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16. エピローグ


 ウィンと微かな音をたてて、扉が開く。
「あれ、来てたのか?」
 窓から一番離れた奥の席で熱心にキーボードを叩いていた人物が顔を上げ、俺の姿を認めると少し驚いた表情を見せた。
「ああ、ようやく謹慎が解けた」
 そう答えながら久しぶりに自分の席につくと、俺は大きく息を吐いた。


 戻って来た俺を待っていたのは、軽蔑とか呆れとか好奇の視線だった。
 誰もが簡単に、時空を超えられるわけではない。だからこそ、厳しい選抜試験が行われるのだ。それを乗り越えて栄誉を掴んだ俺に周囲は称賛や羨望の眼差しを向けていたのだが、絶対とも言うべき滞在期限を破り、コントローラーからの警告を無視し続けた帰還後の俺に対する視線は冷やかだった。
「どうだ、久しぶりに戻って来た感想は?」
 キーボードの音が止まり、三嶋冬人が声をかけてきた。
「うん、意外とあっさり順応してる」
「そんなものか。まあ、こっちでは三週間しか経ってないから、俺はあまり久しぶりの感じがしないけどな」
 俺が九ヶ月という長いのか短いのかわからない期間を過ごした間、こちらではたった三週間しか経っていないのだ。ほぼすべての季節を体感したあの時間が、戻って来たら殆ど進んでいないというその事実が、余計に幻だったように思えてくる。

「かなりまいってるようだな」
 再び溜息をついた俺に、冬人が同情を滲ませた視線を投げかけてくる。
「まあな」
「馬鹿な奴らは無視しておけ。試験でおまえに勝てないから、今回のことが余程嬉しいのだろう」
 普段は滅多に人を気遣うような発言をしない冬人が慰める程、今の俺は弱った顔をしているのだろうか。右手で自分の顔を撫でると、俺は投げやりに言った。
「周囲の反応なんか、どうでも良いんだよ」
 心にあるのは、桜子のことだけだった。謹慎中、瞼の裏に浮かぶのは、冬の桜の木の下で泣く桜子の姿ばかりだった。
「彼女に会いに行ったこと、後悔しているのか?」
 不意に投げかけられた質問の答に窮する。冬人の視線から目を逸らすと、俺は考え込んでいた。
 行って良かったと思う。けれども、行くべきではなかったと思う。いや、関わるべきではなかったのだ。
 彼女が感じた温度を感じ、彼女が触れた空気に自分も触れられただけで満足すべきで。彼女が好きだった本を、彼女の生きた世界で読む。それだけで、満足すべきだった。すべては、欲望を抑えられなかった俺が悪いのだ。

 彼女が愛した桜の木を、どうしても見てみたい。そんな願いがそもそもの発端だった。
 はじめて彼女の小説を読んだのは、自分が通う大学の卒業生だという親近感からだ。空気の温度を感じられるような繊細な筆致が心に触れて、すべての著書を読破するのに一週間もかからなかった。
 ようやく掴んだタイムトリップの切符を握りしめ、いざ彼女の生きる時代へと飛び立つ。けれども辿り着いたのは、俺が希望していた季節のほんの僅かあとだった。目的時間に少しの誤差が出るのは珍しいことではない。わかってはいたけれど、落胆は大きかった。滞在期間は現地で半年と決められている。つまり俺は、枝いっぱいに咲き誇る桜の花を見ることはできないのだ。
 複雑な心境で、僅かに残った花弁を眺めながら佇む。そこへ現れたのが彼女だった。

 名前を聞いて、内心驚愕した。過去の世界ではじめて声をかけた相手が、自分がずっと会いたいと願っていたその人だったのだから。
 幸せだった。けれども、恐ろしくもあった。
 自分はこの世界にいるべき人間ではない。だから、誰かと深く関わることは許されない。出発前に、何度も何度も受けてきた忠告。わかっていた。わかっていたつもりだった。だから最初はできるだけ避けていたし、なるべく会わないように行動していた。
 けれどもあの梅雨の日に、弱っている彼女を見て声をかけずにはいられなかったのだ。

