恋文
15. 冬の蕾
「こんな話、信じられないよね?」
近づいて来たわたしに、楓は表情を探るように尋ねてきた。
「ううん、やっと納得できた。ずっとそんな予感はしてたから」
「ずっと?」
わたしの答に、楓は微かに眉根を寄せた。
「秋にここで会った時、しおりをこっそり挟んだあの時に、わたしは見てしまったの。楓の私物である野辺留一の小説の発行日が、未来の日にちだということを」
「馬鹿な……」
いつも冷静だった彼が、目の前で明らかに動揺していた。どうやら楓は気づいていなかったらしい。
「当然だけど、未来のものをここに持ち込むことはできない。だからこの時代に既に出版されていたあの本を敢えて選んで、この場所で読む為に持って来たんだ」
「確かにあの本は去年の春に文庫化されているわ。でもね、楓が持っているのは今月に重刷される筈のものだったの。そしてわたしがその本を手に取ったのは、去年の十一月だったのよ」
楓は大きく息を吐くと、自らの手で顔を覆った。やがてくつくつと肩を震わせ、笑い声をあげた。
「あーあ、自分の意図していないところで既にやらかしてたのか。滑稽だな」
空を仰ぎ、自嘲気味に呟く。
「僕の時代には書籍はすべてデータベースになっていて、紙ベースのものはもう出版されていないんだ。もちろん図書館で読むことはできるし、個人で所蔵しているマニアもいる。けれど、データベースに慣れている僕らには、重刷という概念がないんだよ」
彼が告げる未来の姿に、わたしの心がまたもや揺れる。紙とインクの匂いを感じながらページを捲ることは、未来では希少な経験になってしまうのだろうか。
「奥付と呼ぶのよ。著者や編集者、出版社や発行日を記した最終ページ」
「うん、知ってる。知識としてはあったけど、でも意識して見たことはなかったな」
「わたしが変なのかも知れないけれど、奥付が気になっていつも確認してしまうの。何回も重刷されてたらすごいなあと思うし、世間で話題になる前に初版で購入していたら嬉しくなる」
「やっぱり知識だけじゃ、ボロが出るんだな。本当はね、しおりを使ったのもはじめてだったんだ」
確かに紙の本がなければ、しおりも必要ないだろう。わたしにとって当たり前のことが楓にとっては当たり前ではないという事実に、心の奥がちくりと痛んだ。
「わたしの馬鹿げた空想であれば良いのにと、ずっと思ってた」
ぽつりとそう呟く。
「最初はね、楓は帰国子女なのかなと思っていたの。わたしが感じた微かな違和感は、長い間異なる文化の中で暮らしてきたせいなのかなって」
海外から編入して来たのかと思えば、はじめのうちはそれで納得できた。けれどもいつしか、それでは説明がつかなくなってしまったのだ。
「奥付にある未来の日付はただの誤字で、時間差の安否確認はただの楓の気まぐれであれば良いと、ずっと願ってた。でも、真実はそうじゃないって告げるんだもの」
楓はただ黙って、わたしの言葉を聞いていた。
「出版社に確認したら、そんな報告はあがっていないって否定されて。楓がちゃんとここに存在する証拠が欲しくて調べたら、学生課では個人情報は教えられないって断られたけど、国文科の知り合いに尋ねたらはそんな人物は存在しないとまた否定された」
「ごめん」
楓が小さく謝った。
「挙句、楓本人が認めちゃうんだもん。ありえない話なのに、これですべて辻褄が合っちゃうんだもん」
奥付に未来の日付が記されていることも、出版されたばかりの筈なのに本のページが既に黄色く焼けてしまっていることも、ニュースに出るよりも早く安否確認の電話がかかってきたことも。何よりも、新しい季節を迎えるたびに楽しそうにその空気を感じていた楓の様子を思い返すと、わたしは心底納得してしまったのだ。
それは、ここではないどこかに、楓の居場所があることを物語っているのだ。
沈黙が流れる。それを打ち破るようにわたしは、ねえと声をかけた。
「わたしの記憶を消すの?」
不意に湧きあがった不安を、恐る恐る口にする。楓はわたしの目を見つめると、微かに笑った。
「消さないよ」
「良かった」
わたしはほっと、胸を撫でおろす。
「別に消さなくても、僕はこの世界の人と殆ど関わりを持っていないから影響はない。たとえ桜子さんが、僕が未来からやって来たと主張しても、きっと誰も信じないだろうから」
