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06. 見慣れぬ数字


 ひとたび季節が変わると、秋はどんどんと加速する。
 ついこの間までノースリーブで暑い暑いと言っていたのに、今は長袖のブラウス一枚でも肌寒い。カーディガンを持ってくれば良かったなと後悔しながら、わたしは秋風が吹くキャンパス内を歩いていた。

 就職課に顔を出すと、カウンターにいる顔馴染みの職員の人がにこりと笑いかけてくれる。軽く会釈すると、わたしはいつものように掲示板に目を走らせた。就職活動は常にネットで行っているが、ネットに載せていない企業の求人がたまに出ていたりする。また、ネットの情報は膨大で見落とすこともあるから、ここで合同セミナーの情報などを再度確認するようにしているのだ。
 今日は大して目新しい情報もなく、わたしは開いていた手帳を鞄にしまった。図書館にでも行こうかな。そう思いながら振り返ると、猫のような大きな瞳とぶつかった。

「あ……」
 思わず漏れそうになった声を、何とか喉の奥に押し返す。
 ピンク色のニットワンピースに身を包んだ目の前の人物は、昭雄の彼女だった。毎日のように大学へ通っていたけれど、幸いにも、別れてから昭雄とその彼女の姿を目にすることはなかった。だから予告も前触れもなく彼女が目の前に現れて、わたしはかなり動揺した。三年生の彼女は、就活を前にした準備講座を申し込みに来たのだろうか。手にはいくつかのチラシが握られている。
 彼女は気まずそうに目を逸らすと、小さく会釈をした。何か声をかけるべきなのかと、頭を巡らす。あの時の哀しみとか怒りとかは、もう残ってはいない。けれど笑って話しかけられる程、わたしはお人好しではなかった。いくら気持ちが離れかけていたとはいえ、きちんとわたしと別れてから付き合って欲しかったというのが元彼女としての本音だ。かといって嫌味を言うなんてありえないし、無視をするのも何だか気まずくて、わたしは心底困惑していた。
 就職課へはあとで寄れば良かったと、先にここを訪れたことを後悔していると、鞄の中で携帯電話が小さく振動した。救いの神だと心の中で感謝しながら、微かに会釈を返してわたしは携帯電話を片手にいそいそと外へ出る。そして発信者も確認せずに、そのまま通話ボタンを押した。

「もしもし?」
『もしもし』
 受話器の向こう側から、聞き慣れた声がする。
「……か、えで?」
 思わず呟いたものの、わたしは激しく混乱していた。彼とは携帯番号を交換したことがないのだ。それなのに、どうしてわたしの携帯の向こう側から楓の声がするのだろう。
『桜子さん、ちょっと待ってね』
 そう言われて訳もわからないまま数秒待つと、電話の向こうからこれまた聞き慣れた声がした。
『サク、今どこにいる?』

「亜矢?」
 再びわたしは混乱に陥った。どうして楓と亜矢が一緒にいるのだろう。この間、図書館で言葉を交わしたふたりの笑顔が脳裏に浮かび、不意にぎゅっと心臓が痛くなった。
『今、大学にいる?』
「うん、就職課」
『じゃあ悪いけど、今すぐE棟の学食まで来て』
 そう言って呆気なく切れた電話のディスプレイに残っているのは、やはり見慣れない数字の羅列だった。

「サク!」
 就職課はE棟と隣接したD棟にある為、移動はすぐだ。息を切らして駆け込んだ学食内をきょろきょろと見回すと、亜矢が大きく手を振っていた。横には楓が並んでいる。
「一体どうしたの?」
 ちくりと痛む心臓を無視し、わたしは少し不機嫌な表情を亜矢に向けた。
「さっき奥村とばったり会ってね、村上教授が倒れたって聞いたのよ」
「え!?」
 予想もしなかった亜矢の言葉に、わたしはひゅっと息をのむ。村上教授はわたしと亜矢が所属するゼミの担当教授で、わたしがこの大学で一番尊敬している人物だ。
「奥村が病院に様子を見に行くって言うから、わたしもついて行こうと思って。サクはどうする?」
「もちろん行くよ!」
 わたしは即答した。亜矢の表情は硬く、深刻な状況だということが痛いほど伝わってくる。詳しい状況を聞こうと口を開きかけた瞬間、不意に亜矢の手の中で着信音が鳴った。
「うん、わかった。サクと合流したからすぐに行く」
 亜矢は手短に用件を伝えると、電話を切った。どうやら相手は同じゼミの奥村くんのようだ。
「水森くん、ごめんね。この埋め合わせはちゃんとするから」
 亜矢のその言葉に、わたしはそこでようやく楓の存在を思い出した。
「気にしないで。それより、早く行った方が良いよ」
 楓はそう言うと、まるでわたしたちを安心させるかのように、きっと大丈夫だからと柔らかく微笑んだ。




「あーもう、心臓止まるかと思ったんだからな」
 消毒液の匂いが充満した病室で、奥村くんは大きく息を吐いた。
「まったく人騒がせなんだから」
 亜矢はそう言うと、ベッドの上の人物をじろりと睨んだ。

