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こぼれたミルクのし方



1. 馬鹿な男


 彼の第一印象は、馬鹿な男。
 二度目の印象も、やっぱり馬鹿な男だった。

     ***

「美沙、お昼行けそう?」
 わたしが請求書の作成を終えたタイミングで、背後から遠慮がちに優花が声をかけてきた。
「うん、行く。これだけ処理したらすぐに追いかけるから、先に行ってて」
「じゃあ、席とってるね」
 そう言うと、ネイビーの手提げバッグを持った優花は他の同僚に声をかけて出て行った。わたしは作成したばかりの請求書に間違いがないか再度確認し、それらに角印をもらう為、上司の席にある書類トレーに提出する。先程昼食から帰った経理課長が目を通し、わたしが昼休憩を終える頃には押印済みの請求書が戻って来ているだろう。午後からは封筒に宛名ラベルを貼って、発送の準備をする予定だ。
「休憩いただきます」
 先に昼休みを終えた人たちにそう告げると、わたしは優花のあとを追って会社の外に出た。

 午後一時を過ぎたオフィス街には、強い日差しが照りつけていた。ああ、日焼け止めを塗り直しておけば良かった。真上にある太陽が作る影の面積は小さくて、優花が待つ定食屋まではほぼ日影がない。わたしは額の上に手をかざして庇を作ると、小走りで横断歩道を渡った。
「あれ、早かったね」
 一番奥の席に座ってメニューを眺めていた優花の向かいに座ると、彼女は少し驚いた表情を見せ、それからにこりと笑った。店内は冷房が効いていて、額に滲んだ汗がすっと引いてゆく。
「うん。日焼け止め塗ってないのにあまりにも日差しがきついから、小走りで来た」
「今日の天気は完全に夏だよね。そろそろ梅雨明けかな」
「たぶんね。ところで優花はメニュー決めた?」
 わたしが勤める会社からすぐのところにあるこの定食屋は、ボリュームのあるメニューが手頃な料金で食べられるので、ランチタイムは近隣のサラリーマンやOLでいつも賑わっている。平社員の安月給では毎日外食はできないので弁当を持参しているけど、週の終わりの金曜日だけ、一週間頑張ったご褒美としてここへやって来るのだ。
「チキン南蛮にする。美沙は?」
 華奢な見かけによらず、優花は肉好きだ。全体的にどのメニューもボリュームがあるけれど、タルタルソースがたっぷりかかったチキン南蛮は特にがっつり系で、だけど優花はいつもぺろりと平らげてしまう。
「わたしは豚の生姜焼きにしようかな」
 そう答えると、わたしは注文する為に軽く手を上げて店員さんを呼んだ。

「美沙は、月次処理落ち着いた?」
「うん。書類一式は昨日課長に提出したし、請求書も今日すべて発送する予定。だから来週は少し落ち着くかな」
「良かった。もうすっかり慣れたみたいだね」
 わたしがそう説明すると、優花は安心したように微笑んだ。
「まだまだだよ。でも、松永さんが分かりやすいマニュアルを残してくれていたから、一通りのことはだいぶできるようになったかな」
 わたしがこの会社に転職したのは、三ヶ月前の四月のことだ。それまで長年経理課にいた松永さんが退職することになり、その後任としてわたしが採用されたのだ。
 前職でも経理課にいたので経験はあるものの、細かいやり方は会社によって異なるので、最初は覚えることだらけで大変だった。経理の仕事は大きく日次業務と月次業務に分かれていて、日次業務は松永さんが退職されるまでの引継ぎで何とかなったけど、月次業務は直接教えてもらえなかったのでもう必死だ。幸い導入している会計ソフトが前職と同じだったことと、何より松永さんが分かりやすいマニュアルを残してくれていたことに随分と助けられた。先々月と先月はかなり月末月初に残業してしまったが、今回は少し慣れてきて要領よく進められたと思う。

「そうだ、近々同期会を開く予定なんだけど、良かったら美沙も参加しない?」
 ランチタイムのピークを過ぎた店内の客はまばらだ。いつも愛想の良いおばちゃんが運んでくれた生姜焼き定食を味わっていると、ふと思い出したように優花がそう尋ねてきた。
「同期会?」
「うん。わたしを含めて同期は六人いるんだけど、実はひとりも退職していないんだ。入社後の研修で仲良くなって、それぞれの部署に配属されてからも定期的に飲み会開いてるの」
「えっ、五年目だよね!? その間、同期六人がひとりも辞めないってすごくない?」
 優花はさらりと説明したけれど、わたしは驚いて思わず声のトーンが上がってしまった。終身雇用が常識だった時代ならいざ知らず、転職が珍しくなくなったこの時代に、新卒全員が五年も辞めずに続いているなんてかなりレアだろう。実際、わたしが新卒で入社した時の同期には三ヶ月で辞めた子がいるし、わたし自身も丸四年で辞めてしまったのだから。
「仕事の悩みって、仕事内容や人間関係を知らない友達にはどうしても理解してもらいにくいところがあるでしょう? でも同期なら、同じ会社だから色々と分かってくれるし、だけど部署は違うから客観的な意見も言ってくれる。性格は皆ばらばらだけど、真面目な話もふざけた話もできる大切な仲間なんだ」

