イトコノコ
あたらしい関係 1
マラソン大会の日は、冬特有の氷のように透き通った淡い水色の空が広がっていた。
圭介が通う高校では、毎年二月のはじめにマラソン大会が行われる。学校を出て北側を流れる川を下流に向かって走り、そのまま南へ折れて戻って来る。町内をぐるりと一周するこの行事はこの辺りでは冬の風物詩になっているらしく、先輩の話では近所の人たちの声援がちょっと恥ずかしいそうだ。
「ああー。何で俺はあと十日遅く風邪をひかなかったんだろう……」
入試真っ最中の三年生は当然おらず、一年と二年の生徒たちがグラウンドでスタートの時を待っている。足首を回しながら軽く準備運動をしている圭介の横で、先程から星田が恨めしそうに何度も同じことを愚痴っていた。
「いい加減、諦めろよほっしー」
「そうだぞ。往生際が悪い奴だな」
照井と圭介のクラスメイトの野本が呆れたように星田を眺めている。十日前に熱で早退した星田は馬鹿でも風邪をひくのかと周囲を驚かせたのだが、幸いインフルエンザではなかったようで一日欠席しただけで復活した。 けれども運動嫌いの本人は、いっそマラソン大会に合わせて風邪をひきたかったと、既に全快している自分のタイミングの悪さを朝から呪っているのだ。
「てゆかさ、何気に世の中は男子差別が多いと思うんだ」
熱弁をふるう星田の台詞に、圭介は前にも聞いたことがあるなと思いながら太一を見やると、彼はまた始まったというように肩を竦めた。
「何で俺みたいにか弱い男子が十キロで、あんなにも逞しい女子が六キロなんだよ」
男子のルートは町内を大きく回る十キロで、女子はもう少し手前で戻って来る六キロのルートだ。
「じゃあ、それをあっちで言って来いよ」
「おーい、女子の皆さーん」
「わあ、やめろよ!」
男子よりあとでスタートする女子の集団に向かって呼びかける照井と野本を、星田が必死の形相で止める。そんな様子を圭介は呆れながら眺めていた。
「くっそ、圭介は余裕の表情しやがって」
間もなくスタートするというアナウンスを聞いて、圭介はジャージを脱いだ。半袖の腕が真冬の冷気に触れて、背筋がぞくりとした。
「当たり前だろ。体育祭とマラソン大会は俺ら陸上部の為にあるようなものだからな」
星田の半ば八つ当たりのような台詞に、同じ陸上部員でもある野本が圭介の代わりに答える。全校生徒の九割が雨天中止を願っていたであろうマラソン大会を、陸上部員は心待ちにしていた。特に先輩たちの気合いの入り方はすさまじく、長距離選手は上位独占を厳命され、圭介たち専門外の選手も全員が上位入賞を義務づけられている。俺たち陸上部員が唯一注目をあびる日だと、先輩たちは何度も一年の部員たちに言い聞かせてきたのだ。
「ちょっとそれは聞き捨てならないな」
不意に誰かが会話に割り込んできて、圭介たちが一斉に振り返る。するとそこには、へらへらと笑う上級生の姿があった。
「俺たちは走ることが専門じゃないけど、試合中はずっと走り続けてるから持久力では負けない。マラソン大会が陸上部のものという言葉は撤回してもらおうか」
「よ、吉本先輩!?」
圭介たちの会話を聞いていたのだろう。学年も部活も違う光がいきなり口を挟んできて、面食らったように野本が裏声をあげた。別に彼は他の運動部を見下したわけではないのだが、サッカー部員である光に誤解されていたらどうしようかと焦っているのが圭介にも伝わってきた。
「俺はおまえに負けないよ、金澤弟」
突然の上級生の乱入に戸惑っている面々をよそに、当の光は圭介をまっすぐに見つめて言った。
「俺も絶対に負けません」
