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イトコ



そして自覚 6


 三学期は、淡々と過ぎてゆく。
 一年の行事はほぼ消化し、三学期に残されているのはマラソン大会と学年末テストのみだ。 クリスマスや正月というイベントを終えて、待っているのがマラソン大会というのであれば生徒たちのテンションも上がらない。灰色の空に冷たい北風という天気も相まって、校内は今ひとつ熱気に欠けていた。

「おーい日直、安藤先生から伝言だ。全員分の課題プリントを集めて、化学室に持って来るようにとのことだから頼んだぞ」
 黒板の右端に書かれた名前をちらりと確認して、志穂子の方を見やりながら担任が言う。それから一言二言、簡単な連絡事項を伝えると終礼が終わった。
 全員が起立して礼を済ませると、机を後ろに下げて掃除が始まる。 掃除当番でない志穂子は、教室の片隅で掃除の邪魔にならないように集めたプリントを出席番号順に並べ替えていた。
「志穂、手伝うよ」
 声をかけられて振り返った志穂子は、その瞬間に眉をひそめた。
「何言ってるの。志乃は早く帰った方が良いよ」
「平気だよ。今日は星田もいないし手伝うよ」
「いいよ。星田くんの件もあるから、尚更志乃も早く帰らないとダメだよ」
 わざと険しい表情を作って志乃を見つめると、数秒の沈黙のあと、あっさりと志乃は頷いた。強く抗う気力も無いくらいに、体調が良くないということだろう。
 巷では今年もインフルエンザが猛威をふるっている。志穂子の学校でも徐々に欠席者が増え始め、今日は朝から具合が悪そうだった星田が昼前にダウンしてしまい早退した。元気が取り柄の星田が昼食もとらずに帰ったことはクラスメイトにとっては衝撃的で、各々が体調に留意しようと改めて思ったのだった。
 一方の志乃も昨日辺りから咳き込むことがあり、今日は一日気だるそうにしていた。熱はないとのことだが、明らかに風邪の初期症状だ。本日の日直は志穂子と星田なのだが、彼が早退したことでひとりで日直の仕事をこなすことになりそれを志乃は気遣っていた。けれども日直の仕事など大したことは無い。それよりもむしろ志乃のことが心配だった志穂子は、自分の仕事に付き合わせて下校が遅くなることの方が気がかりだった。

「じゃあ、先に帰る」
「帰ったらちゃんと薬飲んで温かくするんだよ」
 コートを着てマフラーを巻いた志乃が小さく頷くのを確認すると、志穂子は少し安心したように微笑んだ。
「バイバイ。お大事に」
 そう言って手を振ると、微かに笑った志乃も手を振り返す。 他のクラスメイトたちとも挨拶を交わして教室をあとにする志乃を見送ると、志穂子は再び手元のプリントに視線を戻した。

 本館と特別棟を繋ぐ渡り廊下には、真冬の肌を刺すような冷気が張り詰めていた。
「さむ……」
 化学のプリントを提出し、足早に教室へ向かっていた志穂子の口から思わずひとりごとが洩れる。不意に強く風が吹いて身を縮めた瞬間、背後から名前を呼ばれた。
「おーい、志穂。久しぶりだな」
 振り返ると、ジャージ姿の光がこちらに向かって片手を上げていた。少し先に運動部の部室棟があるので、着替えてこれから部活に向かうのだろう。
「あ、お久しぶりです」
 足を止めた志穂子は、そのままぺこりと頭を下げる。委員会が頻繁に開かれていた文化祭までの期間は必然的に顔を合わせることが多く、その度に言葉を交わしていた。けれども文化祭が終わると他学年の光とは接触がなく、階段などでたまにすれ違うことはあっても挨拶以上の会話をする機会はなかった。
「どうした、呼び出しか?」
「違います。日直だから、化学のプリントを提出しに行ってたんです」
 志穂子をからかう口調は相変わらずで、思わず口を尖らせて反論する。
「今日は相方は?」
「志乃は風邪気味なんで、先に帰ってもらいました」
 一緒に委員をやっていたせいか、光も志穂子と志乃をセットで見ているようだ。ひとりでいる時に会えば、必ず志乃のことを尋ねてくる。志穂子が簡単にそう説明すると、一瞬光は眉を寄せた。
「まったくあいつは……」
 まるでひとりごとのように言われたその台詞に、志穂子はちらりと光の表情を盗み見た。 けれども少しだけ不機嫌そうな表情からは何も読み取れなくて、志穂子はフォローするように付け加えた。
「一緒に手伝ってくれるって言ったんですけど、うちのクラス風邪が流行り出しているから心配で。説得したらすぐに納得して先に帰りました」

