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サティヤムを貴方



編む必要のない娘 3


「ジンさん、こんにちは」
 あの夕立の日の翌々日、近所に使いに行った帰りにサディーナは、前方から歩いて来る背の高い人物に気がついた。彼は脇に広がる畑に気をとられてサディーナのことが目に入っていないようで、声をかけると少し驚いたように彼女の方へと視線を向けた。
「ああ、あんたか」
「この間はありがとうございました」
「別に、何もしていない」
 独り身のサディーナを心配したお節介な周囲の人たちは、同じく独身のジンを推してきたのだが、皆が口をそろえて彼のことを口下手だと評していた。なるほど確かに素っ気ない。けれども別に不快な雰囲気はなくて、サディーナは笑顔で食い下がった。
「お水を出してくれました。喉が渇いていたから、とてもありがたかったです」
「そうか」
 返ってきた言葉はやはり短かったけれど、サディーナはお礼を伝えたかっただけなので満足だ。ぺこりと頭を下げて歩き出したサディーナの背中に、ジンが声をかけてきた。
「あの家は場所柄、雨宿りに使われることが多い。だからあんたも気にせず、山で天気が変わったらうちの軒下を使え」
 ぶっきらぼうな言葉に驚いて振り返ると、男はもう歩きはじめていた。気にせずその背中に向かって、ありがとうございますと声をかける。朴念仁だなんて言う人もいたけれど、温かい人ではないか。きっと彼の家の軒下にあった簡素な台も、山から下りて来た人が雨宿りしたり休憩したりする為に用意したに違いない。大股で歩いて行く後ろ姿を見送ると、サディーナも腕の中の籠を抱え直して歩き出した。

 これまでまったく接点のない人だったけれど、些細なきっかけで短い言葉をかわせば、不思議なことにそれから偶然が続いた。
 サディーナが山へ入る際に畑で農作業をしているジンの姿を見かけたり、水を汲みに行って鉢合わせたり。最初は挨拶をするだけだったけれど、暑いですねとか良い天気ですねとか、最近は少しだけ話す言葉が増えている。最初はサディーナの方から声をかけていたけれど、最近ではジンも気づいて反応してくれるようになった。もっとも、片手を小さく上げるだけだったり、ようと短く声をかけるだけだったけれど。


 その日は久しぶりに、親友のカジャルを訪れる約束をしていた。カジャルが住む村長の家の隣にはヤクの小屋があり、サディーナがその前を通りかかると、ちょうどジンが掃除をしていた。村の共有財産であるヤクの世話は若者たちの間の当番制で、今週はジンの担当なのだろう。
「こんにちは」
 小屋の周りは柵で囲っていて、ヤクたちはその中を自由に動き回ることができる。柵のすぐ傍でのんびりと草を食んでいるヤクの長い毛を撫でながら、サディーナはいつものように声をかけた。
「どうした、こんな所で」
「カジャルに会いに来たんです」
 ヤクの糞は、燃料として使われるので貴重だ。ちょうどジンは陽の当たる場所で乾燥させる為に糞を集めているようで、サディーナが挨拶をすると鋤を動かす手を止めて、腰に挟んでいた布で首筋を流れる汗を拭った。
「カジャル? ああ、ラビの嫁さんか」
 どうやら彼はカジャルの名前を聞いても顔が浮かばなかったようで、一瞬思案したのちに、次期村長の伴侶だということに思い至ったようだ。
「同い年で、大切な親友なんです」
「そうか」
 返事は相変わらず短くて、余計なことは一切口にしない。けれども低い響きの声には温かさが感じられて、ふとサディーナはジンのことが知りたくなった。誰と同い年で、誰と仲が良くて、親しい間柄だとどんな話をするのか。むくむくと好奇心が湧いてきて、立て続けに質問をぶつけようとしたその瞬間、背後から声をかけられた。

「何だおまえら、よろしくやってるじゃねえか」
 声の主は以前、サディーナにジンを結婚相手として薦めてきた人物だった。
「おじさん、違うわよ。立ち話をしていただけなのにそんなに飛躍されたら、ジンさんも戸惑ってしまうわ」
「別に隠すことないだろう。お互い良い相手が見つかって良かったじゃねえか」
 そんなつもりじゃない。たまたまジンに親切にしてもらって、顔馴染になって、言葉をかわすようになった。ただそれだけだ。なのにお節介な男は、自分の進言どおりサディーナが結婚相手を見つける為に動いたと満足げで、彼女は巻き込まれたジンに申し訳ない気持ちになった。
 恐る恐る、彼の方を見上げる。いつも無表情に見えるジンだけど、微かに笑っていることに最近は気づけるようになってきた。けれども今は、無表情の中に冷ややかな雰囲気が漂っていた。