 ことのはじまりは、村上教授が研究室で倒れたことだった。たまたま質問事項があって訪れた奥村くんがそれに気づき、慌てて在室の札がかかっていた隣の研究室の扉を叩いて事情を説明した。すぐに大学の職員が付き添って救急車で運ばれたのだが、心配した奥村くんがゼミのメンバーに連絡をし、たまたま大学に来ていたわたしと亜矢と、それからあとひとりのゼミ生が合流して様子を見に行くことになったのだ。
「いや、面目ない」
 ベッドに横たわる村上教授は、小さくなって謝罪の言葉を口にした。左腕には点滴の管が繋がってはいるものの、意識ははっきりしている。
「これに懲りて、不摂生はやめてくださいね」
 亜矢が厳しい顔でぴしゃりと言い放つと、白髪の初老男性はまるで母親に叱られた子供のようにしゅんとして、はいと小さく答えた。倒れたとだけ聞いていたので、心臓か脳かと恐ろしい病名ばかりがぐるぐると頭を回っていたのだけれど、病院に到着したわたしたちが聞かされたのは意外な単語だった。
「まったく、過労だなんて……」
 わたしたちと同じく奥村くんから知らせを受けて合流した井上くんが、呆れたように呟いた。

 研究に没頭すると寝食を忘れる村上教授は、これまでも何度か倒れたことがあったらしい。奥様が厳しく健康管理をされていたらしいけれど、たまたま先週から旅行に行かれているらしく、煩く言う人がいないので食べることも寝ることもあと回しにして、仕事を優先していたらついに倒れてしまったということだ。
「奥様が戻られたら、せいぜい叱られてくださいね」
 亜矢がそう言うと、教授は心底恐れているという表情で、ぎゅっと目をつぶった。
「それじゃあ、俺たちそろそろ失礼します」
 奥村くんの言葉に、わたしたちはパイプ椅子から立ち上がる。大きな病気ではなかったものの、体調が悪い人と長く話すのは禁物だ。
「心配かけてすまなかったね」
「いいですよ。その代わり、俺たちの卒論に不可つけないで下さいね」
 奥村くんの軽口に対し、それとこれとは別だよと真面目な教授は口の中でもごもご言うので、皆で顔を見合わせて笑った。

「はあー、でも大事に至らなくて良かったね。」
 病院を出ると、わたしは安堵の溜息を漏らした。
「まったく、人騒がせなおじいちゃんだよ」
 亜矢がそう零すと、全員が苦笑いを浮かべながら頷く。このあとは皆それぞれバイトなどの予定が入っている為、そのまま解散することになった。車で登校していた奥村くんにここまで連れて来てもらったけれど、帰りは逆方向なので送ると言う申し出は固辞し、亜矢とふたりで電車で帰ることにする。

「そうだ、水森くんにお礼言っといてね」
 ラッシュにはまだ早い電車に乗り込み、空いている席に腰かけると、何だか気が抜けて黙り込んでしまう。ぼんやりと車窓からの景色を眺めていると、ふと思い出したように亜矢が言った。
「どうして人の携帯を使ったの?」
 忘れかけていた疑問を思い出し、わたしは亜矢に詰め寄った。
「いやあ、昨日うっかり充電するのを忘れていてさ。奥村と連絡とるのにバッテリーを切らすわけにはいかないし、サクへは公衆電話からかけようと思っていたらたまたま水森くんが通りかかったのよ」
 それを聞いて、わたしは脱力して息を吐いた。
「びっくりした?」
 ちらりとわたしの方を見て、悪戯ぽい表情で亜矢が尋ねてくる。
「びっくりするに決まってるよ。でも、正直助かった……」
 わたしの答に不思議そうにぱちぱちと瞬きし、どうしてかと亜矢が問いかけてきた。

「あの時ちょうど昭雄の彼女と鉢合わせしていて、どう対応しようか困っていたところだったんだよね」
 微妙な空気を思い出し、結局そのまま出て来たことに少し後味の悪さをおぼえる。
「そうだったんだ。わたしってば、実はナイスタイミング?」
「まあね。でも向こうも罪悪感を感じてたっぽいし、そのまま無視して出て来たのは微妙だったかなあって」
 だからと言って、かける言葉もないので悩んでいたのだけれど。
「別にそれは気にする必要ないでしょ。そんなの気まずくて当然なんだし、向こうは自業自得だよ」
 きっぱりと言い切った亜矢を、わたしは見つめ返した。亜矢のこういうさばさばとしたところに、いつもすごく憧れる。本人に言うと調子に乗るので、もちろん言わないけれど。
「時間が経って話したいと思えばまた会うだろうし、話すタイミングがなければ別にその必要性がなかったってことなんだよ」

 亜矢の言葉に心が軽くなるのを感じて窓の外を見ると、見慣れた景色が広がっていた。どうやら次がわたしの降りる駅だ。
「何にせよ、水森くんの携帯番号もゲットできたし良かったね。ちゃんと登録しておきなよ」
「別にわたしが直接教えてもらったわけじゃないのに、勝手にそんなことできないよ」
 あっさり言い放った亜矢の台詞に、わたしは眉を寄せる。楓の携帯番号を知ることができたのは緊急事態に対する彼の善意によるもので、だから偶然知った番号を利用する気などさらさらなかった。
「そんなの、着歴を登録しておいたからそっちも登録してねと、軽く言えば済む話じゃないの」
 亜矢の言葉に、目から鱗が落ちる思いがした。いつもわたしは堅苦しく考えてしまうけれど、友達なんだから亜矢の言うようにお願いすれば良いだけの話だった。

「じゃあ、わたしの代わりにちゃんとお礼しといてね」
 亜矢があっけらかんとそう言うと、ゆっくりと電車が駅のホームへ滑り込んだ。
「携帯を借りたのは亜矢じゃないの」
「殆ど面識のないわたしにお礼なんかされたって、そんなの気を使うだけじゃん。だから、サクがちゃんと埋め合わせしといてね」
 悔しいけれど亜矢の言うことはもっともで、反論できないままわたしは慌ててホームに降り立つ。楽しそうに笑う亜矢に不機嫌な表情でおざなりに手を振って返すと、電車は夕暮れの中、ゆっくりと発車した。



2011/03/04

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