イトコノコ
そして自覚 1
秋は、密やかに加速する。
気づけば校内の木々は色づき、気づけば日暮れが早くなり、気づけば吹く風が冷たくなっている。そうやって季節は確実に進んでいるのに、十一月に入っても未だ文化祭の余韻は抜けきらない。どこか脱力した教室の空気に、担任は燃え尽き症候群かと生徒たちを揶揄して笑った。
「ねえ、志穂は来週の土曜日予定ある? みんなでカラオケ行かない?」
ホームルームが終わった賑やかな教室で、恵が志穂子に声をかけてきた。美奈がカラオケの割引券を貰ったので、クラスの女子全員でカラオケ大会を企画しているらしい。
文化祭以降、恵から話しかけられることが増えた。たまに美奈も会話に加わってくる。 以前のように一緒にお弁当を食べたり下校したりすることはないが、彼女たちが以前と同じように話しかけてくれるようになったことが志穂子は嬉しかった。
たぶん、ふたりとはこれくらいの距離感がちょうど良いのかもしれない。志穂子はそう思った。文化祭を終えて、クラスのグループの構図は少しだけ変わっている。入学後に一旦グループが形成されてしまうと、何となくずっと一緒に行動するようになってしまう。けれども文化祭というイベントを通してこれまであまり深く話すことがなかったクラスメイトの一面を知り、意外に気が合うことが分かったりして共に過ごすメンバーが微妙に変化していた。
「ごめん、土曜日は用事があるの」
「ええー、そうなんだ。残念」
志穂子が申し訳なさそうに答えると、恵と他の女子たちが落胆したように言った。
「わたし以外、全員参加できるの?」
「まだみんなに聞けてないけど、部活の子とかもいるから全員は無理かな」
「あ、大宮!」
恵と志穂子が話していると、傍らの女子生徒が教室を出ようとしていた志乃に呼びかけた。振り返った志乃と目が合いかけて、志穂子は慌てて視線を逸らす。志乃に土曜日の予定を尋ねている様子をちらりと眺めながら、掃除当番の志穂子はその場をそっと離れて掃除用具が入っているロッカーに向かった。
「じゃあ、志穂ちゃんお願いねー」
「藤原さん、よろしく」
チョキを作った自分の手を眺めながら、志穂子はこっそりと溜息をついた。校舎の裏にあるゴミ捨て場までは距離があり、面倒なので誰も行きたがらない。だからいつも掃除の最後にじゃんけんで誰がゴミ捨てに行くかを決めるのだが、志穂子はあっさりと負けてしまったのだ。
ゴミ袋の口を縛り、のろのろと教室を出る。袋の中身は紙類が殆どなので重くはないのだが、志穂子の足どりは重かった。ゴミ捨て場を訪れるのは、あの文化祭の日以来はじめてだった。
志穂子は手にしていたゴミ袋を、そっとゴミの山の上にのせる。 昼間のゴミ捨て場はあの夜とは全く違う景色なのに、志穂子の脳裏には薄闇の中の淡い電球の明かりと、そこに佇むふたつの人影が鮮明に浮かび上がっていた。
早く此処を立ち去りたい。志穂子はそれらを振り払うように小さく頭を振ると、勢いよく踵を返した。けれども振り返ったその先には、たった今志穂子の脳内を占拠していたその人が立っていた。
「志穂もゴミ捨て?」
志乃はすたすたとこちらへ近づいて来ると、今しがた志穂子が捨てたゴミ袋の上に自らのゴミ袋をのせてそう尋ねた。そう言えば志乃は視聴覚室の掃除当番だったと、志穂子は思い出す。
「うん。じゃんけんで負けた」
「じゃあ、わたしと一緒だ」
そう言って笑う志乃に、志穂子も笑顔を浮かべた。上手く笑えているかどうかは、自信が無かった。
「もう掃除終わりでしょ? 一緒に帰ろうよ」
「……うん」
即答するつもりだったけれど、微妙な間が空いてしまう。取り繕う為の言葉を探したが、志穂子には見つけられなかった。
「ねえ、志穂」
先に歩き出した志乃が、志穂子を振り返る。
「わたし、志穂に何か気に障ること言った?」
志乃のその言葉に、志穂子は自分の表情が強張るのを感じた。慌てて口角を上げ、笑顔を貼りつける。
「そんなことないよ」
咄嗟にそう答える。それは嘘ではなかった。志乃は志穂子を不快にする言動をとったわけではない。ただ志穂子が勝手に動揺して、勝手にわだかまっているだけなのだ。
「そっか。変なこと言って、ごめん」
明るくそう言って笑うと、志乃はそれ以上何も言わず足早で校舎に向かって歩き出す。その様子に、志穂子は何とも言えない後ろめたさを感じた。
文化祭実行委員になり、その準備を通して志穂子と志乃は一緒にいる時間が圧倒的に増えた。 志乃の隣では自然体でいられるから文化祭の準備以外でも共に行動することが多くなり、いつしかクラスメイトからはふたりセットで数えられるまでになっていた。
