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サティヤムを貴方



どう編むか迷う娘 3


「結局、編まなかったんだ?」
 ハオがイーシャの家を訪れた翌日、洗濯場でそう尋ねてきたのはカジャルだ。
「だって、好きな色も模様も知らないんだもん。まあ、仮に凝った柄が好きだと言われても編めないけどさ」
 サティヤムを編む際には何の決まりもないので、逆に個性が出る。相手の好きな色を編んだり、ふたりの思い出を柄に編み込んでみたり。相手の家に伝わる意匠を習って、その家に嫁ぐ喜びを表す場合もある。婚約者同士で共有する色んなものを編み込んで形にするのだけれど、イーシャは夫となる人の情報を持ち合わせておらず、どう編むべきか迷っていたのだ。
 だからサティヤムは渡さなかった。どうせ不器用だしねと自虐的な台詞でおどけると、カジャルもサディーナも否定の言葉をくれなかったので、今度は大袈裟に憤慨して見せる。そうして三人で顔を見合わせ、吹き出した。

「優しそうな人だったね」
「イーシャと雰囲気が似てた」
 ひとしきり三人で笑い合ったあと、サディーナが言った。彼女の言葉にカジャルも頷く。そんなふたりを、イーシャはじろりと睨んだ。
「まったく、ふたりとも野次馬なんだから」
 昨日ハオがイーシャの家に挨拶に訪れ、夕方帰る際に彼女は村の玄関口まで婚約者を見送りに行った。その途中でカジャルとサディーナに会い、紹介する羽目になったのだ。
「あら失礼ね。偶然よ偶然」
「野菜を洗いに行ったらカジャルがいて、その帰りにたまたまイーシャたちに会ったのよ」
「嘘ばっかり。洗った筈の野菜はすっかり乾いてたじゃないの」
 カジャルとサディーナが偶然会ったのか約束していたのかは知らないが、イーシャの婚約者を一目見ようと待ち伏せしていたに違いない。その証拠に、泥を洗い落とした野菜たちはすっかり乾き、水滴など残っていなかったのだから。そんなイーシャの追及にふたりは、昨日は風が強かったからすぐに乾いたの、などとしらばっくれている。
「カジャルもサディーナも、村の人たちもみんな暇なのかしら」
 実は、昨日イーシャが‘偶然’出くわした人は、何も幼馴染のふたりだけではない。老若男女を問わずやけに多くの人がうろうろと出歩き、イーシャに声をかけてきたのだ。好奇心丸出しの村人たちに対し、ハオは気さくに挨拶をかわしていたが、引かれていないか些か不安だ。
「みんなイーシャが好きだから、お相手が気になっていたのよ」
「村の人たちは皆、イーシャの親だったり兄弟の気分だからね。幸せになって欲しいと願っているんだよ」
 まあまあと、不貞腐れるイーシャを宥めるように、カジャルとイーシャが笑いながらそうとりなした。

「じゃあさ、カジャルとサディーナは彼のことどう思った?」
 同じ年に生まれ、物心がつく前からずっと一緒だったカジャルとサディーナ。親友であり、姉妹のようでもあるふたりは、ハオがイーシャを幸せにしてくれるか心配だったのだろう。果たして彼女たちのお眼鏡に適ったのか、イーシャはふたりに尋ねてみる。
「明るくて気さくで、イーシャとお似合いだったよ」
 ふたりは声を揃えて即答した。

   ***

 今日も空は青い。近所の家へ使いに出た帰り、ふと寄り道がしたくなったイーシャは、村で一番高い場所で一息ついていた。
 春は土を耕したり種を撒いたりと、一年でも忙しい季節だ。イーシャの家も一家総出で畑に繰り出していたが、農作業も一段落つき、ようやく繁忙期から抜け出した。そしてそれは、イーシャの婚儀が近づいているということを意味していた。