「くそう。やっぱ志穂の言葉の方が上なのか」
 志穂子の説明に悔しそうな表情を見せると、光は志穂子の脳天にチョップを入れた。
「ちょっ、一体何なんですか!?」
 訳が分からず抗議した志穂子を不服そうに見つめていた光だが、不意に思いついたように尋ねてきた。
「そうだ、志穂。おまえ彼氏作れよ。誰か好きな奴いないのか?」
「い、いきなり何を言い出すんですか?」
 全く会話の展開についていけない志穂子だが、好きな奴という言葉にだけ異様に反応してしまう。赤面しないようにと気合を入れながら、志穂子は光を見上げた。
「さっきからどうしたんですか? 全然話についていけないんですけど」
「俺さ、いい加減片想いに飽きちゃったんだよ」
「はあ?」
 呆れたように志穂子が返すと光が真顔で答え、やがて小さく吹き出した。どうやら困惑する志穂子を見ながら楽しんでいたらしい。

「長年の片想いの相手が、長年の片想いに決着をつけたからチャンス到来だと思ったんだけど、今は友達と友情を深める方が大事だと断られたの」
 まるで早口言葉のように言う光の言葉を、志穂子はぽかんと聞いていた。 あまりにも軽く言われたから流しそうになってしまったけれど、その単語をひとつひとつ拾っていくと流してはならない内容のようで、もう一度頭の中で文章を繋げ直す。
「先輩って……」
 固有名詞はひとつも出てこないけれど、いくら色恋沙汰に疎い志穂子でも何となく分かってしまった。見上げると、光が複雑な表情を浮かべて微笑していた。
「昨日すれ違った時も咳してたから気をつけろって言ったのに全然取り合ってもらえなくて、志穂の言うことは聞くんだもんなあ」
 そう言うと、悔しそうに光はぽこんと志穂子の頭を叩いた。わたしの言うことも最初は聞こうとしなかったけどと思いながら、志穂子は黙って頭を叩かれていた。
 ああそうか。頭の上に乗せられた大きな光の掌を感じながら、志穂子は妙に納得していた。志乃との楽しげなやりとりも、会うたびに志乃の所在を聞かれることも、言われてみればそういうことなのだ。

「志穂はやっぱり変わってるな」
 やがてガシガシと志穂子の頭を乱暴に撫でると、小さく笑いながら光が言った。乱れた髪の毛を整えながら、少し抗議するように志穂子は光を睨む。
「全然、何も聞かないのな?」
「だって……」
 確かに聞きたいことはたくさんあるが、正直驚きすぎて何を聞けば良いのかが思い浮かばない。自分に話してくれたということは尋ねても良いということなのだろうけど、どこまで触れて良いのか分からない。
「そんなところを、志乃は信用してるんだろうなあ」
 戸惑っている志穂子を見つめると、光はしみじみとひとりごちた。

 放課後の特別棟を訪れる生徒は殆どなく、つまりはこの渡り廊下を利用する生徒も殆どいない。たまに通り過ぎる人たちが、寒い中で立ち話している志穂子と光を奇異なものでも見るように眺めながら足早に去って行く。
「御三家のひとりである俺は、当たり前だけど中学の頃から人気者でさ」
「はあ」
 唐突に話し出した内容はどう考えても自慢で、志穂子は苦笑しながら相槌を打った。光のキャラクターは嫌味がなく、そこが人気の理由なんだろうなと志穂子はこっそり思う。
「俺は中学でもサッカー部だったんだけど、放課後は俺の華麗なシュートを見たい女子たちが殺到していつも大変だったわけよ」
 殺到したかどうかは怪しいが、当時から女子の人気があったのは本当だろう。
「二年の二学期くらいからかな。一年の女子がよく来るようになってさ。差し入れとかも持って来てくれて。でも俺はその付き添いの子の方が気になって、来れば声をかけるようになっていた」
 恐らく、付き添いの子が志乃だろう。黙って話を聞きながら志穂子は思った。
「付き添いの子は明らかに興味なさそうで、‘わたし付き添いですから’って看板背負ってるように見えた。だから何とか彼女の興味を引きたくて、サッカーのルール教えたりして。そしたら俺じゃなくサッカーの方に興味を持ってくれてさ。 試合も見に来てくれるようになって、俺を見てくれてるわけじゃないけどそれでも嬉しかった」
 光の言葉に、志乃は揺ぎ無く一途だったんだなあと改めて感心した。周りの女子がいくら騒いでも、光に優しくされても、志乃には祐介しか見えていなかったのだろう。少し、光が気の毒になった。
「あの頃の俺は、根拠の無い自信に溢れていた。だから俺が告白すればその子は絶対俺に振り向くと思っていた。でも、彼女は好きな人がいると言ってあっさり断ってきた。十歳も離れていて彼女がいて県外に住んでいる。どう考えても実らない恋をしていて、そんな相手ならすぐにこちらを向かせられると思っていた。だから何度も何度も告白した。場所もタイミングも考えず、想いを告げることが悪いだなんて思ってもみなかったんだ」

