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イトコ



無神経の代償 9


 仄かに赤く染まる西の空が夜の色に塗り替えられる頃、ようやく祭は終わった。
 簡単な打ち上げをする為に集まった教室には、高揚感と疲労感がないまぜになっている。今日はこのまま下校し、明日の午前中に全てを撤去して後片付けをする予定だ。
「おーい、先生からの差し入れだぞー」
 ダンボール箱を抱えた星田と照井がよろよろと教室に入って来ると、生徒たちから歓声が上がった。文化祭が無事に終わり、生徒たちの頑張りを労う為に担任教諭がポケットマネーをはたいて全員に飲み物を買ってくれたのだ。
 近所のスーパーまで買い出しに行かされた星田と照井が教壇に箱を置くと、どっと生徒たちが集まって来る。その様子を、生徒たちと同じくオレンジ色のTシャツを着た担任が満足気に眺めていた。

「志穂ちゃん、お疲れー」
「大変だったけど、終わっちゃうと寂しいね」
 結局、志穂子のクラスのお好み焼き屋は成功に終わり、準備していた食材を全て売り切ることができた。志穂子が安堵と疲労を感じていると、数人の女子から声をかけられた。
「何か、あっと言う間だったね」
 しみじみと志穂子が呟く。夏休みが明けてすぐ、委員になった時にはどうなることかと思ったが、今は終わりを迎えることに何とも言えない寂しさを感じていた。
「そろそろ空いてきたよ。わたしたちも取りに行こう」
 一気に大勢が教壇に殺到したので志穂子たちは落ち着くまで待っていたのだが、殆どの手に渡ったのでそろそろ良いかとひとりが声をかける。

「あんたは紅茶でしょ?」
 志穂子が他の女子たちに続いてダンボールを覗きこもうとした瞬間、誰かにそう声をかけられ、何かが背中に押しつけられた。
「美奈……」
 振り返ると、美奈がストレートティーのパックをぐいと差し出していた。
「ありがとう」
 驚きながらも、小さくお礼を言って受け取る。志穂子は昔から紅茶が好きで、飲み物を買う時はいつもストレートティーかレモンティーなのだ。
「お疲れ」
 それだけ言うと、美奈はさっさと志穂子から離れて行った。これまでも挨拶は交わしていたし、文化祭の準備を通して会話はしていた。けれども美奈の方から志穂子に言葉をかけてきたのは、あの始業式の日以来はじめてのことだった。
 認めてもらえたのだろうか、そう志穂子は自惚れてみた。美奈と恵は、志穂子がふたりと正面から向き合っていなかったことに失望したのだと今なら分かる。今回の文化祭を通してクラスメイトたちと関わるようになって、少しはふたりに認めてもらえただろうか。
「お疲れ、志穂」
 少し離れた所から、恵がオレンジジュースのパックを軽く掲げて見せる。乾杯をするように、志穂子も美奈から受け取ったアイスティーを掲げて見せた。

 疲れた体はぐったりと重いけれど、志穂子の心はふわふわと軽かった。
 彼女はクラスメイトたちと言葉を交わしながら、今一番声をかけたい相手を探す。けれども明るい茶色の髪をゆるく結んだその人の姿は、教室の何処にも見当たらない。
「ねえ、志乃知らない?」
「えっ、本部の方に行ってるんじゃないの?」
 傍にいたクラスメイトに尋ねてみたけれど、逆に驚いた顔で聞き返されてしまう。
「今日の委員会はもう解散なの。全部明日片付けることになってるから」
 そう答えながら、志穂子は何となく落ち着かなくて他の女子たちにも尋ねてみた。
「さっきゴミ捨てに行ったけど、でも三十分くらい前の話だからいくらなんでも遅いよね」
「他のクラスの子と喋ってるんじゃない? ほら、志乃って色んな所に顔を出してるじゃん」
 部活の片付けの方に回っている生徒もいる為にクラス全員が揃っているわけではないので、誰も志乃がいないことを不思議に思っていなかったらしい。確かに志乃は自由気ままで誰かとべったり行動するタイプではないが、今この場所にいないことは志穂子にとってかなりの違和感だった。