けれどあの日以来、志穂子は志乃の目を真っ直ぐに見つめることができない。圭介と付き合っていることを志乃が志穂子に報告する義務なんてないのに、気づけばいつもそのことを考えていた。
――志穂は愛想笑いで誤魔化すからちょっと分かりにくいのよ。
またわたしは、自分の気持ちを誤魔化そうとしているのだろうか。志穂子はそう自問した。夏の終わりにあれだけ後悔した筈なのに、自分はまた同じ過ちを繰り返すのか。
相手を騙し通せるくらいに完璧な作り笑いを備えているわけではないのに、また中途半端な愛想笑いで自分の気持ちを誤魔化そうとしている。結果的にそれが和彦や美奈や恵を傷つけてきたのに、今度は志乃までも傷つけようとしていた。
「志乃!」
気づけば志穂子は、自分でも驚くくらい大きな声で志乃を呼び止めていた。
志乃から見放されたくはなかった。だから志穂子は、呆れられても引かれても良いから自分の気持ちを正直に伝えようと決意した。文化祭を通してクラスメイトたちと向き合う努力をしてきたのに、また夏以前の弱い自分には戻りたくなかった。
特別棟の裏のベンチは、今日も静かだった。少しずつ赤く染まり始めている桜の葉が、風が吹く度にかさかさと乾いた音をたてるくらいだ。ベンチの上に散り落ちていた落ち葉をそっと手で払うと、志穂子と志乃はふたり黙って腰かけた。
何から話せば良いだろうか。志穂子はじっと考えた。正直、何故こんなにも志乃と圭介が付き合っていることに動揺しているのかは志穂子自身よく分かっていない。けれども、志穂子が自覚していたよりも志乃の存在が大きなものであるということは痛感していた。
「……わたし、志乃に付き合っている人がいたことがショックだったみたい」
ようやく口を開いた志穂子に、志乃は驚いたように目を見開いた。誤解されたくなくて、志穂子は口を開きかけた志乃を制して言葉を繋ぐ。
「分かってるよ。何もかも全てを伝えることが重要じゃないことくらい、ちゃんと分かってる。だけど、偶然に事実を知って、自分でも驚くくらいにショックを受けてたの」
志穂子は膝の上に視線を落として制服のスカートの裾をいじりながら、我儘でごめんと小さく謝った。志乃の顔は、恥ずかしくて見ることができない。
自分のことを相手に知ってもらう時、誰に何をどのタイミングで伝えるのかはその人の自由だ。伝えなければならないことを伝えなかった為に関係がこじれてしまう場合もあるけれど、それも自己責任だと志穂子は身をもって学んだ。
そんなことは分かっている筈なのに、志穂子は志乃の特別でいたかったらしい。 他人から詮索されるのも他人を詮索するのも嫌いな筈だったのに、自分は志乃から大切なことを打ち明けられる存在でいたかった。これまでは誰が誰と付き合おうと興味は無かったのに、志乃からその事実を知らされていないことに、自分が志乃を信頼している程は思われていないのかも知れないと自信を失いそうになるのだ。
「ちょっと待って。わたし、誰と付き合ってるの!?」
把握しきれていない自分の気持ちを全て伝えられたとは言い難いが、それでも志穂子は何とか思いを言葉にした。幼稚だと思われやしないかと志穂子が身を固くしていると、志乃は不思議な問いを発した。
「え……?」
「ごめん、本気で分からない。何でそんな話になってるの?」
「だって、文化祭のあとにゴミ捨て場で……」
志穂子がそう言いかけると、志乃が絶叫した。何となくおかしいと志穂子も感じ始めていたが、志乃の叫びにびくりとする。
「嘘、マジで!? 志穂、あの場にいたの?」
そう言って頭を抱え込んだ志乃に、志穂子は思わず小さく謝った。別に覗き見したわけではなく不可抗力なのだけれど、志乃が全身で恥ずかしがっているのが分かったので条件反射だ。
「わたし、圭介とは付き合ってないよ! ただの幼馴染だから!!」
がしがしと髪をかきむしると、勢いよく顔を上げて志乃はそう宣言した。
「圭介も太一も、付き合いが長い分他の友達より特別だけど、でもそこに恋愛感情は無いから」
きっぱりと断言されて、ほっと息を吐いた。けれども次の瞬間、急激に恥ずかしさがこみ上げてくる。
「ごめん。わたし勝手に勘違いして、嫌な態度とってた」
何故自分に本当のことを言ってくれないのだろうと拗ねているだけでも子供じみているのに、それが勘違いだったなんていたたまれない。情けなくて、志穂子は泣きそうになった。
「嬉しいよ。志穂がわたしを親友だと思ってくれていたことが、すごく嬉しい」
そう言うと、志乃は小さく顔を歪める。
「本当は、そんな風に思ってもらう価値は無いのに。わたしは打算で、志穂に近づいたんだから」
