雨の記憶
07. 雨の音 風の匂い
雨の中、少女は少年の腕の中にいた。
「すまぬ……」
苦しそうな謝罪の言葉が、耳元で何度も何度も繰り返される。雨は体の芯を冷やしてしまいそうなくらい冷たいのに、少年の腕の中は目眩がするほど熱かった。
「謝らないでくださいませ」
少女はそう言うと逞しい胸に手をついて、密着したふたりの体を離そうとした。
「すまぬ……」
より一層、強い力で抱き竦められる。
――熱い、痛い。
泣かないと誓った筈なのに、瞼の裏が熱くなる。喉の奥から嗚咽が漏れそうになる。その広い背中を抱きしめ返したいのに、自分の腕はそれを許されない。今にも少年の背中へ回りそうになる自分の腕に力を込めて、少女は拳を握った。
掌に爪が食い込む。唇を噛む。
これ以上壊れない為に、早く解放して欲しいと祈った。
いっそ壊れてしまうくらいに、抱き潰して欲しいと願った。
雨は、ますます強くなる。触れ合ったふたりの体は、一向に離れる気配がなかった。
***
目が覚めると、雨音は静かに涙を流していた。夢の中の少女の気持ちにシンクロして胸が痛い。馬鹿げている、そう思った。幼い頃に聞いた物語に執着して、夢にまで見て。挙句の果てに、感情移入して泣いている。
けれども、笑い飛ばせない現実味があった。肌を刺す雨の冷たさとか、抱きしめられた強さとか熱さとか。何よりも、胸に広がるやり切れない哀しみが夢にしてはリアルすぎるのだ。
思わず布団の中で、自分の体を抱きしめる。以前、出会いの場面が夢に出てきた時も、すべての感触がやけに現実的だったことを思い出す。
怖い。何故だかわからないけど、ただそう感じて、雨音は自分の肩を抱きしめたまま丸まっていた。
結局そのあとも寝つけなくて、雨音はそっと階下に下りるとリビングの電気をつけた。時間はまだ早朝の四時半だ。
パソコンを起動させる。静かな部屋に、ウィーンという微かなモーター音が響いた。アイコンをクリックし、メーラーを開く。夕方にメールを送ったばかりなので先方はまだ読んでいない可能性の方が高いと思いつつ、受信メールを確認する。しかし予想に反して、メールボックスには一件の新着メールが届いていた。
差出人は、フミとあった。件のサイトの管理人のハンドルネームだ。微かに震える手でクリックし、雨音はその新着メールを開いた。
澤田 様
はじめまして。管理人のフミこと、長瀬史子と申します。
この度は丁寧なメールを頂き、ありがとうございます。おばあさまの貴重なお話を、興味深く拝読致しました。
ご指摘の通り、おばあさまのお話にあるミカゼとは、風の一族の弥風で間違いないと思われます。
しかしながら、水の一族との政略結婚に関しては、残念ながら記録が残っておりません。
大変興味深いお話でありますので、担当教授に報告し、再度文献を調べてみたいと思います。
詳しいことがわかりましたら、メールにてご報告させて頂きます。
つきましては、一度お会いして詳しいお話をお聞かせ頂けないでしょうか?