「俺は身勝手だと、つくづく思ったよ」
 絞り出すように、俺は呟く。冬人は何も言わず、ちらりと視線だけを向けてきた。
「俺はあの人に会いたくて、勝手に会いに行った。けれども彼女は何も知らないまま、彼女の意志に反して俺に纏わりつかれて、そして置き去りにされたんだ」
 自分はここから彼女を感じることができるけれど、彼女の世界から俺を感じることはできない。誰に軽蔑されようが笑われようが後悔なんてしないけれど、無責任に関わって彼女を泣かせてしまったことだけが痛い。
「確かに、身勝手だな」
 うなだれる俺に、とどめを刺すかのようにきっぱりと冬人が言い放った。
「楓はすべてを覚悟しておまえの意思でやってるのだから、この結果に同情の余地はない。でも、彼女には別れが決まっている出会いしか用意されていなかった。残酷だな」
 事実だけど、第三者からはっきりと言葉にされると辛い。俺は黙って俯いた。
「でもな、おまえたちには出会う以外の選択肢はなかったんだよ」

 冬人の意外な言葉に、俺はその顔をまじまじと見つめた。
「おまえが期限を過ぎても帰って来ないことを知って、いや本当はおまえが出発する前から、おまえが彼女の運命を変えるのではないかと俺はずっと危惧していた。おまえの彼女への執着は、研究対象の域を超えていたからな」
 呆れを滲ませながら、そう冬人が言った。
「おまえが過去の人物に関わって歴史を変えるようなことがあれば、謹慎どころの話じゃない。俺は定期的に彼女の文献に目を通していた。でも、何も変わらなかったんだよ」
 俺は瞬きもせず、友人の顔を見つめていた。冬人は俺の方を見て小さく笑うと、言葉を繋いだ。
「つまりはそういうことだ。楓が彼女の人生に関わることは歴史の中で決められていた。それでもって、今ここに彼女の作品が残っているのさ」

 冬人はそれだけ言うと、呆然としている俺を無視し、さっさと自分のマシンの電源を落として帰り支度をはじめた。
「そうだ、おまえの出発前に見つかった、彼女の甥っ子への手紙の続きはもう読んだか?」
 ふと思い出したように、冬人が尋ねてくる。
「いや」
「甥っ子への手紙ではなかったけどな。ライブラリページにスキャンされたものがアップされているから読めよ」
 そう言って軽く手を上げると、冬人はドアの向こうに消えて行った。

 誰もいなくなった無機質な部屋の中で、俺はひとり、冬人が残した言葉に混乱していた。
 やがてデスクの引き出しを開け、一冊の本を取り出した。色褪せた表紙には、桜の花が枝いっぱいに咲き誇っている。表紙を捲ると、深緋色の楓が描かれたしおりが挟まれていた。
 指先でそっと触れると、俺は窓の外を見やる。そこにはいつもと変わらない景色が広がっていた。三週間前と同じ景色。三週間後も、三ヶ月後も、きっと三年後も表情を変えることなく今と同じ風景が広がっているのだろう。
 軽く目を閉じてそっと息を吐くと、俺はライブラリページにアクセスした。認証画面がパスワードを要求してくる。キーボードを叩き、設定している十文字を入力する。

 暫く待つと、彼女が書いたという手紙が目の前のモニター画面に映し出された。一言一句、網膜に焼きつけるように追っていると、やがてぼんやりと視界が滲んでくる。
 俺は手元の色褪せた本を掻き抱き、声を殺して咽び泣いた。
 窓の外はそよとも風は吹かず、ただじっと老木が佇んでいる。葉も花もつけていないその木だけが、俺と彼女を繋ぐ証だった。


   ***


拝啓 未来の君へ


春の風は、優しいですか?
夏の太陽は、激しく照りつけていますか?
秋の空は、高いですか?
冬の空気は、凛と張りつめていますか?

君が生きる未来に、桜の花は咲いていますか?

この世界にある、色や、匂いや、温度や、色んなものが
少しでも君がいる世界に残っていればと、
あの大きな木の下で祈っています。



春と秋は決して交わらないことを、
過去と未来が交錯してはいけないことを、
わたしたちは知っています。

けれども春の先に秋があり、更にはまた春が巡ってくることも、
過去と未来が繋がっていることも、
わたしたちは知っているのです。

だからいつも、記憶の中で会いましょう。


< 了 >



2011/05/31

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