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こぼれたミルクのし方



2. 夏の宴


 週が明けると、梅雨も明けた。まるで梅雨明けを待ち構えていたかのように、蝉が一斉に鳴き始める。
 夏の挨拶には無意識のうちに「暑い」がセットになっていて、出勤して来る人たちが口々に暑い暑いと言っている。そんな先輩たちの挨拶に応えながら、始業前の準備としてコピー用紙の補充をしていると、課長が背後から声をかけてきた。
「新山さんも随分と慣れてきたようですし、今週から精算業務も任せようと思います。詳しいことは水曜日に説明しますから、そのつもりでいてくださいね」
 課長は優しい話し方そのままに、人柄も優しい。前任の松永さんが抱えていた仕事をいきなり全部わたしに振るのは大変だろうと、その一部を一時的に課長が引き受けてくれていた。三ヶ月が過ぎてようやく基本的な業務に慣れてきたので、どうやらそれらも任せてもらえるらしい。社歴が違うとは言え、松永さんがひとりでやっていたことをできていないというのは心苦しくて、だから課長の言葉に思わず張り切って答えてしまう。
「分かりました。宜しくお願いします!」
「頼みますよ」
 わたしの返事に課長は微笑むと、自分の席に戻って行った。よし、頑張ろう。気合を入れて、わたしも仕事を始める為に自分の席に着く。その時、総務課の内線電話が鳴った。ワンコールで優花が受話器をとる。相手は気心知れた人のようで、優花は時折笑い声をあげながら砕けた口調で話している。そんな彼女の横顔を、わたしは離れた席からそっと見つめていた。


 先週末、馬鹿男の失礼な発言を聞いたあと、優花は何も言わなかった。ほんの一瞬哀しげに表情を歪め、彼らの声がエレベーターの中に消えるのを待ってから、何事もなかったようにエレベーターホールに向かう。あとに続いたわたしはどう声をかけて良いのか分からず、隣で黙ってエレベーターが来るのを待っていた。
 ――きっと言葉のあやだよ。
 沈黙が重くてそう声をかけようか迷ったが、白々しすぎて止めた。橋本という男の名前を教えられたばかりで、それ以外は顔すらも見ていないのだ。そんな人物が発した言葉の真意なんて、分かる筈がない。何より、わたしは彼の失礼な発言に腹を立てていた。
 橋本は優花のことを、地味だと評した。確かに優花はいつもナチュラルメイクだし、服装もモノトーンばかりだ。わたしたちの会社に制服はなく、男性と営業職の女性はスーツで、内勤の女性はオフィスカジュアルだ。特に明確なルールがあるわけではなく、派手すぎず肌の露出が多くなければ基本的にはある程度のお洒落が許されていた。なので明るい色の服を着ている人もいるが、わたし自身も無難な色合いの服をいつも選んでいるし、控え目な服装の人はたくさんいる。そもそも「地味」と「清楚」、「派手」と「華やか」は人によって感じ方が変わるものであり、そんな主観的な言葉を容易に発する馬鹿さ加減にわたしは心底呆れていて、庇う気が起こらなかったのだ。
「そう言えば、会計士の先生からお中元の水ようかんが届いたの。たくさんあるから、おやつに総務さんにも配るね」
 結局、部外者のわたしが何を言うのも違う気がして、どうでも良い話題を無理矢理に探し出す。ガッツポーズで喜んで見せる優花に、わたしは何も気づいていないふりをして笑うことしかできなかった。

     ***

「これが今週分の申請書です。今回は既に部長の確認印を頂いていますので、申請者が取りに来たら金額を確認してもらって、ここに受け取りのハンコをもらってください。来週からは新山さんが申請書類一式に不備がないかを確認して、部長に回すようお願いします」
 水曜日は朝から、課長に新しい業務の引継ぎを受けた。この会社では現金精算の申請の締め切りを金曜日、支払いを水曜日に指定しているらしい。それらの業務がわたしの担当になったのだ。
「午後二時から四時までを支払い時間と定めていますので、水曜日のその時間は予定を入れず、席にいるようにしてくださいね」
「分かりました。ありがとうございます」
 わたしは課長から書類と手提げ金庫を受け取ると、早速準備を始めた。申請者は外出の多い営業部の人たちが殆どで、出張費や交通費の申請が大半を占めている。間違えないように注意深く現金を数えながら申請者ごとに封筒に分けていたわたしは、ふと一枚の申請書で手を止めた。それは、営業一課の橋本一哉が申請したものだった。
 再び不快な気持ちを思い出し、わたしは複数の領収書が綺麗に糊づけされた添付書類を睨みつけた。皆忙しいのか社内の書類は雑なものが多いのだが、意外にも彼の申請書はきっちりと整えられていた。あんな無神経な発言をする人間だけど、仕事はきちんとやるんだ。わたしは心の中で悪態をつくと、乱暴に小銭を数えて封筒に放り込んだ。午後に橋本が現金を受け取りに来た時に、果たしてわたしは普通の対応ができるだろうか。ちらりと優花の方を見やると、彼女はいつもと変わらない様子でパソコンに向かっていた。

