サティヤムを貴方に
編む必要のない娘 2
これまで一切関りのなかったジンという青年のことを伯母が持ち出して以来、サディーナは急にその名を耳にする機会が増えた。
「ようサディーナ。おまえさん、妹に先を越されそうなんだって」
「あら、おじさん耳が早いのね」
洗濯に行く途中、サディーナは近所に住む初老の男にそう声をかけられた。
「皆おまえさんのことを心配しているぞ。気は優しいがのんびりしてるから、このまま婆さんになっちまうんじゃないかって」
「まあ、皆してそんなことを噂しているのね。旦那様がいてもいなくても、誰もが年をとればおばあちゃんになるものよ」
のんびり笑いながらそう返すと、そうは言ってもなあと男は顎髭をさする。子供好きで小さな頃からよく可愛がってくれていたので、親のような気分で心配してくれているのかも知れない。しばらく思案していたが、男はふと思いついたようにその名を口にした。
「そうさ、ジンがいるじゃないか!」
唐突に飛び出してきた名前にサディーナが目をまるくしていると、そんな彼女をよそに男はぺらぺらと説明しはじめる。
「真面目で働き者だけど、如何せん朴念仁でな。女を口説くことができないまま、年頃の娘たちは皆誰かのところへ嫁いで行っちまって、奴だけ未だに独り身なんだ。おまえさんより少し年は上だけど、釣り合いは悪くねえ。どうだ、ひとつ俺が話をつけてやろう」
ちょっと待って頂戴。話し終わる前から駆け出しそうな男の腕を、サディーナはそう言って慌てて掴んだ。
「そんなこと急に言い出したら、ジンさんも困ってしまうわ。心配してくれるのはありがたいけど、自分のことは自分で決めるから」
洗濯物が入った籠を放り出して止めにかかったサディーナの焦りが伝わったのだろう。思いついたら即行動といった性格の男はようやく冷静さを取り戻し、きまり悪げにぼりぼりと頭を掻いた。伯母もそうだが、この村にはお節介な大人が多いのだ。
それからも、妹の婚約を知った村人たちは祝福し、それから姉であるサディーナのことを心配して、何人かはジンの名前を挙げたのだった。
***
その日は朝から強い日差しが照りつけていた。雨続きで家にいることが多かったサディーナは、久しぶりに山菜を採りに山に入った。
以前は決まって親友のカジャルとイーシャと三人揃って出かけていたが、イーシャが隣村へ嫁いでふたりになり、最近体調を崩していたカジャルの妊娠が判明してからはもっぱらひとりで行動することが増えている。幼い頃から姉妹のように一緒に行動していたので寂しかったけれど、最近はようやくひとりにも慣れてきた。恐らくこれが、大人になるということなのだろう。
必要な分の山菜を採り終えると、サディーナは太い木の根に腰をおろして一息ついた。三人一緒の時はおしゃべりに夢中になって手が止まることも多かったけれど、ひとりだとあっという間に終わってしまう。早く帰って、今日も妹とサティヤムの特訓をしよう。サディーナは木陰で汗を拭いながら、そうひとりごちた。
妹のサティヤム作りは順調だった。もともと使用する色は妹が好きな色と相手の好きな色に決めていたが、試し編みをした結果、二色がより美しく映える文様が決まった。あとは花嫁となる妹が、想いを込めて丁寧に編んでゆくだけだ。
幸せそうな妹の様子を思い出してほっこりしていると、にわかに周囲が暗くなってきた。見上げれば厚い雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうだ。先程まで良い天気だったのにと思いながら、サディーナは慌てて立ち上がる。夏の天気は変わりやすく、晴れていると油断すれば急に激しい雨が降ってくるのだ。
息を切らしながら急ぎ足で山を下り、村が見えてきたところでついに大きな雨粒がぽつぽつと落ちてきた。それから、雨がまるで滝のように地面を叩きつけるようになるまではほんの一瞬のことで、今は周囲が白くけぶって少し先の景色さえも見えない。けれどもこのような激しい降り方が長時間続くことはまずないので、サディーナは諦めて小降りになるまで雨宿りすることにする。ちょうど山を下りたところに一軒の家があり、軒下を貸してもらうことにした。