 村を一望できるこの場所には、幼い頃に年の近い子供たちとよく来たものだ。いつも坂道を駆け上がってここまでやって来るのは競争で、大概イーシャかラビが一等だった。そして親たちが働いている間、邪魔しないようここで遊んでいた。成長してからは家の手伝いもあるしあまり来ることはなかったけれど、今日は天気も良いし時間もあるし、何となく久しぶりに訪れたくなったのだ。
 眼下に広がるのは、イーシャが生まれ育った村。もうすぐここを離れるのかと思ったけれど、いまいち実感が湧かなくて、そのままごろりと寝転がった。柔らかな新芽の感触と匂いが子供時代を思い起こさせて、イーシャは深呼吸した。

 空を眺めながら、草の上に投げ出していた手を頭の下で組む。その時、髪の結び目に触れた。
 イーシャは長く伸ばした黒髪を、蔓草から作った紐で無造作に結っていた。冬がはじまる前に結婚したカジャルの髪は藍と白の髪紐で結わえられ、相手が決まった他の娘たちの髪も様々な色や文様で彩られていた。のそりと、イーシャは起き上がる。もう一度髪の結び目に触れると、そっと溜息をついた。
 ハオの村にはサティヤムの伝統はなくて、それは最初から分かっていたことで。だから仕方がない。そもそもイーシャは不器用だから、みっともないものを贈らずに済んで良かったではないか。そう自分を慰めてみても、他の娘たちの髪にどうしても目がいってしまうのだ。サティヤムの編み方は祖母や母から教わるのだが、少女たちは皆、未来の夫を想ってこっそり何度も練習する。そして結婚が決まった年かさの娘たちの髪を憧れの眼差しで見つめ、いつか自分もと夢見るのだ。
 だから仕方がない。少しくらい残念に思っても、羨ましげに誰かのサティヤムを眺めてしまっても、マライ村で育った娘としてそれは仕方のないことだとイーシャは言い訳をした。

 別にイーシャは、ハオとの結婚が嫌なわけではない。唐突すぎて驚きはしたが、父が気に入った人ならば大丈夫だろうという予感もあったし、躊躇う気持ちはなかった。実際に会うと気さくな人柄で、上手くやっていけそうだという気持ちが増した。
 いや本音を言うと、むしろ好みの男性だった。もともとイーシャは無口な人よりも口数が多い人が好きだったし、落ち着いた人よりもよく笑う人が良かったし、華奢な人よりも逞しい人に惹かれた。ハオはすべてに当てはまっていて、何よりもかけられた言葉が温かくて、話しかけられるたびにイーシャは胸の奥がむずむずするのをこそばゆく感じていたのだ。
 婚約者の笑顔も、声も。たった一度会ったきりなのでぼんやりと薄らいでいて、必死に記憶の中を探ってみる。そしてイーシャは、懐から橙色の髪紐を取り出した。

 誰にも内緒だが、実はイーシャはハオの為にサティヤムを編んでいた。
 自分は不器用だから、みっともないものを渡さずに済んだ。なんて嘯いてみたけれど。本当はハオが挨拶にやって来た際に準備していた。夫となる人のことは何ひとつ知らなくて、何色で編もうか、どんな柄にしようかと悩みながら。最終的にイーシャは橙色の糸を選び、彼女が一番得意としている柄を編んだ。
 だけど渡せなかった。マライ村では男性も女性も髪を伸ばしてひとつに結っているのだが、ハオの髪は短く刈り上げられていたからだ。あの髪では、サティヤムで結わえることはできない。そうして手元に残ったサティヤムを、イーシャは捨てることもできず、誰の目にも触れることなく懐に忍ばせていた。そしてそれが、イーシャの心に不安を植えつけていったのだ。