メールの内容からして、宇和市近郊にお住まいとお見受けします。
日時や場所に関しては澤田様のご都合に合わせますので、もしよろしければご検討いただけると幸いです。
長瀬史子 拝
がっかりしたような安心したような、不思議な気持ちだった。結局、何もわからなかったのだ。
調べてくれるらしいが、内容が内容だけに、調べてわかることなのかそもそも怪しい。先方は非常に興味を持ってくれたようだが、熱に浮かされたように勢いでメールを送ったことを、雨音はもう後悔し始めていた。先程の夢を思い出し、深入りするのをやめた方が良いと脳の奥でシグナルが鳴っている。
突然のメールにも丁寧に対応してくれて、誠実な相手だということはわかる。それでもやはり会う勇気は出なくて、雨音は断ろうと思った。とりあえず当たり障りのない言い訳を考えようと、パソコンを閉じて再び自分の部屋に戻って行った。
「おはよう、雨音」
明け方には雨は降っていなかったのに、家を出る頃に急に降り始め、その日は結局バスで登校することになった。水色の傘を傘立てにさして上履きに履き替えていると、背後から智子に声をかけられた。
「おはよう。あれ、美雪は?」
「今日はあの子日直だから、先に日誌取りに行ってる」
休み明けの憂鬱と雨の日の気だるさが、昇降口に充満しているような気がする。雨音はそっと溜息をつくと、智子と並んで三階にある教室へと向かった。
「雨音、なんか顔色悪いよ。大丈夫?」
智子が眉間に皺を寄せ、心配そうに雨音の顔を覗き込んできた。
「大丈夫だよ。変な夢を見てしまって、ちょっと寝不足なだけ」
「本当に?」
「本当に。元気だけが取り柄だから大丈夫!」
おどけたようにそう言って笑うと、ようやく智子も安心したような表情を見せた。
大丈夫だと智子には言ったものの、実際にはあまり大丈夫ではなかった。体調がどうこうというわけではない。ただ、ぼんやりとしてまったく集中ができないのだ。
結局、授業内容も休み時間の会話も上の空で、気づけば放課後になっていた。今日は早く帰ろう、雨音はそう思った。
「雨音、今日はバス?」
「うん」
教科書を鞄につめていると、智子が声をかけてきた。
「今日の雨音はあまり体調が良くなさそうだし、早く帰った方が良いよ」
斜め前の席の美雪も日誌を書く手を止めて、心配そうに雨音を見上げてくる。
「うん、そうする」
心配かけてごめんねと謝ると、ふたりは何言ってるのと笑い飛ばした。
「じゃ、また明日」
「気をつけてね」
ふたりに手を振り教室の外へ出る。廊下の喧騒の中を速足で歩く。
「澤田さん」
不意に背後から呼び止められた。
振り返ると、古典教諭の鈴木が立っていた。図書委員会の担当でもある。
「ちょうど良かったわ。これ、図書室に持って行ってくださらない?」
雨音が返事をする前に、何かの小冊子を押し付けられた。
「図書室のカウンターの、皆さんの目につくところに置いて頂きたいの」
「はあ」
皆さんの目につくところと言っても、そもそも図書室の利用者は一日平均十人くらいなんですけどと返したくなるが、何とか堪える。
「お願いしますわね」
そう言うと、鈴木はいそいそと職員室に戻って行った。悪い人ではないのだろうが、どうにもマイペースで困る。
雨音はついてないなと溜息をつくと、冊子を抱えて特別棟へと向かった。凪はいるだろうかと、ちらりと思った。雨音が教室を出る時に凪がまだいたかどうかは、意識していないので覚えていない。少し緊張して扉を開けると、常連の三年生しかいなかった。
カウンターに座っていた月曜日の当番に冊子を渡し、二言三言話して図書室を出た。
「あーあ、バス一本逃しちゃったなあ」
殆どの生徒が坂を下りたところにある駅から電車で通っているので、利用者の少ないバスの本数はさほど多くはない。ついてないなあとひとりごちると、雨音は渡り廊下を戻り、昇降口へと向かった。
案の定、バスは出たばかりで、予想はしていたものの雨音は肩を落とした。
朝から降っている雨はやむ気配がなく、相変わらずしとしとと降り続けている。雨音は智子と美雪から誕生日に貰った水色の傘をさしながら、水たまりに雨粒が落ちて波紋が広がる様子をぼんやりと眺めていた。
校舎の裏を走るバス通りは大して交通量は多くなく、周りは住宅街なので静かだ。昨日から色んな事に動揺していた気持ちが、雨の音を聴いていると少しずつ落ち着いてくる。その時、水たまりを踏む微かな靴音がして、雨音は何気なく振り返った。