 いつの間にか渡り廊下の鉄製の柱にもたれていた光は、一気にそこまで話すと言葉を切った。
「悪い。寒いよな?」
 ようやく思い出したかのように尋ねてくる。
「平気です」
 本当は寒かったけれど、そう言って話を終わらせることなんてできなかった。続きが気になるという下世話な興味があるのは否定しないが、それと同時に、後悔を湛えた光の目の色が気になる。彼の口ぶりは、まるで想いを告げることが悪いことだったかのようだ。
「吉本先輩。想い伝えることは、悪いことじゃないと思います。だって、すごく勇気がいることでしょう?」
 今の志穂子に、そんな勇気は欠片も無い。だから告白したというだけで、尊敬に値すると思えるのだ。
「ひとりよがりな告白ってのも、世の中にはあるんだよ」
 志穂子の問いかけに、光は自嘲気味に笑いながら答えた。志穂子は意味が分からず、ただ黙って光の整った横顔を見つめた。

「サッカー部の後輩にその子がグループから弾かれてるって聞いたのは、俺が三年になってからかな」
 やがて淡々と言った光の言葉に、志穂子は思わず固まる。
「二年の冬くらいに、例の一年の子が俺に告白してきたんだ。付き添いの子の方が気になってた俺は、もちろん断った。学年が違う俺は知らなかったんだけど、それから俺に断られた子が付き添いの子の噂を色々流し始めたってあとになって聞いたんだ。 俺は基本女の子が大好きだから同じサッカー部の女子マネとも仲良くて、でもそいつは卒業した先輩と付き合ってたし全く恋愛感情は無かった。でも、俺とマネージャーが付き合っていたのに付き添いの子が猛アタックしてきて、騙された俺があっさり女子マネを振ったという突っ込み所満載の噂が二年の間でまことしやかに流れてたんだ」
「何それ、ひどい……」
「ひどいだろ。振られまくってる俺に、志乃が猛アタックってどんな残酷な嫌味だよな」
 光が自虐的に笑う。中学生は時として残酷だと、一年前まで中学生だった志穂子は改めて思った。想いが強すぎて、結果を考えずに行動を起こす危険性をいつもはらんでいる。
「マネージャーが先輩と付き合ってるのは有名だったし、俺たちの学年には全然その噂は広まってこなくて。まあ、広げてるのが二年なわけだし当然だよな。だからそんな噂を知らない俺は空気も読まず相変わらず志乃に軽はずみにちょっかい出していて、その様子が余計に説得力を持たせていたらしい」
「でも、志乃の態度はずっと変わらなかったんですよね?」
 少し言いにくそうに志穂子が尋ねた。祐介に片想いしていた志乃は、はじめから光の告白を断っていたという。ならば、志乃が光を誘惑したという噂は成り立たないのではないだろうか。
「俺の告白を断る志乃を見て、男が自分の方を向いたら飽きて捨てる女だという噂が追加された。断られ続けてたんだけど、噂になってから注目した奴らは以前も俺が振られてたことを知らないからな」

 志穂子は、言葉も無くうなだれた。体は指先まですっかり冷えているが、心は更に冷え切っている。
 以前、美奈と恵が話していた噂の真相は、こういうことだったのだ。あまりにも幼稚で悪意ある噂の内容に、志穂子は絶句した。ふたりのように事実を知らず、噂を信じて嫌悪感から志乃を避けていた生徒はたくさんいたのだろう。
「もちろんみんながみんな、そんな馬鹿な噂を信じたわけじゃないみたいだけど、噂を流したのが友達だったということだけで充分すぎるダメージだろ?」
 光の言葉に、志穂子はこくりと頷いた。志乃は微塵も悪くないのに、逆恨みで勝手な噂を流される絶望感。それが身近な人間だったとしたら、ショックははかり知れない。
「だから志穂と仲良くしてる志乃を見て、俺はちょっとほっとしたんだ」
 俯いて考え込んでいた志穂子の頭上から、思いもよらない優しい言葉が降ってきた。
「へ?」
 思わずぽかんとして、志穂子は言葉の主を見上げる。
「志穂は目の上のたんこぶだけど、そこだけは認めてるってこと」
 そう言うと、光は志穂子の額を人差し指で弾いた。

