backindexnext

イトコ



あたらしい関係 2


 凛と張りつめた冬の空気の中を、男子高生の集団が駆け抜けて行く。
 学校のグラウンドを一斉にスタートした直後は密集状態だったが、三キロを過ぎたあたりからどんどん順位に差がついてきた。圭介は何とか先頭グループに残っている。ただし、先頭グループと言ってもまだ十五人以上いる集団だ。
 予想通り、トップは陸上部の二年生ふたりが争っていた。そのあとを同じく陸上部のメンバーが続き、サッカー部、テニス部、バスケ部などの面々と上位を競っている。そんな中で、圭介はグループの後方につけて白い息を吐きながらひたひたと走っていた。

「何か余裕だな。金澤弟は後半型?」
 先程からぴたりと圭介について走っている光が、前方に視線をやったまま話しかけてきた。けれども圭介はそれに答えることなく、前を行く生徒たちの背中を見つめながら規則正しいペースで走り続ける。 「俺は前半型だから先に行くわ。あとで、もっと早くスパートかけてればって後悔したくないからさ」
 それだけ言うと、明らかにペースアップした光がグループの中盤まで順位を上げていった。その後ろ姿を見ながら、圭介は小さく咳をした。

 冬の乾燥した空気を吸う度に、気管の水分が奪い去られてゆく。鼻の奥はツンと痛み、喉の奥は乾き切り、肺の奥にまで冬の冷たい空気が入り込んで刺激していた。
 もう一度、圭介は咳をする。今度は一度で止まらなくて、走りながら何度も空咳を繰り返した。呼吸が乱れて苦しくなる。注意深く鼻から息を吸い、何とか呼吸を整えた。
 校内では二週間ほど前からインフルエンザや風邪が蔓延していた。学級閉鎖になるほどではないが、圭介のクラスでも毎日三名以上が必ず風邪で欠席している状態だった。けれども幼い頃から体が丈夫だった圭介はくしゃみのひとつもせず、風邪の予防を呼びかける担任教諭の注意を聞き流しながら毎日遅くまでグラウンドを走り続けた。
 風邪の兆候が出たのは、昨日の夜だった。家に帰ると少し咳が出たが、それでも食欲はいつも通りだったし寒気やだるさは感じなかった。マラソン大会があるので用心して早めに就寝したが、それでも朝起きると喉の奥に痛みを感じた。しかし症状はそれだけで、熱もなく食欲も相変わらずだったから、休むという選択肢は圭介には全く思い浮かばなかった。 今日は何があっても走らなければならない。何故か自分を挑発してくる光には、絶対に負けたくなかった。

「大丈夫か?」
 少し先を走っていた野本が若干ペースを落とし、圭介の隣に並んだ。声を出すとまた咳が出そうなので、片手をあげて応じる。尚も心配そうな顔つきの野本を安心させる為に小さく笑うと、ようやく彼はほっとした表情を見せた。
「おにーちゃん、がんばれー」
 不意に、幼い声援が聞こえる。前方を見やると、数メートル先にある保育園の前で園児たちが門の脇に並んで手を振っていた。
「ありがとう!」
 そう言って野本が園児たちにガッツポーズを見せると、園児たちの声援がいっそう大きくなる。小さな応援団の姿を視界に入れながら、圭介は少しだけペースを上げた。

 このマラソン大会は地元の冬の風物詩になっていて、近所の人たちが熱心に声援を送ってくれるとは先輩から聞かされていた。しかしそれは、圭介の予想以上だった。商店街に近づくと大勢の人たちが待ち構えていて、口々に力走する高校生たちを激励した。
 けれども、声援が増すにつれて徐々に圭介のペースは落ちていった。呼吸は荒くなり、体が重く感じられる。 軽い風邪だと決めつけていたので、スタートの時点では問題なく走り切れると軽く考えていたのだが、無理に走ったせいで少し熱が出てきたようだ。
 目の前のランナーたちがどんどん離れてゆく。置いて行かれたくない。心の中で叫びながら、圭介は鉛のように重くなった足を必死に前へ前へと進めて行った。

 何故、自分はこんなにも必死に走っているのだろうか。すっかり距離が開いて小さくなってしまった光の背中を見つめながら、圭介は思った。
 長距離ランナーではないものの、圭介も陸上部員だ。走ることを専門にしている以上、他の運動部員たちに負けたくない。それは偽らざる本音だ。けれども、気管や内臓の水分を奪われたような感覚で、ひゅうひゅうと乾いた音をたてて必死で酸素を吸い込みながら走り続ける理由はそれだけだろうか。圭介は、静かに心の奥で自問した。
 ――あいつ可愛いよな?
 圭介の耳の奥で、去年の春にできた新しいいとこを評した光の言葉が蘇る。
(可愛いだけじゃないんだよ!)
 前方の小さな背中に向かって、圭介は心の中で反論した。
 いつも周囲に気を使っているように見えるいとこの表情は変化に乏しく、けれどもそこには強さが潜んでいた。彼女は危ういくらいに不器用で、眩しいくらいに真っ直ぐだった。
 去年の夏の終わりに彼女が垣間見せた弱さと強さに衝撃を受け、以来、圭介は無意識のうちに彼女を視線で追っていた。

