恋文
07. 秋月の下で
秋の夕暮れのキャンパスは肌寒い。
亜矢と別れたわたしは閉館間際の図書館を訪れ、楓の姿を探していた。けれども館内の人影はまばらで、楓の姿は見当たらない。念の為に窓の外を覗いてみたものの、そこには夕闇の中にひっそりと桜の木が佇んでいるだけだった。さすがにもう帰っているだろうな、そう思ってわたしも図書館をあとにする。
外に出ると秋の風が吹き抜け、わたしはカーディガンを持って来なかったことを本格的に後悔していた。
明かりが灯りはじめたキャンパス内を足早に横切り、わたしは校門へと向かった。乗ってきた自転車は、校門のすぐ隣にある駐輪場にとめている。両脇に桜の木が連なる並木道を歩きながら、わたしは鞄から携帯電話を取り出した。
着信履歴を表示させ、一番最新の番号を呼び出した。そして少し緊張しながら、その見慣れない数字の羅列を選択して通話ボタンを押す。無機質なコール音が三回耳元で響いたのち、聞き慣れた声がした。
『もしもし?』
「あ、あの、桜子です」
『ああ、桜子さん。教授の具合、どうだった?』
楓の心配そうな声が、耳元で聞こえる。
「ただの過労だって。念の為、今日一晩だけ入院して明日には退院できるみたい」
『そうか、良かったね』
「うん、安心した」
携帯電話の向こうから聞こえる楓の声は労わるように優しくて、校門へと続くゆるやかな坂道をのぼりながら、わたしは心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ごめんね、楓にも心配かけて。亜矢も迷惑かけちゃったみたいだし」
『いや、僕は携帯を貸しただけだし』
「でも、いきなりでびっくりしたでしょ? わたしは知らない番号から電話がかかってきて、出てみたら楓だったからすごくびっくりしたよ」
『確かに少しびっくりした』
わたしがそう言うと、楓は声を出して笑いながら認めた。きっと亜矢が強引に携帯を借りたのだろう。
「このお詫びは今度するから」
『いいよ、そんな気を遣わなくても』
「亜矢が今度埋め合わせするって約束したでしょ。亜矢の代わりに、わたしがするから」
わたしはきっぱりと言った。楓は諦めたように小さく笑うと、もう何も言わなかった。
『ところで桜子さんは、今どこにいるの?』
やがて、楓がそう尋ねてきた。不意に吹き抜けた夜風が、桜の葉をさわさわと揺らす。
「学校。自転車を取りに戻って、今から帰るところ」
『そっか。もう暗いから、気をつけて帰りなよ』
「ありがとう」
普段、他の人と電話している時はまったく気にならないのに、今は受話器越しの声がやけに耳元で聞こえる気がして微かに緊張する。楓に気づかれないように、わたしは酸素を求めて小さく息を吸った。
「あのね、楓」
『何?』
目の前に、校門が見えてくる。電話を切る前に、わたしは切り出した。
「楓の番号、登録しておいて良いかな?」
思い切ってそうお願いすると、受話器の向こうに一瞬間があった。
『うん。僕も桜子さんの番号、登録しておくよ』
言わなければ良かったかと後悔が掠めた瞬間、承諾の言葉が返ってきた。ほっと、気づかれないように息を吐く。どうしてこんなにも緊張しているのかと、わたしは自分でも呆れてしまった。
「じゃあ、またね」
坂道をのぼりきり、校門に辿り着いたところでわたしは会話を終わらせる挨拶を口にした。もう少し話していたい気もしたけれど、楓も迷惑だろうし、わたしもこれから自転車で帰らなければならない。
『うん、またね』
名残惜しい気持ちで携帯電話を切って空を仰ぐと、夕日はすっかり姿を消し、三日月がひっそりと暗闇を照らしていた。秋の風が再び吹き抜けていったけれど、体の奥はじんわりと温かくて、わたしはもはや先程までの肌寒さを感じてはいなかった。
その日もわたしは面接の為、リクルートスーツに身を包み、オフィス街を歩いていた。
就活をはじめた頃に比べ、自己アピールはだいぶ上手くなったと思う。マニュアルどおりではなく本当の自分をアピールする言葉が、面接の数をこなすことによって自分の中で取捨選択されてゆく。だから最近では一次面接で落とされることはなくなり、最終面接まで駒を進められるようになっていた。
けれども、最後の関門をいつまでたっても突破できない。面接を受け続けることにより、自分と向き合い自分を表す言葉を探しているのは本当だ。しかし一方で、面接官の受けの良い答を探る癖を捨て切れなくて。面接官はたくさんの学生と接している云わばプロなので、きっとそのあたりはお見通しなのだろう。
本当の自分と仕事への熱意をストレートに曝け出すことができれば良いのだろうけれど、情熱だけで決まるような甘いものでもなく、そこをどのように折り合いをつけてアピールするかを未だにわたしは決めあぐねていた。
この時期になると新卒採用を終えた企業が増え、新規募集の数が格段に減ってきていた。
何とか年内に内定を得たいところだけれど、このままでは越年かなと、半ば諦めの気持ちも最近では湧いてきている。周りに左右されずにマイペースで頑張ろうと誓ったものの、これだけ不採用が続けば落ち込むなという方が無理な話だ。今日の面接もあまり手ごたえがなく、わたしは重い足を引きずりながら駅へと向かって歩いていた。
帰宅ラッシュの時間にはまだ早いが、JRと地下鉄が連絡している為、駅構内はそこそこ混み合っていた。わたしは人の波に乗って改札をくぐろうとしたのだけれど、ふと改札脇のショッピングモールに目が留まった。
華やかにディスプレイされた洋服やアクセサリーのショップが並ぶ一番端に、ステーショナリーグッズを扱った店が構えている。わたしは昔から文房具を見るのが大好きだった。実用的なものやお洒落なデザインのものを見て回るだけで、何だか楽しくなってくるのだ。沈んだ気分を浮上させたくて、わたしはふらふらと明るい照明の店内へ入って行った。
店の中は予想以上に広く、わたしは商品を手に取りながらゆっくりと見て回った。特に必要なものはないので見るだけだが、どれもデザインが可愛くて眺めているだけで楽しくなってくる。
やがてわたしは、とある一画で足を止めた。そこは、和のデザインを取り入れた文具のコーナーだった。ノートや便箋など様々な商品が並べられている中で、わたしの目を引いたのは、読みかけの本に挟むしおりだ。市松模様や麻の葉模様のような幾何学的な模様が描かれているものと、梅や竹のような絵柄が描かれているものとがあり、それらは整然と扇形に並べられていた。
わたしは、吸い寄せられるように一番端にある一枚を手に取った。そして、暫くの間じっと眺めたのち、わたしはいそいそとそれをレジへと持って行った。
2011/03/09