声で話しかけられ、彷徨っていた思考が戻る。目の前には、確認するようにこちらを見つめてくる恋人の顔があった。
「もちろん大丈夫だよ」
ふたりの休みが重なることは滅多にない。その日は何があっても果恵が優先だと心に誓いながら、聡は力強く頷いた。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「うん」
いつの間にか、終電ぎりぎりの時間になっていた。聡が立ち上がると、果恵ものろのろと後に続く。
「疲れているのに、来てくれてありがとう」
見上げてくる果恵に、聡はゆっくりと顔を寄せた。そっと唇に触れると、聡の腕に添えられていた手に少しだけ力が込められた。
―― 離れ難いな。
このままこの部屋に泊まって、ふたりで朝を迎えたい。
実際に何度か泊まったことはあるのだが、果恵は明日は七時出勤の筈で、聡は付き合い始めた時から彼女の負担にならないよう勤務シフトを優先させることを密かに決めていた。
「そうだ、忘れてた」
これ以上触れていると本当に理性が負けてしまいそうで、聡はそっと体を離すと鞄を探った。
「土曜日、どこに行きたいか考えておいて」
そう言いながら、一冊の雑誌を差し出す。それは先週末に本屋に行った際に購入した、東京近郊のガイドブックだった。
「うん、分かった」
「じゃあ、また連絡するから」
下まで送ると言う果恵を諌めて扉が閉まるのを確認すると、聡は足早にエレベーターに向かった。急がないと、いよいよ終電に乗り遅れそうだ。
一緒に暮らせば、ふたりで過ごせる時間は増えるだろう。ふと浮かんだ考えに足が止まる。けれども同時に不安が湧き上がってきて、それを振り払うかのように聡は夜道を駅に向かって走り出した。
* * * * * * * * *
聡がかつて家族と暮らしていた家は、都心から少し離れたいわゆるベッドタウンと呼ばれる街にある。
学生時代に毎日利用していた電車に揺られ、聡は窓の外に連なる家々の明かりをぼんやりと眺めていた。一年で最も昼間が長い季節だが、さすがに太陽は沈んでいる。
けれども予想していたよりは早く帰路につくことができ、聡は腕時計を見やりながら先程からずっと逡巡していた。
はじめて会った弟の恋人は、両親と兄である聡を前にかなり緊張しているように見えた。
両親も初対面の相手に幾分構えていたが、弟の学よりも年上ということもあり、落ち着いた雰囲気を漂わせる彼女に好印象を抱いたようだ。
探るような会話は食事を始める頃には和やかなものとなり、先方の両親との顔合わせの予定など、結婚に向けてスムーズに話が進んでいった。
「良かったな」
翌日は仕事ということで早めにお開きとなり、弟たちと一緒に実家をあとにした聡はそう声をかけた。
「今日はありがとう」
いつもは生意気な弟が、殊勝にも頭を下げてくる。こいつも緊張していたのかなと思いながら、せっかく上がっているのにまた雨が降るからやめてくれとからかった。
「お忙しいところ、本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、弟をよろしくお願いします」
丁寧に礼を言う彼女に対し、聡も改めて頭を下げた。恐らく自分のせいで弟のプロポーズが遅くなってしまったけれど、待っていてくれてありがとう。
もちろん結婚はふたりのタイミングだけれど、負い目を感じていた聡は心の内で密かに彼女に感謝した。
弟が住むワンルームマンションは、聡が暮らす街とは反対方向にある。どうやら彼女も学と同じ方面らしく、駅の改札をくぐると三人は立ち止まった。
「じゃあ、式の日取りが決まったら早めに連絡しろよ」
「分かってる」
またゆっくり飲みに行こう。聡は弟と、傍らに立つ彼女にそう声をかけた。さすがに今日は打ち解けるまではいかなかったが、同世代だしじきに親しくなれるだろう。