光を真っ直ぐに見つめ返すと、圭介はきっぱりと言い切った。すると光はにやりと笑い、圭介の肩をぽんと叩いて離れて行った。
「おまえ、吉本先輩と知り合いなのか?」
「中学の先輩」
驚いたように尋ねてくる野本に、圭介は短く答えた。
「確かに俺たちは同中出身だけど、別に関わりは無かったよな。何で突然、吉本先輩が圭介に宣戦布告してくるんだ?」
怪訝な顔で、太一も詰め寄ってくる。
「さあな」
空咳と共にとぼけると、位置についてという号令が聞こえた。明らかに納得がいっていない友人たちを無視して、圭介はスタートに備える。スターターピストルが鳴ると同時に、男子生徒たちが一斉に走り出した。
あとでスタートする女子たちの歓声に送られ、グラウンドを一周して集団のまま校外に出る。一緒にスタートした星田が、気づけば猛ダッシュで先頭グループに加わっていた。どうせ最後は下位グループでゴールするのだから一度くらいは先頭に立ちたいと言っていたが、どうやら本当に実行したようだ。短距離走並のスピードは持続できる筈もなく、すぐにずるずると順位を下げていく。半ば呆れながら星田を追い抜かすと、圭介は光の位置を確認した。
***
光が圭介に声をかけてきたのは、昨晩のことだった。
圭介は夕練を終えると、いつも同じ陸上部の仲間と下校する。自転車通学の友人とは校門で別れ、更に駅で上りと下りの電車に分かれる。 圭介と同じ方面の生徒は三人いるが、彼らの降車駅は圭介が降りる駅よりも先だった。
すっかり日が暮れた駅のホームに降り立つと、明るい車内の友人たちに向かって軽く手を上げる。そうして人影まばらなホームを改札へ向かおうとしたその時、前方から向かって来たその人物と目が合った。 隣の車両に乗っていたのだろう。学年も部活も違うが同じ中学出身なので、圭介は軽く会釈した。
「よお」
圭介は光と言葉を交わした記憶は殆ど無い。けれどもその日は何故か、光が圭介に話しかけてきた。
「……どうも」
改札の手前で、圭介も短く答える。けれどもそれ以上話すことはなく、話したくもなく、圭介は小さく頭を下げたまま通り過ぎようとした。光とは小学校の校区は異なったので、詳しい住所は知らないが確実に家の方向は違う筈だ。
「なあ、金澤弟」
けれども光は、そんな圭介を呼び止めた。
彼は圭介の兄を知らない筈なのに、何故か圭介のことを ‘金澤弟’と呼ぶ。同じ学校に兄が在籍しているのならともかく、十歳も年が離れた兄はとっくの昔に卒業して今はこの町にすらいない。きっと圭介の幼馴染のせいだろうと彼は予想していた。 光が志乃を好きだというのは有名で、当然圭介の耳にも入っている。志乃が一途に想っている祐介の存在を意識して、‘金澤兄’と‘金澤弟’とわざわざ呼ぶのだろう。
「おまえ、志穂といとこなんだって?」
光の何気ない問いかけに、圭介は足を止めた。思い出したくもないのに、一週間以上も前の情景が鮮明に圭介の脳裏に蘇る。
「そうですけど、それが何か?」
圭介の口から零れた言葉は、いつもより低かった。恐らくサッカー部の後輩にでも聞いたのだろう。確か志穂子のクラスにサッカー部員がいた筈だ。
「いや、別に。あいつ可愛いよな? 今までは愛想が無い奴だなと思ってたけど、最近心許してくれるから何か構いたくなるんだよ」
「……」
志穂子のことが好きなのか。喉まで出かかった言葉は結局、音声にはならなかった。圭介はただ黙って、飄々としている目の前の人物を見据えた。
「金澤弟ってさ、彼女いるの?」
「いませんけど」
「じゃあ、好きな子は?」
「何でそんなこと聞くんですか?」