「ジン、ちょっと手を貸してくれ」
 そんな居心地の悪い空気を破ったのは、ヤクの小屋から出て来たラビだった。ジンに向かってそう呼びかけると、彼は柵の外にいる妻の親友に視線を寄越した。
「サディーナ、来てたのか。カジャルが朝からおまえが来るのを楽しみに待っていたから、早く行ってやれ」
 空気の読めない男との会話が聞こえていたのかどうかは分からないが、ラビが何かを察知したのは確かだろう。幼馴染の機転に感謝しつつ、サディーナは男たちに挨拶をすると、逃げるようにその場をあとにした。



 サディーナはジンと気安く声をかけられる間柄になれたと思っていたけれど、どうやらそれは錯覚だったようだ。
 あの日以降もたびたび、ふたりが立ち話をしていると、お節介な村人たちが生温かい視線を向けてきたり励ましの言葉をかけてきたりした。マライ村は小さな村であるが故に人との繋がりが密で、互いに互いの世話を焼きながら生きてきた。だから多少の過干渉には動じない。自分が仲良くなりたいと思った相手とは、堂々と仲良くなるのだと気に留めないようにしていたのだけれど。
 サディーナに話しかけられて、ジンは迷惑に感じているのではないだろうか……。
 そんな疑惑が心の中を巣くい、これまで躊躇なく話しかけていたけれど、声をかけるのに勇気を要するようになってしまっていた。

「偶然ね、カジャル。すっかり顔色が良くなったじゃない」
 その日は、朝から雨が降ったりやんだりしていた。天気が安定しないので畑仕事を早々に切り上げ、収穫した野菜のおすそわけに伯母の家を訪れていたが、その帰り道にばったりカジャルと会った。
「もうすっかり平気よ。心配かけてごめんね」
「元気になって安心したわ。でも、無理は禁物よ」
 先日第一子の妊娠が発覚した幼馴染のカジャルは、体調がすぐれずにずっと臥せっていた。それも随分落ち着いたようで、この間見舞いに訪れた際には家の仕事はできるようになったと言っていた。心配性の旦那もようやく外出の許可を出し、今は洗濯や畑仕事も少しずつ再開しているらしい。
「分かっているわ。妊婦の中には一時的に体調を崩す人がいるみたいだけど、時期が過ぎれば落ち着くらしく、今は食事もしっかりとれているから大丈夫よ」
「なら良かった。それにしても、カジャルもお母さんになるのね」
「そんなこと言ったら、イーシャはもう二児の母よ。未だに想像がつかないけど」
 カジャルの言葉に、本当ねとサディーナは相槌をうつ。隣村へ嫁いだイーシャはすぐに子宝に恵まれ、男児ふたりの母となった。よその村へ嫁げばそう簡単に里帰りできる筈もなく、元気でやっているらしいと風の噂に聞くだけだ。明るく社交的で、そして子守唄が誰よりも上手なお母さんだろう。それは断言できるねと、母になった幼馴染の姿を色々と想像しながら、サディーナとカジャルは頷き合った。
「子供たちも歌が上手いのかしら。いつか会ってみたいわね」

 そんな他愛もない話をしつつ、カジャルの体調を気遣ってそろそろ会話を切り上げようかと思った矢先に、道の向こうからジンがやって来るのが見えた。男衆で何か作業をした帰りらしく、ジンを含めた五人でぞろぞろと歩いて来る。
 彼らもサディーナに気づいたようで、男たちがこちらを見ながら何やら話している。何となく緊張してしまったけれど、それでも今までと同じでいたい気持ちが強くて、だから気にせず挨拶をしようとした。けれどもジンは、サディーナの方をちらりとも見なかった。
「サディーナ……」
 気遣わしげにかけられたカジャルの声に、ようやく我に返る。気づけばジンはとっくに通り過ぎて、大声を出さなければ届かないくらい先を歩いていた。
「サディーナ、大丈夫?」
「ねえカジャル、どうやったら普通に話せるのかしら……」
 思わず縋るように問いかける。その瞬間、ぽつりぽつりと再び空から雨粒が落ちてきた。