 きっと互いの存在が刺激になって、ここまで頑張ってきたのだろう。そんな関係性は純粋にすごいと思うが、逆に団結していそうで、誘われても少し入りにくい。わたしも社会人五年目になるのでそれなりに社交性は身につけているつもりだけれど、職場で積極的に交友関係を広げたいと思っているわけではない。気安い同期間の内輪話や上司の愚痴など、知らない人の知らない話を愛想笑いで聞かなければならないとしたら辛いなと、どうしても腰が引けて答を濁してしまう。
「良い関係だね。誘ってもらえるのは嬉しいけど、でも、さすがにわたしはお邪魔でしょう……?」
「実はね、同い年の人が入社して来たって言ったら、皆に同期会に誘えって言われていたの」
 わたしと優花は、学年が同じだ。総務課で人事も担当している優花は当然わたしの年齢を最初から知っていて、入社の日に緊張していたわたしに、同い年だから気を使わなくて良いよと声をかけてくれた。同い年でも社歴が違うのだから、本来なら先輩の優花に敬語を使わなければならないけれど、こそばゆいから止めてと言われて甘えさせてもらっている。総務課と経理課はどちらも管理部に属し、同じ部屋の別の島で働いているのだが、ベテラン社員が多く同い年のわたしが入社したことが嬉しかったそうだ。

「ほら、うちの会社って同世代が少ないでしょう? だから皆、同い年の人が増えて嬉しいのよ」
 管理部は二十代がわたしたちふたりしかいないが、他の部署も二十代後半が少ないらしい。優花の同期は誰も辞めていないが、その前後に入社した新卒は続かなかったらしいのだ。
「ただ単に同い年の面子でわいわい飲んでいるだけだから、気を使う必要なんてないし、もし嫌じゃなかったら美沙も参加してよ」
「それなら、参加させてもらおうかな」
 とりあえず参加してみて、合わないと思えば次回断れば良いかなと思い直す。恐らく優花は、入社したばかりで他部署に知り合いのいないわたしの人脈を広げようとしてくれているのだろう。そして実際に、仕事を円滑に進める上で知り合いが多いに越したことはないのだ。それに優花がいれば、居心地の悪い場にはきっとならないだろう。
「やったー! 今のところ来週か再来週で予定しているんだけど、都合悪い日ある?」
「特にないよ。仕事も落ち着いてきたから定時で上がれると思うし」
「たぶん金曜日になると思うけど、正式に決まったらまた連絡するね」
 楽しみだねと言って嬉しそうに笑うと、優花はチキン南蛮を口に放り込んだ。この会社に入ってすぐに管理部で歓迎会を開いてもらったけれど、それ以外の飲み会ははじめてだ。一体どんな会になるのだろう。少しだけわくわくしてきたのを感じながら、わたしは生姜焼きの最後の一切れを茶碗に乗せ、白米と一緒に味わった。

 ごはん一粒まで綺麗に平らげると、わたしたちはすっかり満足して定食屋をあとにした。
「うわー、暑さで溶けそう」
 涼しかった店内から一歩外へ出ると、そこは灼熱地獄だった。まだ正式には梅雨明けしていないけれど、空は真夏のそれだ。濃い青色の空にもくもくとした白い雲が広がり、強い太陽の光がアスファルトに照りつけている。思わずうんざりとした声を漏らすと、わたしたちは足早に自分たちの職場があるオフィスビルを目指した。
「あれ、はっしーだ!」
 じりじりと肌を焦がすような暑さの中で信号待ちをしていると、不意に優花が声をあげた。視線の先には、横断歩道の向こう側のオフィスビルに入ろうとしている男性ふたりの姿があった。
「知り合い?」
「さっき話した同期のひとりで、営業一課の橋本くん。わたしたちのムードメーカーで、はっしーがいつも声をかけてくれるから同期が集まるの」
 優花がそう説明してくれたところで、信号が青に変わる。ふたりはさっさとビルの中に入ってしまい、結局どちらが優花の同期か分からなかった。この短い時間で既に汗ばんでおり、わたしたちは信号を渡ると、クーラーの冷気を求めて半ば駆け込むように自動ドアをくぐった。

「それなら、森野さんはどうよ?」
 広々としたエントランスロビーは冷房が効いていて、わたしはほっと息を吐く。その瞬間、エレベーターホールの方から男性の声が聞こえてきた。このオフィスビルには複数の企業が入居していて、わたしたちの会社は十二階と十三階のフロアに入っている。出退勤の時間は込み合うロビーも今は人影まばらで、思ったよりも話し声が響く。その声に、優花が足を止めた。
「何でそこで、森野の名前が出てくるんですか?」
 エントランスの数メートル先を左に折れたところにエレベーターがある。ここからは会話の主の姿は見えないが、恐らく先程、横断歩道の向こう側を歩いていたふたりなのだろう。そうぼんやり思ったところで、優花の苗字が森野さんであったことを思い出した。苗字を呼んだのは入社初日だけで、以降はずっと名前で呼んでいたからすぐにぴんとこなかったのだ。二歩先でわたしも足を止めると、そっと優花の方を振り返った。
「だっておまえたち、同期で仲良いじゃないか」
「やめてくださいよ! あいつ地味じゃないですか」
 閑散としたロビーに、低い声が響く。

 ――何だ、この馬鹿な男。
 顔も分からないその人物のことを、わたしは心の中で思い切り罵る。
 わたしの橋本一哉の第一印象は、馬鹿な男だった。



2019/03/29

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