焦りと苛立ちを感じながら、圭介は逆に聞き返した。
「俺さ、明日のマラソン大会で五位以内に入れたら告白するわ」
けれども質問に対する答えは返って来ず、代わりに爆弾発言が投下された。
「……何で俺にそんなこと言うんですか?」
「さあ?」
余裕に満ちた光の表情に、圭介は無性にイライラした。圭介と話す時の志穂子は、いつも他人行儀だ。志乃が相手なら仕方ないとしても、星田や照井と砕けた表情で話しているのを見ると少しショックだった。クラスが違うから、いとこと言えど接する時間が短いから仕方がないと言い訳してきたのに、あの日渡り廊下で他学年の光と接する志穂子を見たらもはや言い訳のしようがない。何故自分はこんなにも衝撃を受けているのかということは考えないようにして、圭介は逃げるように化学室へ向かったのだった。
「告白するのは自由ですけど、無神経な告白で相手を傷つけないで下さいね」
小さく息を吐くと、圭介はゆっくりと言い放つ。心の奥底に渦巻く感情を声にすると、自分でも驚くくらい残酷な言葉になった。圭介の発言に、一瞬光の表情が強張る。言い過ぎたと後悔したのはほんの一瞬で、光の表情が歪んだのを見て圭介は少し胸がすっきりしたような気がした。
けれども光は、すぐに穏やかな笑みをたたえて言った。
「たとえ無神経な告白だとしても、伝えなければ何も始まらないからな」
だから志乃に何度も思いを告げたのだろうかと、圭介は思った。始まることを期待して、自分とは別の人を想っている相手に伝え続けたのだろうか。そうして気持ちはいつしか変わり、新しく始める為に志穂子に気持ちを伝えるのだろう。
「なあ、勝負しないか?」
黙り込んだ圭介に対し、挑むように光が言った。
「勝負、ですか……?」
訝しげに圭介が聞き返す。
「ああ。ぶっちゃけ上位はおまえの先輩たちが取るだろう。体育の授業が一緒だけど、さすがに長距離専門の奴らには敵わない。でも、四位以下はたぶん混戦だろ? 陸上部は全員が良いタイム狙ってるだろうし、うちも何人かはいい線いくと思う。テニス部にも有力候補がいるらしいから、五位以内を狙うのは本気出さないと無理だと思うんだ。だから、俺と金澤弟のどっちが五位以内に入れるか勝負しないか?」
光が言う通り長距離専門の先輩たちのタイムは群を抜いていて、死ぬ気で走っても今の圭介のレベルでは勝てないだろう。運動部はこの大会にそれぞれの部の威信をかけていて、裏で有力選手の予想タイムが出回っている。たぶん光が言う通り四位以下は混戦だろうが、圭介には彼が突然勝負を挑んできた意味が分からなかった。
「目的は何ですか?」
「特に無いよ。ただ、勝負してる方がモチベーションが上がるだろ? 別に何か賭けるわけでもない。ただ、俺が五位以内に入れば俺は告白する。でも五位以内に入るのはかなり難しい。金澤弟が五位以内に入れば、俺が入れる確率がかなり下がる。それだけの話さ」
「なあ、勝負しないか?」
もう一度、光が言った。
「分かりました」
短く圭介が答える。
「よし。でも、俺はおまえには負けないよ」
「俺も、絶対に負けません」
自分でも驚くくらい、きっぱりと圭介は言い切った。
「それは、俺の告白を阻止する為?」
「いえ、陸上部員としてのプライドです」
圭介の言葉に、光がにやりと笑う。
「そっか。じゃあ、明日な」
それだけ言うと、光は定期券を自動改札機にくぐらせてさっさと歩き出した。光の家は駅から近いのだろうか。冬の夜道を歩いて行く背中を見送ると、圭介は小さく咳をしながら駐輪場に向かった。
2012/07/24