 結局、本人を前に不快の念を表さずにいられるかという心配は、杞憂に終わった。営業部の人たちが申請していた分は、一課と二課それぞれの営業事務がまとめて受け取りに来たのだ。この時間、営業は外出や打ち合わせをしていることが多く、考えてみれば当然だった。ひとり相撲で馬鹿みたい。わたしは何だか疲労を感じ、すべての精算処理を終えると席を立った。
「お疲れさまです」
 エレベーターホールの脇にあるトイレに行くと、ちょうど手を洗っている人がいた。挨拶をして軽く頭を下げると、鏡の中で目が合った。淡いピンク色のフレアスカートと白のブラウスのフレアスリーブが女性らしく、可愛らしい顔によく似合っている。どこの部署の人だろうか。そんなことを考えながら彼女の後ろを通り過ぎようとすると、不意に声をかけられた。
「お疲れさまです。新山さんだよね?」
「は、はい……」
 わたしの業務は関わる人が限られていて、他部署の人の顔と名前がまだ全然一致していない。昼休みに休憩室で見かける人のうち何人かは優花に紹介してもらったが、彼女の姿は休憩室で見かけたことがないと思う。それとも、どこかで挨拶したけれど忘れているのだろうか。頭の中で慌てて記憶の引出しを開けていると、可愛らしいその人が手を拭きながらこちらに向き直った。

「優花の同期で、広報の大石舞です。よろしくね」
「経理の新山美沙です。よろしくお願いします」
 ああ、この人が優花の同期のひとりか。わたしは安心して、ほっと息を吐いた。
「同い年だから、敬語使わなくても良いよ。それより、優花から飲み会の話聞いてる?」
「あ、はい。今週か来週あたりに開く予定と……」
 大石さんの質問にわたしは頷く。そう言えば、優花はどうするつもりだろう。橋本と距離を置くとすると、せっかく団結している同期の空気が悪くなるだろうし、だけどあんな失礼な発言を聞いて何も知らないふりをするのも辛い。そこでわたしは、ふと気づいた。もしかしてあの馬鹿男は、大石さんと優花を比べていたのだろうか。
 目の前の大石さんは華やかな服装だし、長い睫毛にはたっぷりマスカラがのせられて、マロンブラウンの髪も綺麗に巻いている。ちらりと視線を落とすと、ハンカチを握っている手にはばっちりネイルも施されていた。大石さんの女子力は満点で、この人と比べられると大概の人は地味という評価になってしまうだろう。わたしがそんなことを考えていると、大石さんが言葉を繋いだ。
「来週の金曜日に決まったの。お店はあとで優花に知らせるから、現地集合でお願いね」
「了解です」
「えへへ、いっぱいしゃべろうね。優花から話聞いていてずっとしゃべってみたかったけど、なかなかチャンスがなかったから、新山さんが参加してくれるって聞いて楽しみにしてるの」
 大石さんは、見かけだけでなく中身も可愛い人だ。気さくにそう笑いかけてくれて、気が楽になる。
「なかなか他部署の人と話す機会がないから、誘ってもらえて嬉しいです。じゃなくて、嬉しい。こちらこそ楽しみにしてるね」
「優花が言うとおり、新山さん良い人だ。ああ、早く来週にならないかなあ」
 そう言ってふんわりと笑うと、大石さんは仕事に戻って行った。