映画や小説では、タイムトリップがばれた時に記憶を消すという選択肢が必ずと言っていいほど登場する。だから消さないという答は、少し意外な気がした。けれども、よく考えれば彼の言うとおりだ。もしもわたしがタイムトリップなんて口にしても、わたしの頭がおかしくなったと思われるだけだろう。
「実際は消さないと言うよりも、消せないんだけどね。僕たちの時代でも、記憶の一部分だけを故意に消すことは難しいんだ。できないことはないらしいけどリスクは高く、他の記憶も全部消えてしまう可能性があるそうだ」
楓の説明に、わたしは肩をぞくりと震わせた。
「ごめんね」
ぽつりと、そう楓が呟いた。
「僕が桜子さんに関わったばっかりに、こんな重荷を背負わせてしまった」
そう言うと、彼は頭を下げた。そっと見上げると、その瞳に贖罪の色が滲んでいる。
「重荷なんかじゃない!」
わたしは思わず叫んでいた。
「記憶を消されないことがわかって、今わたしは、心底ほっとしているの。わたしは楓と出会えて、楓と過ごせて、本当に良かったと思っている。だから、だから重荷なんて言わないで」
最後は涙声になっていた。別れなければならないのに、どうして出会ってしまったのか。それは神様の悪戯としか思えないけれど、出会わなければ良かったなんて思えない。別れることがわかっていても、わたしはきっと、楓と出会うことを望むだろう。
「桜子さん、泣かないで」
楓の長い指が、わたしの目尻を躊躇いがちに拭う。
わたしはぽろぽろと涙を零していたことに、ようやく気づいた。
(行かないで)
「……まだ、桜、咲いてないよ」
わたしは、楓のコートをぎゅっと握る。
「うん。この桜が満開に咲き誇る姿を見られなかったことだけが、心残りかな」
「じゃあ、桜が咲くまで、あと少しだけここにいようよ」
(行かないで)
困ったように楓は微笑むと、ぽんぽんとわたしの頭を撫でた。
「もう充分だよ。僕の生きる世界はこの時代よりも季節の変化が緩やかで、けれど文章でしか知らなかった温度や色や匂いの変化を、五感で感じることができた。だからもう、僕は充分満足なんだ」
わたしは何も言えず、コートを握る手にいっそう力を込めた。
(行かないで)
喉まで出かかっている言葉。けれど、決して発してはいけない言葉。
彼の生きるべき場所は、ここではない。彼には帰る場所があるのだ。
だからわたしは“行かないで”の代わりに、精一杯の感謝を、想いを、言葉にした。
「ありがとう」
予想しない言葉だったのだろうか。彼の瞳が、理由を尋ねるように見開かれる。だからわたしは、少しでもわたしの想いが伝わるようにと、噛みしめるように告げた。
「梅雨の雨が癒しなのだと教えてくれて、ありがとう。夏に吹く一陣の風が爽やかなことを教えてくれて、ありがとう。季節の変化がどれだけ貴重で美しいかを教えてくれて、ありがとう。泣いてもいいよと言ってくれて、ありがとう」
わたしは堪え切れず、俯いてしまった。涙が次から次へと溢れ、ぽとりぽとりと地面に小さな染みをつくる。
(恋する気持ちを教えてくれて、ありがとう)
心の中でそう呟いた瞬間、わたしは楓の腕の中へと引き寄せられていた。
「桜子さん、桜子……!」
強く、強く、抱きしめられる。息ができないくらい鼓動が高まり、嬉しくて切なくて、そして苦しかった。
「桜が咲いたら、どれだけ綺麗か俺に教えて。そのあとの梅雨も、夏も、秋も、冬も、どんなだったか、俺に伝えてよ」
「わかった、伝える。ちゃんと未来に伝えるから」
わたしも楓に負けないくらい、強く抱きしめ返した。この時間が、永遠になれば良いのに。ずっとずっと、ふたりで抱きしめ合ったままいられたら良いのに。
けれど、そんな願いは叶う筈もなく、やがて彼の腕が優しく解かれる。
「行くよ」
見上げると、柔らかく微笑む楓の瞳とぶつかった。言いたいことはたくさんある筈なのにどれも上手く言葉にできず、吐き出された息だけが冷たい空気に白く染まった。
楓の冷えた手が、わたしの冷えた頬をそっと包む。ゆっくりと瞳を閉じて、そして開いた時にはもう、楓の姿はどこにもなかった。
唇に微かな温もりと、耳元に好きだよという囁きを残して……。
寒空の下、どれくらい佇んでいたのだろうか。ふと、桜の木の細い枝に目が留まる。
そこには、北風に震える小さな固い蕾があった。悴んだ指先で、そっと触れる。寒さに耐えて春を待つその姿に、喉の奥から嗚咽が漏れた。
2011/05/23