サティヤムを貴方に
どう編むか迷う娘 2
「イーシャ、あんた嫁ぎ先が決まったんだって? おめでとう」
「ありがとう」
「隣村へ嫁ぐんだってな。おまえさんがいなくなったら、祭が盛り上がらないじゃないか」
「じゃあ、祭の日には里帰りさせてもらおうかな」
イーシャが隣村へ嫁ぐという話は、瞬く間に村中に広がった。先日から、会う人会う人に声をかけられる。
「イーシャがいなくなるって、村の皆が寂しがってるよ」
春になると、女たちは山で山菜を採る。イーシャたち幼馴染三人も、午後から山に入っていた。サディーナは必要な分に達したのだろう。山菜が入った籠を置いて、太い木の根に腰かけながらおもむろに口を開く。少し離れた場所にいたカジャルも、彼女の言葉に手を止めると頷きながら言葉を繋いだ。
「わたしも何人かに、イーシャのことを聞かれたわ」
「やだ、人気者は困るね。いつも祭で張り切って歌ってたから、皆に祭の心配ばかりされるんだけど」
そうやって軽口で返すと、イーシャはけらけらと声をあげて笑った。
イーシャは昔から、歌うことが得意だった。子供の頃はいつもどこでも歌っていて、それが村人たちの耳に届き、ここ数年は秋祭で収穫に感謝する歌の独唱を任されている。そんな彼女だから村ではちょっとした有名人で、今回の結婚を祝ってくれたり寂しがってくれたりするのだ。
「それにしても、急な話でびっくりしたわ」
「嫁ぎ先が隣村ということにもね」
父が結婚話を持ち帰った翌日に、カジャルとサディーナにはイーシャの口から直接報告をした。あの時の驚いたふたりの顔ときたら、今思い出しても笑ってしまうと、イーシャはこっそり肩を震わせる。
「あたしが一番驚いたわよ。一宿一飯の恩に、結婚話をまとめてきたと言うんだから」
せいぜい恩に報いられるよう頑張るわ。そう言ってあっけらかんと笑うと、カジャルとサディーナは顔を見合わせた。
別に強がりというわけではなく、イーシャは今回の結婚に対して、何ら否定的な感情を抱いていなかった。
もしも今好きな相手がいるならば、それはもう悩み悲しむだろうけれど、幸いにもイーシャには好意を寄せている相手はいない。以前は、近所に住む兄の友人のことが好きだったのだけれど、妹のように可愛がってもらってはいたものの、残念ながらそれ以上の存在にはなれなかった。しかし、実らなかった初恋の痛みも今は消え、新婚のカジャルの幸せそうな様子にあてられてもいて、誰か良い人はいないかと思っていた矢先だったのだ。
もちろん、家族や幼馴染、村の人たちと離れなければならない寂しさはある。だけど元来の楽天的な性格から、新しい環境でも楽しくやっていけるだろうという気持ちの方が勝っていた。
「イーシャのおじさん、余程相手の人のことを気に入ったんでしょうね」
「確かに助けてもらった恩もあるだろうけど、それだけであんなにも可愛がっていた娘を簡単に手放せるわけないものね」
カジャルとサディーナの言葉に、イーシャは苦笑気味に頷く。結婚話に否定的でない理由は、ここにもある。
人より行動力があって驚かされることの多い父だが、基本的に家族が大好きで、娘のイーシャのことも半端な男の元にはやれないと常々公言していた。そんなにもったいつけていたら、いつまでたっても相手が見つからないじゃないかと嘯いてみるものの、大切にされてくすぐったい気持ちになっても悪い気はしない。
「野生の勘みたいなのが働いたんじゃないかな。うちの父さん、何かそういうの強そうだから」
だから会ったこともない相手に対して、自分でも不思議なくらいに抵抗がなかったのだ。
「それで、サティヤムはどうするの?」
そう尋ねてきたのはカジャルだ。そんな彼女の髪は、夫のラビが藍と白の糸で編んだ髪紐が結われている。
マライ村では、結婚が決まるとサティヤムと呼ばれる髪紐を互いに贈り合う。婚約者となる相手を想いながら編んだそれで髪を結わえ、婚礼の日を待つのが昔から伝わる風習なのだ。婚儀を終えてもそのまま結っている夫婦もいれば、新しいものを揃いで編み直す夫婦もいて。要は、サティヤムで髪を結っている者には決まった相手がいるという、云わばしるしだ。
「ちょっと迷ってるの。隣村ではそんな習わしはないらしいから」
聞いた話によると、サティヤムはマライ村独自の風習らしい。隣村は言葉も生活習慣もほぼ同じとのことだが、サティヤムを贈り合う文化だけはないようだ。
「別にサティヤムの風習がなくたって、マライではこんな伝統があるんですって贈ってみるのもありじゃない?」
「そうよ。婚約者から美しい髪紐を贈られたら、嬉しいに違いないもの」
「美しいサティヤムを編めるのは、カジャルとサディーナだからでしょうよ。あたしは不器用だから、そもそも大したものが編めないことを悩んでいるの!」