「俺は絶対に志乃を諦めないからな。だから志穂は俺の邪魔をせずにさっさと彼氏を作れ。何なら俺が協力してやるからさ」
「何ですか、その横暴。先輩のわたしへの扱いがひどすぎます」
 すっかり沈んだ空気を振り払うように光が口調を変えたので、志穂子もいつもの調子で光に反論する。
 この人は、告白したことをずっと後悔してきたのだろうか。志穂子は心の中でちらりと思った。自分が想いを告げたことで、好きな人が窮地に立たされるなんてあまりにも残酷だ。光は全く悪くないけれど、きっと何度も自分を責めたに違いない。
「まさかあんなことがあって俺と同じ高校を受けるとは思わなかったから、入学してきた時はびっくりしたなあ。まあ、金澤兄の母校だったからという理由だったんだろうけどさ。あと文化祭実行委員で一緒になって、昔みたいに喋れてすっげえ嬉しかった。まあ、志穂っていうお邪魔虫がくっついていたんだけどさ」
 自虐的な光の語り口が可笑しくて、笑ってはいけないけれど肩が小刻みに震えてしまう。
「おい志穂、笑いたければ堂々と笑えよ」
「先輩、志乃のことは全部知ってるんですね」
 お許しが出たので遠慮なく笑うと、志穂子はそう尋ねた。
 文化祭のあとにゴミ捨て場で志乃と圭介を目撃した時、一緒にいた光は噂は本当だったのかと呟いた。志乃の気持ちを知らなかった志穂子は、志乃と圭介が付き合っている噂をさしていると思い込んでいた。 けれども本当は、志乃の片想いの相手である祐介が結婚するという噂を言っていたのだろう。そして志乃と圭介の様子を見て、志乃が失恋したことを確信したのだろう。
 同時に、その場に光がいたことを告げた時の志乃の様子も思い出す。あの悶絶は、全てを知られている相手に見られていたという羞恥に満ちていた。 そこから志乃の気持ちは変化するのか、志穂子には分からない。ようやく長い片想いを終わらせたばかりで、すぐに気持ちは動かないかも知れない。
 今は志穂子との関係の方が大事という言葉を嬉しく感じながらも、いつか近い未来に光の想いが届けば良いなと志穂子は思った。
「こっちは片想いのプロだから、気長にいくさ。今度はひとりよがりにならないようにな」
「頑張って下さい。でも、わたしも志乃が大切だから簡単に渡しませんよ」
「おい、何調子づいて上から目線なんだよ」
「だって、事実わたしが上ですもん」

 志乃ももちろんだけれど、同じ人を想い続ける光の強さが志穂子は眩しく感じられた。身近にいるこの人たちのように、自分も強くありたい。志穂子は心の内で、そう願った。
「こら志穂っぺ。先輩に対して何だその反抗的な態度は」
「本当のこと言っただけですよ。てゆか、志穂っぺって何ですか?」
 志穂子がそう言って頬を膨らませると、光が長い指でぎゅっとつねる。
「いはいー。へんはい、いはいえふー」
「反省したか。ごめんなさいは?」
「ほへんははい」
 もちろん手加減はしているのだろうが、両手に込めた力は女子にもなかなか容赦が無い。本気でこの人は自分をライバル視しているのではなかろうかと思いながら、志穂子は両手で思い切り抵抗した。
「ぶっ、変な顔」
 志穂子のほっぺの肉を引き伸ばして、光が笑う。やっぱり志乃との恋を応援するのをやめようかと思い始めた頃、光はようやく両手を離した。
「もう。わたしの顔が大きくなったら先輩のせいですからね!」
 頬をさすりながら睨むと、当の本人は涼しい顔をして明後日の方向に視線を向けた。今度嫌がらせで志乃と仲良くしているところを見せつけてやろうかと思っていた志穂子をよそに、光が小さく言葉を発した。

「あっ、金澤弟」
 その瞬間、志穂子の体がびくりと固まる。恐る恐る光の視線の先を見やると、プリントの束を抱えた圭介が渡り廊下の手前で立ち止まっていた。もしかすると、彼も化学の課題を提出しに来たのかも知れない。
 けれどもそんなことは今の志穂子にはどうでもよくて、今の子供じみたやりとりを見られていないかとそれだけが頭の中をぐるぐると回っていた。光との幼稚な攻防戦もだけれど、もしも頬をつねられた不細工な顔を見られでもしていたら立ち直れない。
 半ばパニックに陥った志穂子をよそに、無表情の圭介が微かに会釈をしてふたりの脇を通り過ぎて行く。かける言葉も見つからず、志穂子は呆然と特別棟の中に入って行く圭介の後ろ姿を見送っていた。
「相変わらず弟はクールだなあ」
 のんびりとした光の声を聞きながら、志穂子は黙って立ち尽くしていた。



2012/07/13

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