 素っ気ない会話が、結構楽しかったのにな。もともと話さなかったから元どおりになるだけなのだろうけれど、せっかく知り合いになれたのに何だか寂しい。雨を避ける為に駆け込んだ村の集会所の軒下で、雨音に紛れてそっとサディーナは打ち明けた。
「サディーナの今の気持ちを、そのままジンさんに伝えたら良いじゃない」
 じっと耳を傾けていたカジャルが、やがて静かにそう言った。
「でも、カジャルもさっき見たでしょう? わたしと話していると余計な詮索をされて、きっと煩わしいのよ」
「そんなの分からないじゃない。サディーナが煩わしいと思わないように、先回りして避けているかも知れないわ」
 避けられたことで否定的な気持ちになっていたので、カジャルの言い分にサディーナは目を瞬かせた。
「サディーナのことを心配しているのは確かだけれど、この村の人たちはお節介が過ぎるのよ。年頃になれば結婚相手を世話したがって、結婚すれば子供はまだかと心配する。子供ができてもきっと、ふたりめの話をするに決まっているのよ。だからサディーナは、周囲の意見に振り回されずに自分の気持ちを優先したら良いわ」

 幼馴染の中で最初から結婚相手が決まっていたカジャルは、一番早くに結婚した。だけどなかなか子宝に恵まれず、きっと周りから子供のことを言われていたのだろう。隣村に嫁いだイーシャはすぐに母親になったが、知らない土地で暮らす中で、様々な意見に翻弄される場面があるに違いない。多かれ少なかれそういうことはあって、だけど大切なのは自分の気持ちなのだ。
「カジャル、わたし行くわ」
「うん、頑張って」
 空を覆っている灰色の雲は、ぱらぱらと雨を降らせたらもう気が済んだのか、既に移動をしはじめて太陽の光がうっすら透けて見えるようになってきた。
「ありがとう、カジャル」
 サディーナは笑顔で幼馴染に礼を言うと、水溜まりを蹴って駆け出した。


「ジンさん!」
 サディーナの家と逆方向、山の入口にあるその家に着くと、ジンは家の前で農具の手入れをしていた。彼女が声をかけると、普段は表情を変えないジンがひどく驚いた表情を見せて、少しだけそれが可笑しかった。
「何の用だ?」
 けれども彼の言葉に温度が感じられなくて、一瞬たじろぐ。だけどこんなぎくしゃくした空気は違うと思うから、だから勇気を出して想いを言葉にした。
「わたし、もっとジンさんと仲良くなりたいです」
 今まで話す機会がなかったけれど、偶然言葉をかわし、少しずつ人となりが分かってきて。今はまだ、この気持ちが好意なのか興味なのか自分でもよく分からない。だけどもっと知りたい、もっと話してみたいと、そう感じているのだ。
「あんた、俺と一緒にいたら、村の奴らに勝手に嫁さん候補にされるんだぞ」
「気にしません。誰と何をしていても、人の目ってあると思うんです。そんなものを気にして窮屈な思いをするのなら、わたしはわたしが話したい人と会話を楽しみたい」

 そう宣言したサディーナの顔を、ジンが呆気にとられたように見つめる。そして声をあげて笑い出した。
「あんた、変な奴だな」
「そうでしょうか」
「お節介な奴らがあんたに絡むのがうっとうしくて関わらないようにしたのに。こんな所まで追いかけて来て、仲良くなりたいと正面切って宣言するんだもんな。ガキでもそんなこと言わねえぞ」
 こんな風に笑うのかと、見たことのない表情に嬉しくなってまじまじと見つめていると、サディーナの視線に気づいたジンはいつもの仏頂面に戻ってしまう。
「嫌なら言ってください。迷惑をかけるつもりはありません」
 まっすぐに見つめてそう言うと、ジンは表情を変えないまま、ぼりぼりと頭を掻いた。

「嫌じゃないさ」
 少し不本意そうに、ジンが言う。
「じゃあ、道で会ったらまた話しかけて良いですか?」
「好きにしろ」
 空を覆っていた雨雲はすっかり移動して、今は太陽が強い日差しを放っている。足元の草も眼前に広がる山々も、濡れた緑にきらきらと陽の光が反射していた。

   ***

 未婚の男女をくっつけようと画策する好奇心旺盛でお節介な村人たちは、その後もサディーナとジンが一緒にいるとからかったり呷ったりしてきた。けれども当の本人たちは照れるわけでも避けるわけでもなく自然体を貫きとおし、いつしかふたりが楽しげに会話をしていても、誰も何も言わなくなってしまった。

 やがて季節が一巡し、ふたりが一緒にいることがすっかりマライ村の日常の風景になった頃。サディーナの髪は素っ気ない麻紐ではなく、淡い青や黄や薄紅など、様々な色で編み込まれた髪紐で結わえられるようになった。一方ジンの髪に結ばれているのは、緑と黄緑の糸で複雑な文様が編み込まれたサティヤムだ。
 それはいつかの夏の日の、雨上がりの空に架かった虹の色であり、雨に濡れた草木の鮮やかな緑の色だった。


< 終 >



2020/06/22

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