「わたし、ちょっと探して来る」
 飲み終えた紙パックをゴミ箱に捨てると、志穂子は教室の外へ出た。祭の熱が残る各教室に志乃の姿がないか見やりながら廊下を抜け、階段を降りていると背後から声をかけられた。
「見つけたぞ、志穂!」
 その言葉と同時に、後頭部に軽くチョップを入れられる。驚いて両手で頭を押さえながら振り向くと、そこには憮然とした表情の光が立っていた。
「志穂め、よくもやってくれたな」
 何のことかさっぱり分からずに志穂子が目を白黒させていると、光が悔しそうに言った。
「一年坊の分際で、俺たちのクラスに対抗してくるとは生意気だぞ」
「え、別に対抗なんて……」
 文化祭が始まる前も始まってからも光のクラスの人気は圧倒的で、到底太刀打ちできない志穂子たちのクラスはただマイペースに楽しんでいただけだ。
「志穂、これだけは言っておく。お好み焼きの形を変えるなんて邪道だ。おまえたちが卑怯な手を使って、先輩は悲しいぞ」
「でも、先輩のクラスはお好み焼きを買ったら、先輩と握手できるとかメアド交換できるとか写真がもらえるとか、色んな特典を付けてるって聞きましたよ。そっちの方がよっぽど卑怯です」
 女子生徒たちがはしゃぎながら話していた嘘か本当か分からない噂を持ち出して、口を尖らせながら志穂子も応戦する。 文化祭までに何度も開かれた委員会を通して光とはすっかり顔馴染みになり、志乃とクラスメイトということもあって会えばからかいの対象にされるようになっていた。最初は戸惑っていた志穂子だが、誰にでも人懐っこい光は話しやすく、今では志乃ほどではないがそれなりに気安く言葉を交わせる存在となっていた。
「アホか。そんな簡単にメアド教えるわけないだろ。希望者には一緒に写メ撮ってやっただけだよ」
「……充分卑怯です」
「だって御三家は大人気なんだから、仕方ないじゃん」
 しれっと言い放った光に志穂子が呆れながら突っ込むと、更に開き直った答が返ってくる。思わず志穂子が吹き出すと、光も一緒になって笑った。

「そういや相方は? もう帰った?」
「いえ。ゴミ捨てに行ったまま帰って来ないから、ちょっと探しに行こうと思って」
「お、奇遇だね。俺も今からゴミ捨てだから、一緒に行ってふたりまとめて説教だ」
「だから、何でわたしたちがお説教受けなきゃいけないんですか?」
 下校する生徒たちの波に乗り、志穂子と光は軽口を交わしながら校舎の外へ出る。
「だって、君らのクラスの口コミすごかったからな。 ナイスアイデアだってさ」
 光の発言に、思わず志穂子の頬が緩む。すると、横から伸びてきた長い指で頬をつねられた。
「何嬉しそうな顔してるんだよ。トータル売上ではうちのクラスの方が上だからな。まあ、一年坊にしたら頑張ってたけどさ」
「分かってますよ」
 にまにましながらそう答えると、照れくさそうに足を速めていた光が急に立ち止まる。
「先輩?」
 訝しそうに声をかけながら、志穂子は光の背中越しに前方を見やった。外はすっかり日が暮れ、目の前にあるゴミ捨て場のトタン屋根に取り付けられた裸電球がぼんやりと薄闇を照らしている。そんな淡い黄色の光の中に、ふたつの人影があった。

 その人影を見た瞬間、志穂子の心臓はどくんと音を立てた。
 男子生徒の胸の中で、肩を震わせて泣いている女子生徒。目の前で抱き合っているふたりの姿に奥手な志穂子は激しく動揺したのだが、夜目に慣れて、そのふたりが志穂子の知る人物だと分かった瞬間に心臓の音が変わった。
「……あの噂は、本当だったのか」
 全身が固まってしまった志穂子の隣で、ぼそりと低く光が呟く。恐らく無意識のうちに発したであろうその言葉を耳にした瞬間、志穂子はじりじりと後ずさった。そうして、絶対に目の前のふたりに自分の存在を気取られないようにと気配を殺しながら、素早く踵を返した。


 気づけば、ゴミ捨て場とは真反対に位置するいつものベンチに志穂子は腰かけていた。今も、壊れそうなくらい心臓が早鐘を打っている。上手く酸素を肺に取り込めなくて、ひどく呼吸が乱れていた。
 志穂子の目の前で抱き合っていたのは、圭介と志乃だった。制服のブラウスの胸の辺りをぎゅっと握りしめ、志穂子は無理矢理に息を整えた。

 ――金澤も大宮に対してはまんざらでもなさそうだしね。

 何ヶ月も前の恵の言葉が、鮮明に蘇る。ああ、ふたりは付き合っていたんだと、志穂子は大きく息を吐いた。そうすると体から全ての力が抜けた。ずるりとだらしなくベンチにもたれ、ぼんやりと夜空を見上げる。
 そういうことなのだ。女子とは殆ど言葉を交わさない圭介は志乃とだけは親しくて、付き合っているなんていう噂もあって。志乃の中学の先輩である光は圭介の先輩でもあるということで、きっと彼は圭介のことも知っているのだろう。光が思わず発したひとりごとは、そういうことなのだ。
 頭上に広がる秋の空は昼間と同様に雲ひとつ無く、西の空には宵の明星が輝いていた。

(あれは、志乃のことだったんだ……)
 昼間このベンチで、圭介は志穂子の頑張りを認めてくれたのだと思っていた。‘E組の文化祭委員’という表現に自分のことだと嬉しさを感じていたのだけれど、委員はもうひとり別にいる。
 志穂子の体内にあった熱は、まるで吹き抜ける秋風のように冷えてしまった。
「さ、帰ろ」
 まるで自分に言い聞かせるように、小さく呟く。その声があまりにも弱々しかったことには気づかないふりをして、志穂子は鉛のように重くなってしまった体を無理矢理に動かした。



2012/06/01

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