「兄貴」
じゃあなと軽く手を上げて階段に向かおうとした聡の背中を、学が呼び止めた。
「俺は幸せになるぞ。だから兄貴も、幸せになれよ」
予想もしなかった言葉に聡が目を丸くしていると、学はさっさと彼女を連れてホームに続く階段を上って行く。聡は苦笑いを浮かべながらふたりの背中を見送ると、隣のホームへと向かった。
果恵に会いたい。
幸せそうな弟と彼女にあてられたわけではないが、聡は無性に恋人に会いたくなった。確か今日は、六時までの勤務だと言っていた筈だ。
チェックインの少ない日曜日は定時で上がれることが多いらしく、恐らく今日は既に帰宅しているだろう。
のんびりとした車内アナウンスが次の停車駅を告げる。果恵のマンションに向かうのならば、次の駅で乗り換えなければならない。
やがて速度を落とした列車がホームに滑り込むと、聡はゆっくりと席を立った。
複数の鉄道会社が乗り入れているこの駅は、さすがに乗降する人の数が多い。聡は果恵と連絡をとりたかったけれどホームは雑音が多すぎるので、とりあえず階段を下りてコンコースへと向かった。
この駅は、果恵の職場の最寄駅でもある。既に果恵が帰宅していればこのまま乗り換えて彼女のマンションに向かうし、まだ職場にいるのであれば此処で彼女を待っていよう。
そう思いながらポケットからスマートフォンを取り出すと、聡はアドレス帳から彼女の番号を呼び出した。
そして通話ボタンを押そうとしたその瞬間、不意に大きな声がした。指を止め、反射的に音のした方へ視線をやる。
どうやらスーツケースの上に紙袋をのせていた外国人観光客と思しき老夫婦が、その中身をぶちまけてしまったらしい。
欧米人特有のリアクションの大きさで叫んだ声が予想以上に響いてしまい、周囲の注目を集めてしまったようだ。
恥ずかしそうに散らばった中身を集める彼らの傍で、何人かの日本人がしゃがんで一緒に拾っている。何気なくその様子を眺めていた聡は、あっと声をあげそうになった。
落とした荷物を拾い集めた外国人観光客は、手伝ってくれた日本人に何度も大きな声でサンキューと繰り返していた。やがて大きく手を振ると、駅の外へ繋がるエレベーターに乗り込んで行った。
残された人たちもやがて、何事も無かったかのように様々な方向へと向かって歩いて行く。聡はその中のひとりを、息を潜めて凝視していた。
エレベーターに向かって手を振っていたその女性は、傍らの男性と視線を合わせると、嬉しそうに何やら言葉を交わしていた。何を言ったのだろうか。男性の言葉に、彼女は声をあげて笑っていた。
呼吸が苦しくなって、ようやく聡はようやく息を止めていたことに気がついた。我に返った聡は、まるで逃げるようにもと来たホームへと戻って行った。
タイミング良く到着した列車に乗り込むと、聡は脱力したように腰を下ろした。今もまだ、鼓動が早い。
先程、コンコースで困っていた外国人観光客に手を貸していたのは果恵だった。仕事柄、海外からのゲストと接することに慣れているのだろう。笑顔で声をかけている姿はスマートで、恋人として誇らしい気持ちになった。
けれども、仕事終わりであろう彼女はひとりではなかったのだ。
単身上京してきた果恵にとって、東京での交友関係は職場の人間に限られている。だから冷静に考えれば、一緒にいた人物は同僚なのだろう。けれども、聡の目にはふたりの関係は親密に映った。
果恵の現在の職場は昨秋にオープンしたばかりで、東京へ引っ張ってくれたと言う以前の職場からの上司以外は、皆付き合いが浅いと聞いている。
傍らの男性に向けられた果恵の笑顔は親しげで、聡の胸の中に不安が広がるのを感じながらも、聡は結局その場から逃げてしまったのだった。
―― 俺はまた、捨てられるのか?
列車が刻む規則正しいリズムが、聡にはどこか遠くに聞こえていた。