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の記憶



06. 時を繋ぐ文字


 中間テストも終わった十月最後の日曜日は、見事な快晴だった。駅の外へ出た雨音は、雲ひとつない澄み渡った秋の空を見上げた。
 雨音の通う県立高校は高台の上にあり、その東側に広がる住宅街の一角に雨音の住み慣れた家がある。学校の西側へ下って行くと駅があり、そこからひと駅先のターミナルはショッピングモールと官公庁が集中する市の中心地だ。
 雨音はその賑やかなターミナルの雑踏を泳ぐように通り抜けると、通りをひとつ入った所に佇む、コンクリート打ち放しの現代的なデザインの建物の中へ入って行った。

 五年前に完成した市立図書館は大小ふたつのホールを備え、この辺りの地域の文化の中心的役割を担っている。館内に入ると、予想外にロビーは混雑していた。閑散とした様子を想像していたのに、あまりの人の多さに緊張気味の雨音は戸惑うが、ふと目についた案内板に納得した。大ホールでは市内の中学校の吹奏楽部が合同で行っている定期演奏会が開かれるらしく、学校関係者や保護者などが多数訪れているようだった。
 しかし、大ホールの奥にある小ホールは、やはり閑散としていた。ちらりと遠目にその様子を眺めて、やはり帰ろうかと雨音の足が竦む。その瞬間、入口に立っていた女性と目が合ってしまった。
「どうぞ、中へお入り下さい」
 柔らかい関西のイントネーションで声をかけられると、せっかく来たのだからと、雨音は思い切って足を踏み出した。

 二百名程が収容できる小ホールの中は、人がまばらだった。こんなに集まるのかという気持ちと、やはりこれくらいかという気持ちが半々だ。そもそも、普通がどれくらいかわからないから比較もできない。
 年配の人が多いのだろうと予想をつけていたが、やはり大半が定年を迎えたくらいの年代の男性だった。ただ、数人若そうな人も座っていて、意外な感じがしながらもきっと大学生なのだろうと想像する。恐らく高校生は自分だけだろうと、雨音は思った。
 目立たないように、後ろ寄りの席に遠慮がちに腰かける。どんな服を着れば良いのか皆目見当がつかなくて、とりあえず目立ちにくそうな紺のワンピースを着てきたが正解だったと思った。薄暗いホール内で気配を消し、受付で女性から受け取った資料に目を落とした。一番上には、『室町時代の人々』と太字で記されている。それが、この講演のタイトルであった。

 雨音の誕生日に和也が図書室に持って来たポスターは、この講演会のものだった。正確には「文化の秋」にちなんで四週連続で行われる文化講演会の案内だ。この手の案内は学校にも送られてくるのだが、担当教諭の鈴木はいつも図書室の前の掲示板に貼るように指示をする。図書室を訪れる生徒自体が少ないのだから、せめてもっと生徒の目に触れる所に貼れば良いと思うのだが、図書室が文化の発信源であるという鈴木の妙なこだわりがあるらしい。まあ、目立つ所に貼っていても結果は変わらないだろうけれど、と雨音は思い直す。事実、雨音自身も今まではこういった類のものに一切興味がなかった。
 しかし、この講演のタイトルを見て、雨音は絶対に行かなければと思った。あの話の手がかりになるかどうかなんてわからないけれど、ならない可能性の方が高いのだけれど、少しでも謎を解く糸口になるのなら賭けてみたいと思ったのだ。


 定刻になると、ひとりの女性が舞台の左端に用意されたマイクの前に立った。先程、入口にいた女性だ。簡単に挨拶をし、これから講演をする大学教授の紹介をした。県立大学の史学科の教授らしい。マイクの前でも、彼女のイントネーションは微かに関西の匂いがした。
 まばらな聴衆のまばらな拍手に迎えられ、ゆったりとした足取りで舞台中央へ白髪の男性が向かって行く。いかにも大学教授らしい威厳だなと、小さく手を叩きながら雨音は思った。

 白髪の大学教授は、室町時代の人々の暮らしについて噛み砕いて説明し、それからこの辺りの地域に特化して話を進めていくらしかった。しかし危惧していた通り、専門用語を含んだややマニアックな話は高校生の雨音には難しい。そもそも一年の社会は地理で、日本史の授業を受けるのは二年生になってからだ。中学校で学んだ知識だけでは、到底理解できない。
 やはり無理し過ぎただろうかと、雨音は小さく溜息をついた。不思議なくらい手がかりがつかめない中で見つけた、驚くべき事実。室町時代に実在していた人物かも知れないという可能性だけに賭けて、何でも良いからとにかくこの時代の知識を得ようとこの講演会にやって来たのだ。
 しかし難しい単語は脳をするりと通過し、落ち着きのある低い声はだんだんと眠気を誘う。船を漕ぐことだけは避けたい雨音は、せっかく来たのだから帰りにケーキでも買って帰ろうかと、もはや眠気を逸らすことしか考えていなかった。