ふたりの言葉に、イーシャはそうむくれて見せる。繊細な色の変化をつけて編むカジャルと、精巧な文様を編み込むサディーナと。ふたりに比べるとイーシャは昔から不器用で、サティヤムの存在を知らない人にわざわざそんな出来の悪い物を渡す必要はない気がするのだ。
「それに、相手のこと何も知らないから、どう編んで良いか分からないし……」
長い冬が終わり、村には今ようやく春が訪れていた。柔らかな日差しが降り注ぎ、暖かな風がそっと吹き抜けてゆく。可憐な花が蕾を膨らませ、小鳥が競うように囀っていた。
「そうね」
サディーナは小さく頷き、そのあとに、でもねと続けた。
「もし編むのなら、色んな糸が揃ってるから言って頂戴。イーシャの好きな色を分けるわ。練習するというなら一緒に付き合うし」
「特訓ならわたしも付き合う。イーシャは歌と踊りは上手いけど、機織りも裁縫も、じっとしているのが苦手でよく逃げ出していたものね」
サディーナの申し出に賛同しつつ、カジャルがそうからかってくる。彼女たちに特訓してもらえばイーシャでもそれなりのものができそうだが、その前に指導が厳しそうで怖い。だから遠慮しておくわと告げると、ふたりは心外だなあと頬を膨らませた。そこでふと思い出したように、サディーナが問いかけてくる。
「お相手とは、いつ会えるの? 一度はこちらに挨拶に見えるんでしょう?」
「十日後に来る予定。そこで正式な婚儀の日取りを決めるんだって」
「そう。イーシャの旦那さん、どんな人か楽しみね」
きっと良い人だよ。淡く霞んだ空を見上げ、そう呟いた幼馴染の言葉に、あたしもそう思うとイーシャはあっさり同意した。
***
その日は、朝から雲ひとつない青空が広がっていた。そして太陽が真上まで昇った頃、いよいよイーシャの婚約者とその父が、贈り物を携えてマライ村へやって来た。
「やあやあ、遠い所をようこそ」
先日生まれた子ヤギのように、朝からそわそわと落ち着きのない様子を見せていたイーシャの父だが、何とか家長らしい威厳でもってふたりを出迎える。その隣では母が、先日父を助けてもらった礼を述べていて、そんな両親の様子をイーシャはそっと見守っていた。
「はじめまして」
ハオと名乗った青年は、がっちりとした体躯に似合わず、子供みたいに笑う男だった。親同士が挨拶をかわす傍らで、どんな人だろうかという興味と不安が半々でじっと観察していたら、そう言ってにかっと白い歯を見せた。そこでようやくイーシャも名乗り、よろしくと言って頭を下げると、ハオも大きな体をふたつに折った。
「突然の話でびっくりしたやろう?」
「ええ。父には昔から驚かされてきて、ちょっとやそっとじゃ驚かない自信はあったけど、久々にびっくりしたわ」
「だよな。あれよあれよと話が決まって、こんなに上手い話があって良いのかと、あれから毎朝夢じゃないかと頬をつねるのが日課になったさ。俺は嫁さんもらえて良いことずくめやけど、イーシャは家族や友達と離れないかん。心細いかも知れんけど、俺と親父はもちろん、村の者も皆イーシャが来ることを楽しみにしているから」
ハオの言葉に、イーシャの戸惑いや不安が少しずつ溶けてくる。婚約者ふたりが和んだのを見て、イーシャの父が嬉しそうに口を挟んだ。
「うちのイーシャは明るくて働き者で、ちょっとおっかないけど、でも歌を歌わせたら村一番の自慢の娘なんでよろしく頼むよ」
「ちょっと父さん、一言余計よ!」
「ほら、おっかないだろう?」
そう言って父が肩を竦めると、向かいに座る父子は声をあげて笑う。隣で母と兄も苦笑いを浮かべ、兄嫁はにこにこと嬉しそうに酒を注いで回る。小さな家の中には祝福の空気が満ちてきて、ああこの人と結婚するんだという実感が、イーシャの中で少しずつ湧いてきた。
母と兄嫁が準備した料理を平らげ、両家がすっかり打ち解けた頃、イーシャの夫と舅になるふたりが暇乞いをした。父親同士で相談した結果、イーシャがハオの元へ嫁ぐのは、種蒔きなどの農作業が一段落つく一ヶ月後に決まった。
「じゃあイーシャ、待ってるな」
父に促され、イーシャは婚約者を村の玄関口まで見送りに来ていた。やがて別れ際に、足を止めて向き合ったハオがそう告げる。
「あの……」
不意に、春の風が吹きつけた。山あいにあるマライ村では、季節に関わらず山の頂から時折強い風が吹き下ろす。イーシャが長い髪を押さえながら見上げると、強風にどっしりと構えたハオは微塵も煽られることはなく、その髪すらも短い為になびかせることはなかった。
「気をつけて」
一瞬胸元あたりを彷徨った手を、そのまま頭の横で大きく振って、イーシャは笑顔で婚約者を見送る。片手を上げて応えたハオは、少し傾きかけた橙色の太陽に向かって帰って行った。
2020/06/07