 結局、優花はあの日のことに何も触れないまま、飲み会の日がやって来た。
 定時に仕事を終えた優花とわたしは大石さんと合流し、彼女が予約してくれたレストランに向かった。職場の最寄り駅の少し先にある川沿いのレストランは、今の時期はビアガーデンを開催しているらしい。メイン料理はスペアリブと聞いて、優花のテンションが一気に上がる。川を臨むテラス席に案内されたわたしたちは、早くビールが飲みたいスペアリブが食べたいとはしゃぎながら、男性陣の到着を待っていた。
 約束の時間ぴったりにやって来たのはIT部の田島さんで、眼鏡の真面目そうな人だった。続いて営業二課の峰岸さんと企画部の佐野さんが、偶然店の前で一緒になったと言って連れ立って入って来た。峰岸さんは何かスポーツをやっているのかスーツを着ていても分かるくらいにがっしりとしていて、佐野さんは温厚で優しそうな雰囲気だ。
「はっしーは営業先から直帰してこっちに向かうつもりみたいだけど、少し遅れるってさ」
 まだ到着していないのは例の橋本のひとりだけだが、どうやらグループトークでメッセージが届いたらしく、向かいの席の佐野さんがトークに入っていないわたしにそう説明してくれた。会ったこともないのに一方的に心象が悪い橋本が遅れると聞いて、わたしは何故だか少しほっとした。
「じゃあ、先に始めよう! はっしーなんか待ってられないよ」
 隣でそう言ってメニューを眺める優花の言葉を、わたしは思わず深読みしてしまう。当人はスペアリブ楽しみだなあと呟きながらにんまりしていて、周りの人たちは肉好きの優花がスペアリブを待ち切れないのだと信じて疑っていないようだった。
「始めよう始めよう。俺も喉が渇いたわ」
「早くビール飲みてえ!」
 今日も朝から蝉が鳴き続ける真夏日で、しかも一週間の仕事を終えた金曜日だ。こんな日はビールが旨いに決まっていて、皆の気持ちはすっかりそちらに傾いていた。

「では、同い年メンバーに新山さんが加わったことに乾杯!」
 白い霜のついたグラスを片手に、本日の幹事である大石さんが乾杯の音頭をとる。宜しくお願いしますと小さく頭を下げながら、わたしは皆とグラスを合わせると冷えたビールを呷った。いつの間にか周囲は夜の色に塗りつぶされていたけれど、川の向こうだけは沈んだ夕日の名残のオレンジ色が滲んでいる。日中は日差しがきつく気温が上がったが、湿度は低かったので日が落ちると幾分涼しくなった気がする。時折川の方から吹く風が気持ち良くて、キンと冷えたビールが最高に旨かった。
「美沙、スペアリブ美味しいよ」
 優花が指についたソースをぺろりと舐めながら、ジューシーな照りが食欲をそそるスペアリブを勧めてくる。先程からずっと気になっていたので早速かぶりつくと、甘辛い味付けは骨のあたりまで染みていて、わたしはソースの味と肉の旨味を堪能する。ビールとベストマッチだと心の内で称賛しながら、泡が小さくなってしまった琥珀色の液体をぐびりと飲んだ。
 率直に言って、楽しかった。一番親しい優花でさえまだ知り合って三ヶ月で、大石さんとは先日少し話しただけ。男性陣に至っては今日が初対面という状況で参加した飲み会だったけれど、全員が同い年という気安さもあり、とても居心地が良かった。皆同じ会社に勤めているので話題の大半が職場ネタだけれど、誰かの陰口だったりというネガティブな話題はなく、自分の部署の面白エピソードの紹介合戦に徹していた。わたしは登場人物の殆どを知らないけれど、優花や大石さんがわたしに気遣って補足してくれたし、そもそも細かいことが分からなくてもそのネタが純粋に面白くて涙が出るくらい笑っていた。

「はっしーの奴、駅に着いたって」
 ふと会話が途切れ、おもむろにシャツの胸ポケットから取り出したスマホを一瞥すると、峰岸さんが言った。ずっと笑い続けていたわたしは、そこで一瞬冷静になった。いよいよ橋本が来るのだ。せっかく楽しい雰囲気だったから、もう来なくても良いのに。なんて、ひどく勝手なことを考える。今いる人たちは皆良い人ばかりで、だからわたしたちがあの日聞いてしまった彼の失礼な発言は、知らないふりをして今日を楽しい雰囲気で終えるのが大人というものだ。わたしは二杯目のビールを飲み干すと、ふっと息を吐いた。
「はっしー、こっちこっち!」
「悪い、遅くなった」
 その瞬間、店員さんに案内される同期の姿を見つけた大石さんが手を振る。脱いだ上着を手にしたサラリーマンが、テーブルの間を縫ってテラス席までやって来る。軽い調子で仲間たちに謝るその声は聞き覚えがあって、わたしは眉間に皺が寄りそうになるのをぐっと堪えた。
「新山さんだよね? 営業一課の橋本です。これからよろしく!」
 快活にかけられた声にわたしは立ち上がると、彼の方に向き直った。わたしの目の前には、短髪でくっきりした目元の男が、ネクタイを少し緩めながら立っていた。
「はじめまして、経理の新山美沙です。よろしくお願いします」
 わたしは渾身の愛想笑いで、橋本一哉に挨拶をした。



2019/04/02

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