 ハオは優しくて気さくで、会ってすぐに好印象を抱いた。だから彼の元へ嫁ぐことを楽しみにしていたのに、時間が経って、いざ村を離れる日が近づくと、イーシャは怖気づいてきたのだ。
 隣村とマライ村は、半日あれば行き来ができる。けれども一旦嫁いでしまえば、そう簡単にマライ村へ帰ることはできないだろう。家族とも幼馴染とも、生まれた時から顔見知りの村人たちにももう会えないのだ。今までは実感が湧かなかったけれど、その事実がイーシャの心を侵食し、ハオの妻になる喜びよりも村を離れる不安の方が勝ってしまっていた。
 こんなことなら、あの時サティヤムを渡しておけば良かった。手の中の橙色をぐっと握り締める。本当はカジャルやサディーナが言ったように、マライ村の風習ですと言って気軽に渡すつもりだった。村の娘としては、サティヤムをもらえなくともせめて贈ることはしたかったからだ。それができなかったのは、ハオの髪が短かったせいもあるが、予想以上にイーシャがハオを気に入ってしまったことにある。だから下手なものを渡すことを躊躇してしまった。要するに、良く思われたいという欲が出たのだ。
 そうして手元に残ったサティヤムは、村を離れる寂しさを感じているイーシャに、違う世界へたったひとりで向かわなければならないと覚悟を強いてくる。髪紐を贈る風習もないし、髪型も違う。いざ生活をはじめたら戸惑うことがもっともっと出てくるだろう。そんな環境で、果たして自分は上手くやれるだろうか。結婚が決まった時は、誰にでもすぐに馴染める性格だからと楽天的に考えていたけれど、いよいよ婚儀が迫って来たら寂しさと不安ばかりが押し寄せてくるのだ。

 ああ、こんなの自分らしくない。気持ちを奮い立たせるように、イーシャはすっくと立ち上がる。
 そして村を見下ろし、村で歌い継がれている種蒔きの歌を口ずさんだ。歌い終わると次は夏の雨乞いの歌、秋祭で独唱した豊穣に感謝する歌、冬に機を織りながら歌う歌。知っている限りの歌を歌いあげる。やがてすべてを歌い尽くし、イーシャが一番好きな春の訪れを喜ぶ歌を歌っていると、坂の下からイーシャの名を呼ぶ声がした。
「イーシャ、お客さんだよ!」
 はっと我に返り声の方を見やると、幼馴染のカジャルがこちらに大きく手を振っていて、なぜかその隣にラビもいた。ふたり揃ってどうしたのかと思ったら、ラビの後ろに大きな人影が見えた。
「やあ、イーシャ」
 そう言って短く髪を刈り上げた男が、にこにこと笑いながらこちらに向かって手をあげた。



「いやあ、マライ村までの道は分かるけど、イーシャの家までどういけば良いか忘れてしまってな。村の入口で思案してたら、たまたま通りかかった彼女が声をかけてくれたんや」
 イーシャの戸惑いをよそに、突然現れた婚約者は、坂を下りて行くカジャルとラビの背中を眺めながらそう説明した。用件は分からないが、ハオはイーシャに会いに来て、けれども一度訪れただけの彼女の家を覚えていなかった。そこで道を尋ねようとしたところ、偶然居合わせたのがカジャルだったということらしい。
「あたしがここにいると、よく分かったね」
「家まで行ったら留守で、そうしたら歌声が聞こえてきたんや。それで彼らは、この場所だと見当をつけたらしい」
 そうかと相槌を打ちながら、イーシャは手の中の橙色の髪紐を握り締めた。ハオは何故、突然やって来たのだろう。そんなイーシャの当然すぎる疑問は彼にも通じたらしく、彼女に向き合うと改まったように口を開いた。
「イーシャにこれを渡したかったんや」

 ハオがイーシャの目の前で手を開いて見せると、まめだらけの大きな掌の上に橙色の糸で編まれた紐がのっていた。
「これは……?」
 編み目は不揃いでお世辞にも綺麗とは言えなかったけれど、それは正真正銘のサティヤムだった。けれど、どうしてハオが持っているのか。そしてそれはイーシャが編んだ色とまったく同じで、思わず自分の手の中のものが移動したのではないかと存在を確認してしまう程だった。
「うちの村にスニタ婆さんという人がいてな。小さい子供でも容赦なく叱るおっかない婆さんなんやけど、俺がイーシャを嫁にもらうという話を聞きつけて、サティヤムは贈ったのかと詰め寄って来たんや。何のことか意味が分からなくて尋ねたら、マライの娘をもらうのにサティヤムを渡さないとは何事かと怒鳴られてさ」
 そう説明すると、真面目な表情でおっかなかったと身震いしている。若いイーシャは面識がないので知らなかったが、大昔にマライ村から隣村へ嫁いで行ったスニタ婆さんという女性がいるらしい。そのおばあさんにとってもサティヤムは特別なもので、慣習の違いで贈り合うことができなかったことを今でも心残りに感じ、同様にマライ村から嫁ぐイーシャのことを気にかけてくれているというのだ。