言葉の意味が分からなくて、志穂子は志乃をじっと見つめた。志乃は志穂子から目を逸らして秋の空を見上げる。青い空には、一筋の飛行機雲が伸びていた。
「わたしは、志穂が圭介のいとこだって知って近づいたんだ」
そういう人は実際にいた。圭介が無口なので興味本位で色々尋ねてくる女子たちは多いが、たまに本気で圭介を好きな生徒が志穂子に仲をとりもってもらおうと声をかけてくるのだ。煩わしいので適当にかわしているが、中には志穂子に心無い陰口を叩く人がいるのも知っていた。
「だって、志乃はそんな必要ないじゃない。第一、志乃はそんな人じゃない」
半年前にいとこになった志穂子より、幼馴染の志乃の方が圧倒的に圭介に近い。志穂子の事情を知っていれば、圭介に近づく為に志穂子を利用する利点なんて無いことが分かる筈だ。そもそも志乃は、どんな理由があっても誰かを利用して目的を達成するような人ではない。
志穂子がそう断言すると、薄い雲だけを残して彼方へと消えてしまった飛行機を目で追いかけていた志乃が驚いたように向き直る。ふたりは目を逸らすことなく、じっと見つめ合っていた。
「わたしはずっと、祐兄のことが好きだった」
ぽつりと、志乃は想いを吐露した。
「祐介、さん……?」
意外な人物の名前に、志穂子は戸惑った。圭介の兄の祐介は自分たちより十歳も年上で、しかも来年の春には結婚するのだ。
「家が近くて同じ幼稚園だったから圭介や太一とは毎日のように一緒に遊んでた。たまにだけど、中学生だった祐兄もわたしたちの相手してくれてね。初恋は祐兄で、二番目も三番目もなく、ずっとずっとわたしは祐兄が好きだったの」
そう言い切ると、おかしいでしょと自嘲気味に志乃は笑った。
「祐兄には妹か、下手したら圭介と同じ弟くらいにしか思われていないのは分かってる。祐兄が高校生になって彼女ができて、でもわたしはランドセル背負ったちびっこで。早く大人になりたくて、頑張って背伸びして化粧も覚えて。でも、待ってくれないのよ。いくら頑張っても、十歳の年の差は縮まらないの」
「志乃……」
無理矢理に笑う志乃が痛々しくて、思わず志穂子は志乃のブレザーの袖をつまんだ。
「高校時代の彼女とずっと続いてることは知ってたけど、もしかしたらという気持ちをいつまでも捨て切れなかった。県外に就職してからは会う回数もめっきり減ってしまったから、幼馴染以外にも繋がりが欲しかった。 新しくできたいとこの友達でも何でも、祐兄と繋がっていたかったの」
十一月の冷たい風が、ベンチに座るふたりの間を吹き抜ける。かさかさと葉が揺れる音に紛れて、最低でしょと志乃が呟いた。
「わたしね、一学期はまるでクラスのことに無関心で、誰のこともちゃんと見てなかった」
志乃の呟きを無視して、志穂子は話し始めた。彼女はただ黙って、志穂子の言葉に耳を傾けていた。
「新しい家族との距離感に迷って、友達との距離感も分からなくなって。でも自分の居場所だけはちゃんと欲しくて、安定した場所さえあればそれで良いと割り切ってた。でも志乃は自由で、正直クラスで浮いてるんじゃないかと思ってた」
志穂子がそう言うと、志乃は苦笑いを浮かべた。
「けど、浮いてたのは誰とも向き合っていないわたしの方だった。志乃は誰にも束縛されないけれど、きちんとみんなと向き合っていた。ハナちゃんの絵が上手いことも山ちゃんが書道で表彰されたことも、ちゃんと知ってた。でもわたしは、誰のことも何ひとつ知ろうとしていなかったの。だからわたしは、クラスのみんなと向き合おうと決めた。志乃みたいになろうって、自分なりに努力した。だから今のわたしには分かるの。きちんと志乃を見てきたから、志乃がわたしを利用したなんてありえないと断言できるんだよ」
「志穂……」
一気に思っていることを打ち明けると、志穂子は掴んでいた志乃の袖をより一層強くぎゅっと握る。すると志乃のもう片方の手が伸びてきて、志穂子の指先にそっと触れた。
「ありがと、志穂」
「わたしの方こそ、ありがと。志乃が文化祭実行委員に立候補してくれなかったら、わたしはいつまでもクラスで浮いた嫌な子だった」
互いに、囁くようにありがとうと伝える。触れ合った指先は冷え切っていたけれど、心はじんわりと暖かい。何だか気恥ずかしくなって、志穂子は思わずふふっと笑い声を上げた。つられるように、志乃も小さく肩を揺らす。
「寒くなってきたね」
「うん、風が冷たい。そろそろ帰ろうか」
見上げると、先程まであった飛行機雲はいつの間にか消えてしまっている。そこにあるのは、ただ透き通るような青一色だけだった。
2012/06/20