「ところで、皆さんはこの辺りの地名に、“宇”という漢字が多用されているのにお気づきでしょうか?」
 長々とした歴史的解釈の説明が終わり、思わぬ方向へ話題が転換して、雨音の興味が再び白髪の大学教授へと戻った。
「言わずもがな、ここは宇和市ですね。そしてこの宇和市の中には、宇波地区、宇野辺地区、宇佐美地区、道宇地区をはじめとする、“宇”という文字が入った地名が点在するのです」
 何気なく聞いていた雨音は、あっと思った。幼い頃から聞き馴染んでいる地名なので意識したことはなかったが、確かに“宇”の付く地名は多い。現に雨音の通う高校は県立宇野辺高等学校だし、雨音が住むのは道宇町だ。
「もともと、この辺り一帯は宇美と呼ばれていました。宇宙の“宇”に“美しい”と書きます」
 どのように話が展開するのかまったく読めない雨音は、教授の話にすっかり引き込まれていたのだが、彼が発した“宇美”という地名に引っかかりを覚える。

「昭和初期に市町村の統合が行われ、残念ながら宇美という地名は消えてしまいました。鎌倉時代の文献にも登場するくらい歴史のある名前にも関わらず、現在使用されていないとは実に嘆かわしいことであります。しかし、その他の小さな地名の多くは、先程も申し上げた通り今も数多く残っております」
 一瞬、画一的な市町村統合への非難めいた方向へ話題が向きかけたが、何とかもとの道筋へ戻る。雨音は自分の住む町に脈々と繋がる歴史の長さを感じて、ただ呆然としながら耳を傾けていた。
「“宇”という文字には、天や空間の他に、精神とか力という意味もあります。古の時代、人は不思議な力を備えていました。それは自然を操る力だったり、病を治す力だったりします。しかし、文化が発達し道具に頼る生活を送るにつれ、人間は徐々に本来備わっていた力を失うようになっていったのです。ところが、一部の人々にはその能力が残されていました。この時代、火や風や水を操ったり、病を治癒する力を持つ人々が実際に存在したのです。しかし、人間とは自分にない力を持つ者を畏怖し、排除しようとする愚かな生き物です。結果、彼らは住み慣れた村を追われ、森の奥へ奥へと居を変えて行ったのです」
 雨音は呼吸をするのも忘れ、壇上を凝視していた。あまりにも鼓動が速すぎて、心臓が痛い。

「宇美は緑豊かな森と清らかな水に恵まれた、美しい土地でした。美しい土地には不思議な力が宿ります。人里を追われた彼らはやがて、“力が宿る美しい空間”である宇美に移り住んで来たのです」



 どれだけ時間が経っただろうか。
 駅のホームに腰かけていた雨音の意識は、ようやく覚醒してきた。講演が終わり、どうやって駅まで来たのか記憶がない。無意識のうちに切符を買い、何とかホームまでやって来たが、そこで力尽きてベンチに座り込んでしまったようだ。
 一体、何本の電車を見送ったのだろう。ホームの向こうに建ち並ぶビルのすぐ上に、赤く滲んだ夕日が迫っていた。
 寒い……。不意に吹き抜けた秋の風に、雨音はカーディガンを掻き合わせた。

 家に帰ると、雨音はすぐにパソコンを起動した。
 以前ブックマークしていた、大学院生のサイトを開く。前に流し読みした記事をスクロールさせる。
 あった。そう口の中で小さく呟いた。


 宇美の東に広がる森の奥には、風を操る一族がいた。


 そこには、そう書かれていた。五百年以上も昔、ミカゼはこの地に生きていたかも知れないのだ。
 雨音は急いでメーラーを起ち上げた。何かにとり憑かれたかのように、一心不乱に文章を打ち込む。そして、色々と考え込んで躊躇する前に、勢いで送信した。自分で興奮している自覚はあったが、どうすることもできない。
 パソコンをシャットダウンすると、雨音は大きく息を吐いた。



2010/11/04

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