「スニタ婆さんに教えてもらって編んでみたんやけど、俺は不器用やからさ。こんな不格好なのしかできんかったわ」
 あまりにも予想外の展開に、ぼりぼりと頭を掻いているハオと彼の編んだサティヤムを、イーシャは惚けたように見つめるしかできない。
「やっぱりみっともなさすぎるか。幼馴染のカジャルやっけ? あの子が結ってたのは見事やったもんなあ」
 驚きのあまり思考が停止していただけなのに、イーシャが反応しないせいでハオは不安になったようだ。大きな掌を再び握って橙色の髪紐を隠してしまおうとしたので、イーシャは慌てて彼の太い手首を掴んだ。
「いや、あれは別格だから。あんなの村の誰だって太刀打ちできないよ」

 ラビがカジャルに贈ったサティヤムに編み込まれているのは、長の家に代々伝わる文様だ。その複雑な文様を編むのはラビが器用というのもあるけれど、カジャルへの想いの深さでもある。今日だってふたり揃ってハオを案内してくれたのは、愛妻を知らない男とふたりきりにしたくなかったからついて来たに決まっているのだ。紆余曲折あったものの今では村一番の似合いの夫婦で、そんなふたりをイーシャは羨ましいと思っていたけれど、どうやら自分たちもカジャルとラビに対抗できるくらの夫婦になれそうだ。
 先程まではあんなにも不安な気持ちが心を占領していた筈なのに、今は頭上に広がる青空のように、イーシャの心は晴れ渡っていた。
「ねえ、これで髪を結わえて欲しい」
 サティヤムを贈り合う際、互いの髪に結わえてはじめて婚約者となる。イーシャは胸を高鳴らせながらくるりとハオに背を向けた。茶色の素っ気ない紐の上からハオがぎこちない手つきでもって、鮮やかな橙色の髪紐を花結びにする。
「俺、イーシャとは一度しか会ったことがなくて、好きな色とかも全然知らなくて。だけど、スニタ婆さんに色んな糸見せてもろて、すぐにこれだって決めたんや」

 春の風が吹き抜け、足元の緑がさわさわと騒ぐ。ハオの言葉に、イーシャの心も騒いだ。
「俺の村からマライ村は日の出の位置にある。毎朝畑に出る時に朝日が昇るのを眺めながら、イーシャが嫁いで来る日を楽しみにしてた。だから迷わず、朝日の色に決めたんや」
「あたしも!」
 ハオの言葉に弾かれたように振り返ったイーシャは、真っ赤な顔で婚約者を見上げた。
「あたしも一日の仕事が終わった時、夕日が沈む方角を眺めながら、ハオのことを想っていた。だからあたしは、夕日の色を選んだの」
 そう告げると、イーシャはハオの手をとり、その太い手首に橙色のサティヤムを結んだ。

「長さ、中途半端だね」
「構わんさ」
 もともと髪に結わえる為に編んだものなので、一重にすれば余り二重にすれば足りず、中途半端な長さは不格好だったけれど。日に焼けた手首に巻かれたサティヤムを眺めて、ハオは嬉しそうに笑ってくれた。
「同じ色を選ぶなんて、似合いの夫婦になれそうやな」
 もともと垂れ目の婚約者は、笑うと目尻が下がって一層優しい表情になる。くすぐったい気持ちになってこくりと頷くと、イーシャの指にハオの手が触れた。
「なあイーシャ。嫁いで来たらうちの村の歌を全部教えるから、歌って聴かせてくれな」

 旋律や歌詞は、マライの歌に似ているのか、それともまったく異なるのか。
 新しい歌を覚えることが楽しみだと、イーシャはわくわくしながら頷いた。彼女の手を包む大きな掌はまめだらけで硬く、けれどもほっとするくらい温かかった。



2020/06/08

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