その家の軒下には、何に使用しているのか分からないが、腰より少し低いくらいの高さの古びた木製の台があった。そこに山菜の入った籠を置かせてもらい、サディーナは懐から手拭いを取り出した。土砂降りになる前の間一髪で山を下りることができたので、幸いずぶ濡れにはなっておらず、とりあえず顔や腕の滴を拭う。そして、灰色の空を見上げて雲の動きを確認していると、不意にがらりと音をたてて板戸が開いた。
「すみません。少し軒下をお借りしています」
長身の男が家から出て来たので、サディーナは反射的に家主に向かって頭を下げる。それからそっと相手の顔を見上げると、思わずあっと声が出そうになり、サディーナは慌ててそれを飲み込んだ。
家の中から出て来たのは、ジンだった。確かに彼の家は山に入る道の脇に建っていて、話したことはなくともそれは認識していた筈なのに、雨を避けることに必死でそんなことはすっかり抜け落ちていた。
「入るか?」
彼は軒下で雨宿りしていた人物がいたことに驚くでもなく、低い声でそう短く問いかけてくる。サディーナは慌てて首を横に振った。
「いえ、ここで大丈夫です。山の頂あたりが明るくなってきたから直に雨はやむと思うので、それまでもうしばらく軒下を貸してください」
「好きにしろ」
さすがに家に入れてもらうのは厚かましい気がして、サディーナは丁重に断りを述べる。ジンは別に気を悪くした風もなく、短く了承すると、家の外に出していた木桶を取って再び中に入って行った。
ああ驚いた。閉まった戸を見つめながら、サディーナは小さく息を吐く。けれどもこの家の住人は、再び板戸を開けて外へ出て来た。
「そこに座っていろ」
そう言って、サディーナが山菜の入った籠を置いた簡素な台を顎でしゃくると、ずいと茶碗を差し出した。目を大きく見開いたままサディーナが固まっていると、ジンは無表情でそれを台の上に置き、今度こそ家の中へと入って行った。
呆気にとられていたサディーナだったが、彼の言葉に甘えてちょこんと腰かける。そして台の上に置かれた茶碗を手に取ると、そこには水が注がれていた。雨のせいで一気に湿度が上がり、喉が渇いていたので、ありがたく頂くことにする。それは冷たくもなく熱くもなく、水瓶の中に汲み置いていたただの水だったけれど、家で飲むよりも格段に美味しく感じられた。
やがて、山の頂から村の方へと、徐々に雲が晴れてくる。大粒の雨はその質量を減らし、降り落ちてくる間隔も長くなり、細い糸のような雨が再び姿を現した太陽の光の中できらきらと輝いていたけれど。ついに雨は上がった。
空を見上げていたサディーナはゆっくり立ち上がると、茶碗を手にして遠慮がちに板戸を叩いた。
「ジンさん、雨が上がったので帰ります。お水、ごちそうさまでした」
戸の向こうから、ああと返事が聞こえたものの、少し待ってみてもジンは姿を現さない。恐らく家の中で何か作業をしていて、手が離せないのだろう。空の茶碗をそっと台の上に戻して代わりに山菜の入った籠を手に取ったサディーナは、一瞬思案したのちに、思い切ってもう一度板戸の向こう側に声をかけた。
「ジンさん、綺麗な虹が出ていますよ!」
山への入口に建つジンの家と、サディーナの住む家は村の端と端にある位置関係だ。家も年齢も離れているので関りは少なく、従ってこれまで話す機会はまったくなかった。
それなのに、周囲の人たちがあまりにもジンの名前を頻繁に持ち出すものだから、とうとう本人と言葉をかわしてしまった。こんな偶然あるのねと、サディーナは何だか楽しい気持ちになって、思わずふふふと笑みをこぼす。
見上げれば、雨上がりの空には大きな虹が架かっていて。道の脇の草も村を囲む山々も、雨に濡れてより鮮やかな緑へと塗り替えられている。サディーナは弾むような足取りで、器用に水溜まりを避けながら家路についた。
2020/06/21