 ――あいつ可愛いよな?
 ただ可愛いとしか思っていない奴には渡したくない。圭介は自分の足に力を込めた。
 いくら鈍感な圭介でも、いい加減自分の気持ちを自覚する。無意識でいとこの姿を探してしまうのも、視線で追いかけるのも、表情のひとつひとつが気になるのも、理由はたったひとつしかない。咳が止まらず呼吸が苦しくても、光よりも一秒で良いから先にゴールしたい理由は、たったひとつしかないのだ。
 志穂子が好きだ。
 今までは気恥ずかしくて自分の気持ちから目を逸らしていたけれど、認めてしまえば何のことはない。あの夏の終わりから、圭介はずっとずっと志穂子に惹かれていたのだ。
 冬の乾燥した空気に水分を奪われ、肺が干からびてしまっても良い。ただ、自分の想いを伝えたい。例え光に先を越されても、それで志穂子が光と付き合うことになっても、自分の気持ちをきちんと伝えたい。
 圭介は大きく息を吸って冷えた空気を肺に送り込むと、少し早いスパートをかけた。今スパートをかけなければ、ゴールのあとできっと後悔する。恋敵である光の存在は全く面白くないが、先程彼が発した言葉には心の底から同意した。いつも長距離走では早目に仕掛ける前半型の圭介は、ギアチェンジすると風を切って冬の町並みを駆け抜けた。



 前へ、前へ。呪文のように心の中で唱えながら走り続けていると、不意に大きな歓声が沸き起こる。先にゴールしていた女子生徒たちの黄色い声で、圭介はようやく自分が学校まで戻って来たことに気づいた。
 呼吸もフォームも全てが乱れ、残りの五キロはただ闇雲に走っていた。コーチに知られれば激怒されそうだが、必死で走っていて周りが見えず、現在の順位すら把握していない。ずっと見つめていた光の背中も視界から消え去り、圭介は自分の呼吸音だけを聞きながら白くかすむ景色の中を走り続けていた。

「お疲れ。圭介、大丈夫か?」
 ゴールした圭介に、野本が声をかける。どうやら彼の方が先にゴールしていたらしい。
「大丈夫だ。ちょっと咳込んだから、水飲んで来る」
 それだけ言うと、圭介は校舎裏にある水飲み場に向かった。歓声が溢れる賑やかなグラウンドとは対照的に、本館の裏手には誰もいない。グラウンドの脇にも水飲み場はあるので、走り終えた生徒たちは皆そちらに向かうのだろう。
 圭介はまず水道で顔を洗い、それから蛇口を上向きにして口をつけた。ごくりごくりと喉を鳴らしながら水を飲むと、それらが乾燥した体内に潤いを与えてゆく。ようやく蛇口を閉めると、圭介はほっと小さく息を吐いた。その瞬間、かさりと落ち葉を踏む微かな足音がした。

 気だるそうに顔を上げて何気なくそちらを見やった圭介は、そのままたっぷり固まってしまった。そこには、十キロを走る間ずっと圭介の思考を占領し続けたいとこの姿があった。
「志穂子……」
 無意識のうちに名前を呟く。けれども、その先が続かない。自覚したばかりの想いが喉の奥に絡まって、ようやく発したのは間抜けにも自分の首を絞めるような質問だった。
「吉本先輩は?」
 後半は意識が朦朧としていたので圭介は自分の順位すら分かっていないのだが、そんな状態で光を抜けたとは到底思えない。彼は五位以内に入ったのだろうか。そして、志穂子に想いを告げたのだろうか。
「さあ、知らない。吉本先輩を探してるの?」
「いや、別に」
「そう」
 不思議そうに志穂子が目を瞬いた。渡り廊下でのやりとりを目撃した時に、志穂子は光に気があるのではないかと思ったのだけれど、もしかしてそれは圭介の誤解だったのか。微かな期待に、圭介は眩暈を感じそうになった。実際その瞬間に、地面がぐらりと揺れる。
「圭介くん!」
 不意に視界が暗く翳り、圭介は反射的に水飲み場に体を預けた。同時に、小さく悲鳴を上げた志穂子が圭介の傍まで駆け寄って来る。

「……名前」
 圭介の都合の良い妄想でなければ、今、志穂子は自分の名前をはじめて呼んだ。
「やだ、しっかりして。保健室行こう」
 細い指がきつく圭介の腕を掴み、必死に呼びかける声が聞こえる。大丈夫だと小さく答えるが、彼女は信用していないようだ。それよりももう一度、名前を呼んで欲しい。遠のく意識の中で圭介は願った。
 圭介は、いとこだから苗字呼びはおかしいだろうと早々に志穂子を名前で呼んでいた。正直、馴れ馴れしいかと躊躇はしたが、母親の再婚で宮本姓から藤原姓に変わった志穂子を苗字で呼ぶことの方が躊躇われた。 けれども彼女は、圭介のことを苗字ですら呼ぶことはなかった。 クラスメイトの星田や照井のことは気軽に呼びかけるのに、光とは気安く呼び合っているのに、彼を示す固有名詞は志穂子の口からは出てくることはなかった。
「圭介くん!」
 ついに体を支えられなくなった圭介は、志穂子の肩に頭を預ける。耳元で自分の名を呼ぶ声を聞きながら、やがて圭介は意識の全てを手放した。



2012/08/22

backindexnext