そこには、緑色の傘をさした凪が立っていた。
沈黙が重いと、雨音はそう思った。
やはり今日はついてないと、仕事を押しつけてきた鈴木を恨めしく思う。せっかく浮上しかけた気持ちは再び萎んでしまった。
学校から少し先の道宇町に住む雨音は、晴れの日は自転車で登校して雨天の場合のみバスを利用しているが、更にその先の山手にある宇波町から通っている凪は常にバス通学だ。迂闊だったと雨音は後悔する。凪が図書室にいることばかりを警戒して、バス停で鉢合う可能性に考えが至らなかったのだ。
雨音の乗るバスは十五分後、凪の乗るバスも十分待たないと来ない。しかも雨の日はたいがいダイヤが乱れるので、更に待たされる可能性は高い。雨音は降りしきる雨の音に紛れて、今日何度目かの溜息をついた。
不意に風が吹き、バス停脇の街路樹の枝が揺れる。その拍子に、大粒の滴が降ってきた。雨粒はぱらぱらと音をたてながら雨音の水色の傘を滑り、足もとの水たまりへと落ちてゆく。斜め後ろに少し離れて立っている凪の気配を左半身で感じながら、次々と水たまりに波紋が重なり合って円が広がっていく様を、雨音はぼんやりと見つめていた。
不意に後ろから、ぐいっと腕を引っ張られた。
小さく悲鳴を上げると同時に、大型トラックが水たまりを派手に蹴散らして猛スピードで通り過ぎて行く。振り返ると、凪が乱暴な運転だなあと呟きながら、走り去ったトラックを見送っていた。あのまま立っていたら、制服がずぶ濡れになっていただろう。
「ありがとう」
「いや、驚かせてごめん」
無表情でそう言うと、凪は掴んでいた雨音の左腕を離した。
バスを待つふたりの距離は先程よりも縮まったが、相変わらずそこには雨の音と、通り過ぎる車の音しかしない。
ふたりの間の沈黙が、雨音にはひどく不自然なものに感じられた。
「よく降るね」
何気ない口調で緊張を隠し、雨音はひとりごとのように呟いた。
「そうだね」
左隣から聞こえてきた返答はそっけないものだったけれど、雨音の心の中に安堵と、そして微かな喜びが広がる。
「でも、雨は嫌いじゃないな。わたし、昔から雨の音を聴いてると何だか落ち着くの」
再び風が吹き、街路樹の葉から大粒の滴が零れ落ちてぱたぱたと傘を鳴らす。
「名前の影響かな」
返事はまったく期待していなかったので、一瞬の間をおいて返ってきた言葉に、雨音は思わず凪の方を振り返った。
「うん。雨の音を聴きながら生まれてきたから」
「俺は、風の匂いをかいだら落ち着く」
まるでひとりごとのように、道路の先を見つめながら凪が呟いた。
「名前は凪いでるのに?」
「うん、凪いでるのに」
視線はそのままに、凪が微かに口角を上げた。
再びふたりの間に沈黙がおとずれる。しかしそれは、先程感じたような、今までに感じたような、不自然な沈黙ではなかった。
「わたし……」
一瞬躊躇したが、思い切って雨音は言葉を継いだ。
「わたし、谷岡くんにずっと避けられていると思ってた」
ずっとバスがやって来る方向を見つめていた凪が、はじめて雨音と視線を合わせた。ただ黙って、見つめ合っていた。
気だるそうなエンジン音を発しながら、『宇波公民館前』と書かれたバスがやって来る。水を撥ねながら停車したバスのドアが開き、凪は何も言わず静かに緑色の傘をたたんだ。そのままバスのステップに足をかけ、ちらりと雨音を振り返る。その瞳は複雑な色を湛え、雨音には凪の心情を読み取ることができない。
結局、何も言わないままに凪はバスに乗り込むと、ドアはブザー音と共に閉まった。そうして凪を乗せたバスは、雨音をおいて雨の中を走り去って行った。
再び、世界は雨の音だけになる。
一瞬見せてくれた微かな笑みが自分でも意外なくらい嬉しくて、いつも感じていた距離は、実は自分の錯覚なのかと思うくらい自然に言葉を交わすことができた。だから、避けられているという言葉をきっと否定してくれると、はっきりとした否定の言葉をくれないまでも、呆れた表情とか苦笑で答をもらえるとばかり思っていたのに。肯定でも否定でもない、曖昧な表情だけを残して凪は去って行ってしまったのだ。
雨音はこれまでよりも更に凪を遠くに感じ、遠くに感じていることに驚くほど落胆している自分に戸惑っていた。
道路の向こうを背伸びして眺めてみたが、まだバスが来る気配はなかった。
2010/11/09